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仲森 友英

仲森 友英 【略歴

「役に立つか立たないか」はひとまず置いておく

―附属高校の教師として―

仲森 友英/中央大学高等学校地理歴史科教諭

教育者とは

 人が社会を作り、その社会を安定して営み、そして次世代に引き継ぐ上において、教育はなくてはならないものです。唐突な書き出しかと思われるかもしれませんが、例えば、言語能力では、「聞くこと」、「話すこと」は家族の中でも習得可能です。しかし、他者とのコミュニケーションをとる際には、一定のルールが必要になることはすぐにわかることであり、それを適切な人物から学ばなければならなくなります。

 そして成長とともに「読むこと」、「書くこと」が求められ、一気に複雑な思考回路を必要とする世界に突入します。こうした世界では、なおさら適切な人物の下で学ぶことが必須になります。ここで確認しておきたいことは、小さい子供が必要に迫られて主体的に教育を望むことを大人が求めるのではなく、社会を構成する大人の方が、教育するという欲望を持たねばならないということです。欲望と書きましたが、これは個人主義的な欲望とは異なり、集団のために寄与することを目的とするいわば無償の欲望というものです。自分自身に直接的に金銭的な利益や心地よい快楽をもたらすことはないけれども、この欲望を行使することが廻り回って自分に戻ってくるという「情けは人の為ならず」の考えです。

 つまり、教育とは、利益とは無縁のところに存在するものであることを確認したいのです。初等教育、中等教育、高等教育に至るまで、原則として教育を行う者は、金銭的な見返りを求めて実践してはいません。中等教育期では教えたいから教える、高等教育期では、学びたい人間を前にしているから教えるのです。教育者であるならばこの前提に異議を唱える人はいないのではないでしょうか。

現在の教育現場に対する風当たり

 そのように考えるならば、昨今の教育に関する問題点が浮かび上がってくるのではないかと考えます。例を挙げると、「グローバル」の掛け声による英語の問題です。私には、「今までの英語教育では駄目だ(つまり、話せない)から、それを改めて、とにかく話せるようにすればいいのだ」というように聞こえてしまうのです。そんなことはどこにも書いていないではないかという声が聞こえてきそうですが、今の世の中の全体を見渡した時、そのように受け止めることが「正しい」リテラシーだと思えるのです。それは、英語が話せることでより多くの外国人の方々を迎え入れる環境が整い、日本が豊かになる、つまりお金が入るという話になっているのです。日本文化を紹介するよりも、まずは人を呼び寄せる環境を整備しましょうということにしか思えないのです。

 一つの側面から見た場合、「四の五の言わず、とりあえず英語をやればいい」というおせっかい的な話は、まさに教育の原点でもあるのですが、そういう問題ではありません。日本は、日本語を基盤とする社会で構成され、その基盤の上に生活が続いてきたのです。この論でいう教育の第一義的な意味は、この社会、生活を次世代に引き渡すための無償の行動であって、お金儲けのために行うこととは本質的に異なるということです。誤解のないように申し上げますが、私は、英語をしっかり学ぶべきだと思っていますし、外国から多くの方々が来日されることを心の底から願っています。そのためには、まずは、自国の言語を豊かにし、自国の文化に触れることが先のはずです。私は日本史の教師をしていますが、日本史に限らず、人文系の科目は生徒達にとって、不必要な科目として扱うようになってきています。国語にしても、現代文ならまだしも、古文・漢文は、学んで何の意味があるのかという雰囲気を現場にいる者として、ひしひしと感じます。ただ、生徒達ばかりを責めるわけにはいきません。私の高校生時代も「なぜ日本史?なぜ古文・漢文を?」という思いがあったのは事実です。しかし、今ほど役に立たないのではないかと考えていたとは思えません。その理由の一つとして、30年ほど前、つまりバブルが絶頂となり弾ける前までは、社会全体において教養に対する信頼が残っていたからではないかと推察しています。

「効率」と教育

 ここで、「効率」というキーワードを挙げることにしましょう。英語教育や、日本史、古文・漢文の話を持ち出したのは、「効率」を考え始めてしまうと本来の意味を失ってしまうことをお話ししたいがゆえなのです。ここでも、誤解のないようにあらかじめ申し上げておきますが、私は、非効率がよいと言っているわけでもなく、今の社会を否定しているわけでもありません。この世の中で、効率化を進めたり、合理性を追求することからは逃れられません。人は誰しも豊かな生活をしたいわけですし、一定程度の生活をするためにはお金を稼がねばなりません。利益を産み出すためには、非効率的でよいわけはないのです。ただ、教育の本質と「効率」は相容れないことをどこかで確認し続けないと、私たちの社会にいずれ大きなしっぺ返しが来るのではないか、という懸念をお伝えしたいのです。

