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特別企画

【対談】堂場瞬一×宇佐美毅

小説とテレビドラマに見る「今」という時代

 小説やテレビドラマは、エンターテインメントとしてはもちろん、日本の風俗文化を考える上でも欠かせない要素の一つ。多数の作品がドラマ化されている小説家と、小説やテレビドラマを研究する文学者──。日本の活字文化や映像文化に当事者として関わる二人が、それぞれの魅力や影響力、二つの文化から見えてくる時代性などについて語り合った。

小説やドラマ、「共感」を求める方向に変化

宇佐美
 私は明治期の日本文学や、村上春樹をはじめとする現代小説を研究してきました。最近では文学だけに飽きたらず、テレビドラマの研究にも取り組んでいます。研究者として、小説やドラマの書き手とお話しできる機会というのはとても貴重で、今日は本当にうれしく思っています。
堂場
 ありがとうございます。最近は、小説とテレビドラマがリンクすることも増えてきましたね。ぼくはスポーツ小説や警察小説を書いているのですが、ここ10年ほどは警察小説、刑事ドラマともブームで、自分の作品がドラマ化される機会も多くなりました。それにしても、テレビドラマはすでに50年以上の歴史があるのに、先生のように研究対象としている方はまだ少ないですね。
宇佐美
 その通りです。フィクション研究の中でもテレビドラマは一番遅れている分野なので、誰かがやらなくてはいけないと思いまして。テレビドラマはできるだけたくさんの人が理解できるよう定型的に作られていて、分析や解明をする余地がないと思われがちです。しかし大部分は定型的でも、そうでない部分が3割はある。私はそこを掘り下げ、意義を解明していきたいのです。
堂場
 テレビドラマは、時代の傾向や特徴を知る上でも重要な資料になりますね。影響も大きく、最近では小説が若干ドラマ化してきているように思います。テレビドラマに「共感できること」を求める人が増え、それが小説にも影響をおよぼしているのかもしれません。ぼくは、小説やドラマは他人が作ったものなんだから共感できないのが当たり前だと考えているのですが、最近は「共感できないからつまらない」と言う人が多い。これには危機意識があります。
宇佐美
 確かに。昔の小説の楽しみ方は、偉大な作家の筆致を味わったり、あり得ない世界に夢を膨らませたりというものが大半でした。でも今は、自分が共感できるポイントを探す方向に変わってきている。小説やテレビドラマの作り手にも、共感してもらうことに重点を置く人が増えていると感じます。堂場さんは、自分の作品がドラマ化されるとどう感じることが多いですか?
堂場
 基本的に作家は自分勝手で思い込みが激しい生き物なので(笑)、原作に近い形でドラマ化された方がうれしいですね。でも原作と映像は別のものとも考えていて、完成したドラマは一人の視聴者として楽しく見ています。原作とはかなり違う脚本を見せられても、脚本家が情熱をもってぶつかってきてくれると、同じ作り手として共感することもあります。ただ最近は、小説や漫画などを原作にしたテレビドラマが増えている気がします。どうしてでしょう。
宇佐美
 小説や映画と違って、ドラマはとにかく1度見てもらわないと始まらないので、そこに原作ファンを取り込みたいという思いがあると思います。それから、アイデアの枯渇もあるかもしれません。しかし、共感を求める作品が増えている中でも堂場さんの作風は硬派で、登場人物も個性派が多いですね。
堂場
 ぼくは、みんなが共感できるような人物を作っちゃうのは嫌なんですよ。もともと海外小説が好きで、文化や思想などが異なる国の物語を読んできたせいもあるかもしれません。今はアフリカ発のエンターテインメント小説を読んでいますが、政治や風土が全然違うので非常にわかりにくい。でも、日本人の感覚では理解できないからといって、放り出してしまうのはもったいないですよね。ぼくにとって小説の醍醐味は、とても共感できないような「知らない世界」に触れられる点にあるんです。

敗者やバッドエンドの物語に見るリアリティー

宇佐美
 もう一つ、堂場さんの警察小説から感じたのは「リアリティー」です。ミステリーによくある伏線やそれまでの話がひっくり返るような仕掛けがないので、読んでいるうちに現実の出来事のように思えてくる。物語性が高いのにもかかわらず、その手法が実に自然で「あざとさを感じさせないリアル」という印象を受けました。
堂場
 実は、そこを狙っています。現実の世界では起こらないこと、つまりリアルでないことは書かないようにしているんです。密室犯罪とかどんでん返しとか、現実にはほとんど起こらないでしょう。これからも本当に起こりそうな物語を、そして共感できない人物を(笑)描いていくつもりです。
宇佐美
 堂場さんの作品は「リアルなフィクション」ですが、物語性というのはノンフィクションにも見出すことができると思います。例えば、女子サッカー「なでしこジャパン」のワールドカップ優勝はノンフィクションですが、人びとは、選手たちの努力や苦労の果ての優勝といった、ある種の物語性をそこに見出そうとしました。人々を熱狂させるのはこの「物語性」で、それを凝縮してくっきりと見せてくれるのがフィクションではないでしょうか。堂場さんは新聞記者出身でノンフィクションにも詳しいと思いますが、フィクションの道を選んだのはなぜですか?
堂場
 フィクションを選んだというよりも、ノンフィクションは怖くて書けなかったというのが本当のところです。事実というのは見る人によって異なってくるので、自分が事実だと思って書いても全否定されることがある。その怖さを新聞記者時代に痛感しました。そこへいくとフィクションは一から自分で考えられますし、批判されても自分で責任を取れますからね。物語性については、実は最近はあえてなくすようにしているんです。
宇佐美
 フィクション小説の型にはまらないようにということですか?
堂場
 そうですね。人が感動できるパターンはどうしても限られてくるので、そこにはまりたくないという思いがあります。スポーツ小説なら、努力と根性で勝利というのが、感動の王道パターンなんですが、ぼくは、頑張ったけど負けたとかいつも2位とか、そういう物語が好きなんです。現実の世界では1位になる人はほんの一握りで、大多数の人は負けるわけですよね。だからこそ、物語としては1位になるものが好まれるのでしょうが、ぼくとしてはそこに違和感を覚えます。実は秋ごろに出す新作は、オリンピックに出られるのに重圧に負けて逃げてしまう人の話なんですよ。
宇佐美
 それは楽しみです。ほかの小説とはまた違った形ですね。現実には1位になれない、栄光をつかめないことの方が圧倒的に多いですし、実際にオリンピック選手を見ていると「よく期待の重圧に負けないな」と思うことも多い。そう考えると、新作もまたリアリティーのある作品ですね。
堂場
 先生の専門分野であるテレビドラマでも、昔は敗北や悲劇を描いたものがたくさんありましたね。スポ根アニメの『巨人の星』も、最後は敗北の連続でした。とても苦い物語なのに、なぜか頑張って栄光をつかむ部分だけがみんなの記憶に残っている。子どものころによく見ていた『太陽にほえろ!』や『特捜最前線』などの刑事ドラマも、バッドエンドが多かった気がします。
宇佐美
 そうですね。1960~70年代に放映されていた『巨人の星』は、敗北を重ねながら永遠に栄光を目指し続ける話で、それでいて最後に栄光はないという悲劇の物語です。この時代にはほかにもバッドエンドのテレビドラマがたくさんあり、視聴者にも支持されていました。