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伊藤 洋司

伊藤 洋司【略歴

数学、文学、映画

伊藤 洋司/中央大学経済学部教授
専門分野 映画、フランス文学

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 数学好きの子供が、フランス文学者となり、さらに映画批評家になる物語。
表象しか知覚できず、実在について確実な知識を得られない有限的な人間。
近代の人間は科学を発達させる一方で、長篇小説と映画によって、表象というフィクションと豊かに戯れることを覚えた。

数学

 私は中央大学経済学部でフランス語を教えています。本来の肩書はフランス文学者ですが、世間からは映画批評家として原稿などの仕事を依頼されます。そのため今では研究活動も映画論が中心となっています。このようにやや状況が複雑なので、個人史を簡単に振り返ることから始めたいと思います。

 私自身は、文学研究や映画研究といった文系の学問に適した脳の持主ではありません。学校の勉強では数学が得意科目で、国語や英語はそれに比べれば苦手科目でした。明らかに理系の人間で、理系の学部に進んでいればこれほどの苦労はしなかったと思っています。実際、物心がついた頃は数学者になりたいと望んでいました。そんな私に変化が訪れたのは小学校二年生の時です。その頃、私は円周率に夢中でした。ベックマンの『πの歴史』など、円周率の本を買い漁っては読み耽り、自分の手で円周率を計算することに熱中していました。そんなある夜、いつになく計算に没頭していると、ついに小数点以下二四桁まで計算することができました。そしてふと頭をあげると澄んで綺麗な朝日がカーテンの隙間から部屋に差し込んでいたのです。生まれて初めての完全な徹夜でした。その時私は、なんて無意味なことをしてしまったんだと思いました。そして私は数学の本を読むのをやめて、小説に読み耽るようになりました。

 小学二年生の私には分かりませんでしたが、今なら分かることがあります。それは何より、当時の私は数学に無意味さを感じてその勉強をやめたのですが、実はこの無意味さこそが本質的であるということです。当時の年齢を考えれば、無意味であることよりも深い意味があることに意義を見出したのは仕方のないことでしょう。無意味とはいかなることなのか、幼き日の私には知る由もないことでした。

 当時の私はまだ数学の本質に触れてもいなかったのですから、そもそもこんな挫折の話は数学者に対して失礼極まりないものです。とはいえ、ここでもうひとつ指摘しておきたいのは、数学から文学へのこの関心の移行は確かに真から美への関心の移行に対応していたのですが、正確に言えば事態はもう少し複雑だったことです。幼少期の私にとって、数学は何より最も真理に近い学問でした。真理を知りたいというのが、私が数学にのめりこんだ主要な理由であるのは間違いありません。しかし、当時すでにはっきり自覚していたように、私は円周率などに美しさを感じていて、もしそれがなければ、決してこれほどには数学に熱中しなかったでしょう。一方、文学は数学に比べれば真理から遠いものですが、極めて直接的に美を追求するものです。つまり、私の関心の移行は、真理の美から虚実ないまぜの美への移行でもあったのです。当時どれほど自覚的だったかもう覚えていませんが、真と善と美の幸福な一致の決定的な崩壊を、私はこの頃確かに生きていました。

文学

 中学一年生の時に出会った本や映画は、その後の私の人生に大きな影響を与えました。私は筑波大学附属駒場中学校に入学しましたが、高校受験の必要がないので、幸いにも三年間、そこで好きな本と映画に没頭できました。中学一年生の私を虜にした小説と詩は、カミュの『異邦人』やランボーの『地獄の季節』、ボードレールの『悪の華』などです。ことさらフランス文学を選んで読んでいた訳ではありません。しかし気づいてみると、私が好きなのはほとんど近現代のフランスの作品でした。このようにして、大学生になったらフランス文学を専攻しようと、私は自然に決めていたのです。大学では卒論、修論、博論と全て、二〇世紀のフランス詩人ギヨーム・アポリネールを主題に取り上げましたが、アポリネールの詩を読んで強い感銘を受けたのも、中学一年生の時です。二年生から三年生にかけて、確かに私はドストエフスキーの『罪と罰』などのロシア文学、ガルシア=マルケスの『百年の孤独』などのラテンアメリカ文学、サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』などのアメリカ文学にも魅了されました。しかし、ロートレアモンの『マルドロールの歌』やロブ=グリエの『嫉妬』など、近現代のフランス文学は、私を最も魅惑するものであり続けました。

 映画を毎日観るようになったのも中学一年生の時です。それまではまわりの子供よりは映画をたくさん観ているという程度でした。映画が文学と同じように、いやそれ以上に豊かな表現形式であることに気づいたのが、中学一年生の時だったのです。特に、学年の終わり頃に観たゴダールの『勝手にしやがれ』と『気狂いピエロ』は私に大きな衝撃を与え、それからは毎日どころか年に七百本観るようになりました。いっぱしの映画狂です。もし今の時代の子供だったら、私も大学で映画論を専攻しようと考えたかも知れません。

