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妹尾 達彦

妹尾 達彦 【略歴

教養講座

東アジアの都市史を求めて

妹尾 達彦/中央大学文学部教授
専門分野 中国都市史、7~8世紀の東アジア史

1974~75年のユーラシア大陸

 今からふりかえれば、私が都市の歴史に興味をもち始め現在の研究の出発点となったのは、大学を休学して羽田空港から香港を経由してバンコクに降り立った時ということになります。その時、1974年11月上旬の私は、ロンドンに向けてユーラシア大陸横断の旅に出る一人のアジアのバックパッカーでした。

 広島県東部の小さな町に生まれ、親の転勤により東京の西郊で育ち、京都の大学に進学した私は、日本列島における東西の風土と町の人々の生活の違いに興味をもっていました。ただ、日本とは異なる言葉と食べ物、街並み、人々の顔立ちや衣装にふれ、「世界」の存在を知ったのは、古都バンコクの路上においてです。スコールの後の水しぶきをあげて街中を駆け抜ける三輪自動車の乗客となり、黄色い袈裟を着た僧侶とともに河を渡る小舟に乗って曉の寺を巡り、香辛料の香りただよう市場の片隅の屋台で熱々のトムヤムクンを口にしながら、私は、目の前に展開する初めての外国の風景に圧倒的に魅了されていました。

 バンコクからタイ・インターナショナルの飛行機に乗り、バングラデシュのダッカを経てニューデリーに向かう時、窓の外にはずっと雪をいただくヒマラヤ山脈が続きます。これから先の長い旅を思い緊張しきっていた私は、ヒマラヤの白い峰々に旅の安全を祈らずにはいられませんでした。そのおかげか、四ヶ月後に、私は無事にロンドンのトラファルガー広場に立つことができました。インドでは、まず、最南端のコモリン岬まで鉄路とバスで南下し、それから北上して、パキスタン、アフガニスタン、イラン、トルコの各国を抜けてギリシャのアテネのピレウス港にたどり着いたのは1975年2月のことです。エーゲ海の島々では、待宵草によく似た黄色い花が一面に咲き始めていました。

 1974年当時のインドの首相は初代首相ネルーの一人娘インディラ・ガンディー(1917~84)であり、走っている車の大半は国産車のアンバサダーで、政府は国民経済の育成をめざしていました。アフガニスタンでは、親ソ連政権が成立した翌年にあたり、2001年に破壊されるバーミアンの石仏と石窟寺院が観光の目玉となり始めていました。イランは、パフラヴィー朝(1925-79)の末期で、大都市に生活する人々の貧富の格差に驚かされました。その後、アフガニスタン紛争(1978~89)やホメイニ革命(1979)等によって、この地域の地政学的位置づけは根本的に変化します。ムスリムの旅人たちに混じり、カイバル峠を越えアフガニスタン北部のオアシス都市をたどりながら時間をかけて陸路の旅をすることができた時代が、今は夢のようです。

ユーラシア大陸を東西に貫く共通文化の帯

 ユーラシア大陸横断の旅で感じたことは、ユーラシア大陸が東西に陸続きであり、文化が共通性に富んでいることです。これは、実際に歩けばあたりまえのことなのですが、日本で暮らしていた時には想像もできないことでした。高校の世界史の授業でも全く教わっていません。インド北部から東欧にいたる地域は、農業地域と遊牧地域がまだら模様に混交しており、小麦を主食とし乳製品や羊肉を好む食文化、中庭から光をとる住居構造、城壁をもつ町々や村々、多様ではあるが原理は類似する弦楽器と旋法、論理的で抽象性を好む知識人の議論の仕方などの点において、とてもよく似ていると感じました。ユーラシア大陸の北緯30°~40°前後には、牧畜文化と農業文化が融合する文化帯が一万キロ以上にわたって続いていたのです。

 この点において、ユーラシア大陸の遊牧地域に接しない日本列島は、近代にいたるまで遊牧系の政権による征服王朝が無かった稀な地域の一つであり(日本列島に到来したものは騎馬文化であり騎馬民族ではありません)、したがって上記の農牧複合文化が日本列島に定着することもなかったのです。このことが日本文化の大きな特色となっており、日本人にとってユーラシア大陸の歴史の理解が容易ではない要因にもなっていると感じます。