 しかし、話はそう簡単ではありません。多くの児童・生徒に対して一定の学力を身につけさせるには、テストを実施し、それに基づいて成績を出す必要が生じます。相対評価ではなく、絶対評価を導入したとしても、現実的には、相対評価でなければ成績をつけられる側からも不平や不満が出てしまいますし、一定規模の集団を教育するには、「効率」的に学習させる必要があるため、テストで学力層を分けなければなりません。そのテストでクラスが分かれるくらいならまだしも、後のちの人生にまで影響が及ぶとなるといかに「効率」よく点数をとるかという技術が求められます。こうして考えていくと、果ては均一な労働力を産み出すために、効率的な教育システムを構築した近代国家論にまで発展してしまいそうです。私は、そんな大げさな話にしたいわけではなく、もっと人の身の丈にあった話をしたいのです。

 それは、大きな論を展開しなくとも、大胆な制度改革を実行しなくとも、社会の構成員である大人一人ひとりが、小学校から大学に至る教育に対し、すぐに役立つという意味での教育を期待しないこと、これを少しずつ考えてみませんか、ということなのです。ここまで読んでいただいて拍子抜けされるかもしれませんが、大切なことは、自立した個人それぞれが、自分の身の丈に合ったことを少しずつ、かつ継続して実践すること、そして世の風潮から一歩距離をおいて、広い視野から多面的かつ歴史的に(時間軸を想定して)考察する心構えをもつことだと思うのです。

 表面的には効率を追い求めているかのようなドリル式の学習方法も、別な側面から見るならば、ある時期にはそうした方法で勉強することが次のステップにつながることが理解でき、悪いものではありません。他にも、受験で学力層を輪切りにすることも、安定した学習環境を生徒に保証するための手段であり、生徒の側にしても、大きな学力差がないことから安心して学習できる場となっていることを考えると否定ばかりにはならないでしょう。要するに、今ある教育方法を批判したり変えることは易しく、生身の人間に合った教育を産み出していくことは難しいのです。ここでも申し上げておきますが、変えてはいけないと言っているのではありません。変えるには慎重であるべきであり、その時々の経済を中心とする状況に左右されて教育は変更されるべきではないということなのです。

中央大学の附属校の教師として

 さて、これもまた唐突ですが、最後に中央大学の話に移りたいと思います。中央大学の建学の精神は、「實地應用ノ素ヲ養フ」です。空理空論、観念的な学問に陥らず、世のため人のために尽くす人物を輩出する使命を持つ大学であると申せましょう。表現を変えるなら、経済中心で動く世界で使われる「実学」と学問の府としての「実学」を峻別し、不易流行の精神で時代に掉さす良識の府が中央大学であり、中央大学が説く「グローバル」大学化は、百三十年の歴史が持つ知の営みを基盤とし、日本における世界の交流拠点を目指すものであると理解しています。

 よく中央大学は堅実であるけれども、地味であるという声を耳にします。確かに、中央大学と並んで引き合いに出される大学群の派手さからすると、インパクトに弱いという点は否めません。私も中央大学は母校であることから、そうした評判に対して歯がゆく思っていましたが、今回CHUOVISION 2025が発表されたことで少し溜飲を下げることができました。しかし、まだまだ世間からの評価が真っ当なものになっているとは感じられません。

 話がそれてしまいましたが、学問の場が堅実であることは基本中の基本です。そもそも中央大学は、一人の著名人によって創設された学校ではなく、複数の弁護士によって設立された経緯からしても、カリスマ性とは無縁の学校であることが中央大学のアイデンティティであると考えます。そうした学校だからこそ、校風が「質実剛健」のみで終わらず、全国的にも珍しい「家族的情味」の風を産み出したのだと思うのです。こうしてみると中央大学とは、実「学」を建学の精神としながらも、実「利」を求めるという効率化から最も遠いところに位置する教育機関として理想の学府になろうかと思います。

 中央大学の附属校である中央大学高等学校をはじめとする4校は、どの学校も中央大学の校風である「質実剛健」・「家族的情味」を基本として、それぞれの学校の特色を活かし中等教育に取り組んでいます。

 私が勤務する中央大学高等学校では、高校では高校で学ぶべき勉強を習得してもらうように努めています。それは、小学校では小学校の、中学では中学の、そして高校では高校においての知識や経験をそれぞれの段階で着実に習得していくことこそが、大学という高等教育機関において活躍できる近道であると思うからです。これからも、不易流行の言葉の通り、時流におもねることなく、変えるべきところは変えつつ、本校の「自分を育てる、世界を拓く。」の標語を体現する「真」にグローバルな人物を輩出する教育に取り組みたいと考えています。それが、世のため人のために尽力することができる中央大学の建学の理念に沿った人物の育成につながると思うのです。

 そのためにも、すぐに役立つかどうかを問わない家庭環境をお作りいただくとともに、効率化を優先する社会風潮に対して距離を置く考えを共有していただきたいのです。そうすることにより、今の子供達、青年達にとって、将来、必ずや居心地のよい社会が形成されることになると信じています。

仲森 友英(なかもり・ともひで)/中央大学高等学校地理歴史科教諭
広島県呉市出身。1969年生まれ。1992年中央大学文学部国史学専攻卒業。
1996年中央大学大学院文学研究科修士課程修了。
学部において石井正敏先生、大学院では皆川完一先生に師事する。
専攻は日本古代史。
現在、中央大学高等学校地理歴史科教諭(日本史)