 東京大学に入学すると私はフランス語を勉強し始め、希望通り文学部の仏文科に進学しました。子供の頃から仏文と決めていたのですから、もっと早くからフランス語の勉強を始めるべきでしたが、語学の苦手な私は、高校生までは英語の勉強だけで精一杯だったのです。そのまま仏文科の大学院に進学し、修士号を取って博士課程に進むと、交換留学生としてパリのエコールノルマルに留学し、同時にパリ第三大学の博士課程にも登録しました。実力不足のために博士論文の執筆は思うように進まず、私は結局六年半もパリで生活することになりました。パリ第三大学に提出した博士論文は、パリの出版社から後に本として出版されました。

 博士論文で私はアポリネールの恋愛書簡を取り上げました。詩でも短篇小説でもなく、手紙を研究するというのは、当時のアポリネール研究の状況を考慮したうえでの選択でした。多くの人は手紙の研究というと、作家の自伝的研究を想像するでしょう。しかし、私の論文は徹底したテクスト分析です。つまり、テクストの背後にある作家の実人生ではなく、テクストそのものを分析し、テクストの価値を明らかにしようとする研究なのです。ただし、ここで微妙な問題が生じます。作家の手紙といえども、それは作家が発表した文学作品とは性質の異なるテクストであり、資料的価値以外の価値を現代の読者に提示するのは自明ではないということです。確かに、アポリネールの恋愛書簡の場合は事情が少し異なります。この詩人は恋愛書簡のなかで詩を書いて、それを愛する女に捧げています。さらには一部の手紙を、後に本にまとめて出版することを考えながら書いてさえいるのです。従って、アポリネールの恋愛書簡の場合は、文学的価値を論じても問題がないように思われます。しかし、実際はそう単純ではありません。書簡詩の存在はあくまで書簡詩の文学性しか保証せず、それだけでは、書簡の地の文には文学性がないことになります。だが私の見解は、地の文にも文学性がある程度存在するというものです。次に、出版の意図ですが、こうした作者の意図によってテクストの文学性が定まるというのは滑稽なことです。テクストは、作者が文学作品だと主張すれば文学性を持つ訳ではなく、文学作品ではないと言えば、文学性がなくなる訳でもありません。そもそも、作者の意図が分からないテクストなど数多く存在します。テクストの文学性はあくまでテクスト内の要素によって決まる筈です。このような訳で、アポリネールの恋愛書簡を研究するには、書簡の文学性とは何か、テクストの文学性とはそもそも何なのかという問いを考察しなければなりませんでした。その上で、書簡本来のコミュニケーションの機能についても分析しつつ、私はアポリネールの恋愛書簡の文学性に肉薄しようとしました。

映画

『やさしい人』
© 2013 RECTANGLE PRODUCTIONS -
WILD BUNCH - FRANCE 3 CINEMA

 パリ第三大学で博士号を取得して帰国すると、私は中央大学に就職しました。アポリネール研究を続ける一方で、映画批評の仕事も本格的に開始しました。すでに留学の直前に、『ユリイカ』のドゥルーズ『シネマ』特集号に執筆していましたが、留学中は仕事の依頼も微々たるものでした。就職直前に『週刊読書人』で始めた「映画時評」の連載は、映画批評家としての私の代表的な仕事となっていきます。『週刊読書人』では、黒沢清、青山真治、パスカル・フェラン、ギヨーム・ブラックといった映画監督へのインタビューも行ない、東京大学元総長で映画批評家の蓮實重彦とも繰り返し対談を行ないました。また、中央大学出版部発行の『中央評論』では、編集委員として映画の特集を企画してもいます。さらには映画のパンフレットへの寄稿も依頼され、ロウ・イエの『スプリング・フィーバー』、ロベール・ブレッソンの『白夜』、ギヨーム・ブラックの『やさしい人』、パスカル・フェランの『バードピープル』などのパンフレットに執筆しました。最近は『ユリイカ』の映画特集でも再び声がかかるようになり、高峰秀子特集や原節子特集などに寄稿しています。最後に、中央大学人文科学研究所の研究叢書を編纂して、そこに、長年の友人でもある映画監督の堀禎一に関する論文を執筆したことも記しておきます。

 私はかつて映画を純粋な趣味の対象とみなしていましたが、いつの間にか、批評と研究の対象になっていました。そして今、改めて私が思うのは、東京大学で受けた蓮實重彦先生の講義が私の映画の仕事に与えた影響の大きさです。経済学部ではフランス語の授業がほとんどですが、文学部で私が担当している映画論の講義の基本的な方針は、蓮實先生から直接受け継いだものです。講義だけでなく、映画批評の仕事にもその影響ははっきり表れています。

