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※掲載の肩書は取材当時のものです。

【cultura animi】 学習院と児玉幸多 ―没後10年「児玉幸多 ―歴史学に捧げた生涯」展

丸山 美季 (学習院大学史料館学芸員)

椎名町(豊島区長崎)の自宅前にて家族と 昭和19年(1944)1月21日
左から妻喬子、三男治幸、幸多、二男照幸、長男茂幸

 今年は、戦後の近世農村史・交通史研究において大きな足跡を残した歴史学者・児玉幸多先生が亡くなってから10年になります。これにちなみ、学習院大学史料館では、平成29年(2017)6月26日(月)~7月7日(金)まで「児玉幸多―歴史学に捧げた生涯」展を開催します。

 児玉幸多先生は、明治42年(1909)12月8日、長野県更級郡(現千曲市)稲荷山町の式内社治田神社の代々社家の家に生まれ、地元の稲荷山小学校を卒業後、大正11年(1922)に13才で上京します。成蹊中等学校、東京府立第二中学校(立川高校の前身)、成蹊高等学校を経て、東京帝国大学国史学科に入学しました。卒業後は、農林省嘱託として「林政史資料」編纂に従事し、昭和9年(1934)に鹿児島の第七高等学校造士館(現・鹿児島大学)の教授となりました。

戦前・戦中・戦後~学習院を支えて

小金井にて 昭和23年(1948)頃
前列左から、義宮正仁親王殿下(常陸宮正仁親王)、皇太子明仁親王殿下(今上陛下)、児玉幸多中等科長

 昭和13年(1938)正月、学習院教授の板澤武雄(1895-1962)から学習院に来ないかと誘われます。29才の時でした。以来、71歳までの42年間の長きにわたって学習院と歩みをともにし、その間、中等科長・女子短期大学学長・大学学長として学習院の運営に顕著な貢献を果たしました。

 学習院にとって、戦中から戦後直後の時期は学校存続の危機でしたが、その苦難の時代を山梨勝之進、安倍能成院長が先頭に立って乗り越え、昭和22年(1947)に私立学校財団法人学習院として再出発を果たします。両院長のもとで、教員の中心となって実務にあたったのが児玉先生でした。

 昭和14年(1939)10月、山梨勝之進が第17代院長に就任しました。戦局が悪化の一途をたどっていた昭和19年(1944)7月、児玉先生は、兼任事務官に任じられ、皇太子明仁親王殿下(今上陛下)のご教育に関することや学習院の学生の集団疎開や勤労動員その他の非常措置の計画や実施に、院長を援けて手腕を発揮しました。その合間を縫って、各地に分散する教え子の疎開先、勤労動員先に足を運びました。

東京帝国大学在学中講義ノート 昭和4年(1929)~7年(1932)頃

 終戦後、官立学校から私立学校として存続する目途がついた昭和21年(1946)、山梨院長に代わって、安倍能成が18代院長に就任しました。その時、学習院中等科は東京都北多摩郡小金井町(現・東京都小金井市)に移っていました。この小金井校の開設にあたっては、児玉先生は、山梨院長の片腕として、場所の選定・確保に当たり、開校後小金井校主任となりました。

 昭和22年(1947)4月、皇太子明仁親王殿下が中等科に進学され、東宮御仮宮所も小金井に造られました。翌23年(1948)、先生は、中等科長に任じられて、小金井校の運営に奔走します。しかし、昭和24年(1949)に中等科は戸山町へ移ることとなり、3年余で小金井校は幕を閉じました。

 この展示では、東京帝国大学在学中の講義ノートや自筆原稿、著書、写真、愛用の品などから児玉先生のありし日の姿を偲びます。

 戦後の学習院の再生・発展に力を尽くした児玉先生がいらっしゃらなかったら、今頃学習院はどうなっていたでしょうか?この展示が、学習院の歴史を振り返り、児玉先生の人となりやその生涯に思いを馳せるきっかけとなれば幸いです。

児玉幸多着用・学習院教員時代制服(夏服)

児玉幸多着用・学習院時代制帽

[2017.6.12]
プロフィール

丸山 美季 (学習院大学史料館学芸員)

丸山 美季 (学習院大学史料館学芸員)
学習院大学大学院人文科学研究科博士後期課程史学専攻単位取得。専門は日本近世史。

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