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1931年生まれ。87年、資生堂社長に。会長を経て名誉会長。祖父の有信は1872年、銀座レンガ街で同社を起こした創業者だ。写真は、東京画廊の山本豊津さん(右)と語り合う福原さん。画廊内に並ぶのは北川宏人展(25日まで)の作品群=多田貫司撮影
銀座2丁目の交差点。高級ブランドの出店・改装が相次ぎ、斬新なデザインの建築が増える最近の銀座を象徴する一角だ。建築家のピーター・マリノ氏が設計したシャネルなど、海外ブランド4店が華やかに個性を競い合う。昨年秋オープンしたブルガリ銀座タワーのショーウインドーを前に、福原さんは「いいですね、雰囲気があって」。
その隣を見ると、創業100年を超す文房具店、伊東屋が。流行の先端と伝統がここでは同居する。「会社で海外担当をしていたころ、フランスから招いた雑誌の編集幹部は『東京は何と人間サイズの街なのか』と感嘆していました。事務所の隣に理髪店、さらに書店と飽きさせない。人間の感情を具体的に見せてくれる街だというのです」
雑然とした面を残し、だからこそ人間的な活気を失わない。東京の個性であり、一つの文化とも言えるだろう。
街の成り立ちは1872年の大火の後、当時の東京府が推進し、英国人技師ウォートルスが設計したレンガ街にさかのぼる。ただし発展を担ったのは、全国から集まった商人たちだ。福原さんは「銀座は公設民営のよいモデルですね」と説明する。「寄り合い所帯ですが、自治の精神と、入ってくる店舗を快く受け入れる体質を守ってきた。だから時代によって常に姿は変わりながらも、銀座は130年以上続いてきたのです」
文化の拠点にも同じことが言える。公的施設の代わりに約90年の歴史を誇る資生堂ギャラリー、王子ホールなど企業系の施設があり、何より日本一の画廊街なのだから。
銀座8丁目の東京画廊を訪ねた。戦後美術を先導した老舗画廊で、2002年には現代美術熱が高まる北京にもいち早く拠点を構えた。代表の山本豊津さんとの会話は、日中の比較論に向かった。
「東京に比べると、北京は計画し過ぎていますね」と福原さんは言う。かつて素朴なよさを感じさせた路地は取り壊され、画一化が進んだ。銀座には大通りがあり、裏側に個性的な店舗が広がるから、奥行きや多様性が備わる。
山本さんも「我々が100年がかりでやったことを、中国は近代を経由せず、一気に進めているのだと思う」とした上で、米国で人気のすしカリフォルニア・ロールをめぐる一説を紹介した。「あれを食べていた外国人が日本に来ると、本物は全然違うと気づき、みやげ話として広めてくれるそうです。入り口がわかりやすく、奥が深いと文化は普及するのでしょう」
ただし、山本さんは懸念を口にした。「中国では美術市場が動き、現実主義的に政策が後追いした。韓国の美術見本市も国が援助している。東京が存在感を保てるか心配なんです」。確かに日本では、官の施策と民の活力がかみ合っていない感が否めない。だからと言って、官が強力な方向付けをすれば、再開発が路地をなくしてきたように、多様性を損なうだろう――。
資生堂本社で、改めて福原さんの考え方を聞いた。官民の役割分担については「民がうまく行っている時、官は自分の手柄にせず、後押しすればいいのです」とずばり。
ただし世界的な都市間競争の中で、「このままでは迫力がない」と認める。「実体として多様な文化がある。しかし、イメージとしてはうまく伝えられていない。イメージ作りを担うプロデューサー役を、若い世代の中から育てていかなければなりません」
その際、大切なことがあるという。「20世紀のように海外をまねる時代はとっくに終わっている。日本とは何か、東京とは何か、自ら考え、創造する努力が必要です」。まず足元を見つめ直すことが、文化発信力を高める出発点と言えるかもしれない。