フィクション

『白夜』
© Gian Vittorio Baldi

『バードピープル』
© Archipel 35 - France 2 Cinema-
Titre et Structure Production

 ところで、映画の喜びとは一体いかなるものでしょうか。この重要な問題に対して、映画批評家としての私なりの見解を述べておきたいと思います。映画に関する私の仕事の本質に関わる問題だからです。何より確認すべきなのは、映画は目の前に拡がる現実を完全には再現できないことです。現実という言葉が何を指すかは人によって微妙に異なるので、正確には実在あるいは実在世界と呼ぶべきでしょう。ともかく、いかなるドキュメンタリー映画にも演出が存在し、演出が存在する以上それはフィクションなのです。編集が一切なくカメラが全く動かなくても、カメラがある特定の場所に置かれた瞬間に演出は生じてしまうのです。さらに、カメラがどれほど高性能であろうとも、それが撮影する映像はレンズの前に拡がる実在とは異なります。もしいかなる差異も存在しないならば、それはもはや映像ではありません。人はしばしばノンフィクションという言葉を安易に使いますが、言葉の厳密な意味でノンフィクションの映画は存在しません。リアリズムがフィクションの一様式であるように、ドキュメンタリーもフィクションの一分野なのです。

 それ故本質的なのは、全ての映画はフィクションであるということです。そして、人は映画のフィクションと戯れる喜びを覚えたのです。

 この戯れの習得は、近代の人間にとってある意味で必然的だったのかも知れません。何故なら、近代とは人間が自らの有限性を自覚した時代であり、そんな時代には、人間は真実から遠ざけられて、フィクションを自覚的に構築するしかないからです。どういうことでしょうか。哲学者のカントは『純粋理性批判』において物自体と現象を区別し、人間が知覚するのは現象であって、物自体は知覚できないとしました。こうして、全能の神ではない有限的な人間の知性の限界を主張したのです。物自体と現象は実在と表象と言い換えてもいいでしょう。人が目で見て耳で聞くものは、実在ではなくその表象に過ぎません。勿論、近代科学は表象を通じて実在世界を明らかにしようと探究を続けていて、それは極めて重要な行為です。しかしそこで明らかになるのはあくまで真理らしいものに過ぎず、不確実性は決してなくなりません。そうであれば、私たちが知覚する表象世界それ自体の豊かさを積極的に味わおうという態度も当然出てきます。表象は実在と異なり、両者の間に差異が必ず存在する以上、あらゆる表象はフィクションであると言えます。表象の豊かさを味わうというのは、フィクションと戯れることに他なりません。

 映画の映像もカメラという機械によって捉えられた実在の表象です。それ故、映画という表現形式は、表象の豊かさを積極的に味わう格好の手段となりました。近代の人間は長篇小説と映画によって、フィクションと大胆に戯れるようになったのです。

 映画が実在世界の真理ではなく表象というフィクションに関わるからといって、価値のない表現形式だということにはなりません。有限的な人間は実在世界の真理を知りえませんが、近代科学が明らかにする暫定的な真理は、実在とはただ存在するだけの空虚なもので、実在世界それ自体に意味はないということです。もし神が存在し、宇宙を創造したのなら、宇宙という実在世界には意味があるのでしょう。それならば、絶対的な価値も存在する筈です。しかし神のない実在世界はただ偶然的に存在するだけで、それ自体いかなる意味も価値も持たないのです。従って、人が主張する価値は全て、人が作り上げたフィクションでしかないことになります。森鴎外の短篇「かのように」で、「価値あるものは、皆この意識した嘘だ」と秀麿が語るように、世の中の価値は全て嘘、創作物に過ぎません。しかし、あらゆる価値を否定して生きていくことなど、人は実際にはできません。結局のところ、有限的な人間は心の底では嘘だと意識しながら、なんらかの価値をあたかも本当に信じている「かのように」振舞って生きていくしかないのです。これがフィクションと戯れるということなのです。

 地球が火星よりも貴重な惑星であるとするのも、人類ないし生物を中心とする価値観によるものです。生命が存在しない惑星は存在する惑星よりも劣っているというのは、相対的なひとつの価値観に過ぎないのです。極端なことを言えば、人類が滅亡しようと、広大な宇宙にとっては些細なことかも知れません。見方によっては、自分勝手に自然を破壊する人類は早く滅亡するほうが、地球にとっても、宇宙全体にとってもいいことなのかも知れません。

 人間は普遍的な真や善や美から隔てられています。映画の喜びは、相対的な偽りの価値を生きるしかない人間が、表象というフィクションに豊かさを見出す時に得る儚い喜びに他なりません。

伊藤 洋司(いとう・ようじ)/中央大学経済学部教授
専門分野 映画、フランス文学
東京都出身。1969年生まれ。1994年東京大学文学部卒業。
1996年東京大学大学院人文社会系研究科修士課程修了。
2003年東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得満期退学。
同年パリ第3大学大学院フランス文学文明学科博士課程修了。 文学博士(パリ第3大学)
中央大学経済学部専任講師・准教授を経て2012年より現職、現在の研究課題は、映画美学におけるフィクションの研究などである。主要著書(単著)に、『Apollinaire et la lettre d'amour』(Editions Connaissances et Savoirs, 2005年)などがある。また、『週刊読書人』にて、「映画時評」連載中。