 1980年代になり、現在の研究のフィールドである中国関中平野の西安(かつての長安)を初めて訪れることができ、今日まで継続している都市調査が始まりました。その調査の過程で、私は、中国北部が中央アジアを経て東欧に続くかつて自分が旅行した農牧複合文化圏の東端に位置していることに気づきました。こうして、青年時代の経験と自分の進むべき研究課題が一致しました。私が西安で師事した陝西師範大学歴史地理研究所所長の史念海教授(1912~2001)は、中国における農牧複合文化帯の研究の第一人者であり、黄土高原の歴史都市の実地調査に同行させていただく中で、私の研究生活が本格的に始まったのです。現在、私は、このユーラシア大陸を東西に貫く農業と遊牧が複合する長大な文化帯の歴史に興味をいだきながら、個別テーマとしては関中平野の都市の歴史を専攻しています。

アメリカ・イギリス・中国の古都とユーラシア的源流

 都市史の研究を進める上で、1991年から92年にかけて、アメリカ東部の大学都市の研究所に招かれ自由に研究する機会を与えられたことは幸いでした。ヨーロッパと連動するアメリカ東部の歴史を凝縮するボストンで、農牧地帯についての私の印象と類似した人類学者や宗教学者の見解が存在することを知ったことは大きな励みとなりました。2009年から10年にかけては、そのアメリカの大学の源流となったイギリスの大学町で仕事をする幸運に恵まれました。中世の修道院をおもわせる大学の森の中の宿舎で過ごす日々で、イギリス伝統の経験主義的な歴史学が、大陸的な理論志向や比較研究とも実は密接な関係をもっていることを知りました。

 欧米での研究生活は2年少しの短い期間でしたが、その間に、私は、欧米の学問文化の源流が、ギリシャ・ローマ文化のさらに源流をなす、ユーラシア・アフリカ大陸の農牧複合文化帯にあるのではないかと感じるようになりました。実は、この印象は、中国文化の源流が農牧複合地帯の文化に由来するという、西安の調査の中で生じた考えと対をなすものであり、西安での印象の反復でもありました。そこで、イギリス滞在中は、東欧各地域を再訪して関中平野との同異点を探る旅もしました。とくに、学生時代から愛読したルーマニアの比較宗教学者のミルチャ・エリアーデ(M.Eliade 1907~86)の実家のあるブカレストの街角を訪ねることで、エリアーデのユーラシア文化のもつ牧畜的要素と農耕的要素の二重構造論が、東西文化の境域に位置するブカレストだからこそ生まれた考えであることを実感しました。ブカレストは西安にほかならない、と思いました。

都市網の歴史から人類史の叙述に向かって

 東アジアの都市網の変遷を考えるに際し、私は二つの仮説を提示しています。すなわち、(1)東西の同じ環境と南北の異なる環境の組み合わせによってユーラシア大陸の歴史が展開するという仮説と、(2)歴史の主要舞台は環境の境域に立地し、その環境の境域は、農業地域と遊牧地域の交錯する前近代の農牧複合地帯から、陸域と海域の交錯する近代の沿海地帯に移行するという仮説です。前近代のユーラシア大陸においては、南北の異なる生業間の物産の流通が日常の物流の根幹をなし、環境と生業を同じくする東西の同緯度地域間の流通がそれを補う役割を演じたといえます。物流の要となる環境の境域に、都市と国家が形成されたのは当然といえるでしょう。

 前近代の農牧複合地帯を核とする都市網から近代の沿海地帯への都市網の転換は、ユーラシア大陸における交通幹線が、陸路から水路・海路に転換し始める9世紀前後に始まり、銀の流通による世界の一体化の進む16世紀以後に加速して18、19世紀に頂点に達し、人類の政治・経済・軍事・社会・文化制度の全体にかかわる変革をもたらしました。

 私たちは、16世紀以後の沿海地帯の時代の住民であるために、かつて人類の歴史の主要舞台となった農牧複合地帯の歴史の重要性を、ほとんど忘れ去ってしまいました。私は、関中平野を中核とする東アジア都市網の時代を再現することで、歴史の欠落を補い、将来の歴史学の主要課題となるに違いない人類史の叙述に少しでも貢献できる研究をめざしたいと願っています。

妹尾 達彦(せお・たつひこ)/中央大学文学部教授
専門分野 中国都市史、7~8世紀の東アジア史
広島県出身。1952年生まれ。1977年立命館大学文学部卒業。1979年大阪大学文学研究科修士課程修了。1983年同大学博士課程単位取得退学。北海道教育大学助教授、筑波大学歴史・人類学系助教授をへて2000年より現職。1991~92年ハーバード大学燕京研究所招聘研究員、2009年ケンブリッジ大学セント・ジョンズカレッジ招聘学者。1995年より中国陝西師範大学客員教授。現在の主な研究課題は、4~13世紀の東アジア都市史。主な著書に『長安の都市計画』(講談社、2001年、韓国語訳2006年、中国語訳2012年)、編著に『都市と環境の歴史学 第1集~第4集』(中央大学文学部東洋史学研究室、2006年~2013年)などがある。