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大学は「玉ひで」という家業からの隠れ家だった

山田 耕之亮

青春を謳歌した法政大学での4年間

田中 山田さんは法政二高から法政大学に進まれ、お父様も法政のご出身ということで、法政にとても縁がありますね。

山田 父は大学のバスケ部の監督までやっていましたからね。高校受験のとき、ほかの学校を受けてくれと言われました。「知り合いが多すぎてかなわないから」と(笑)。
でも、気がつけば妹二人も、家内も長男も、ついでに私の妹の旦那もその長男も(笑)法政なんですよね。

田中 なんだか法政に守られている感じですね。山田さんご自身はどのような大学生活を送られましたか。

山田 推理小説研究会に入って、1日2冊のペースで本を読んだり、自分でも書いていました。各大学の関連サークルが集まる「全日本大学ミステリー連合」という組織がありまして、当時法政は、早稲田、京大と並んで中心的存在でした。ですから、同年代で活躍されているミステリー作家の半分はたぶん知り合いだと思います。家内ともそのサークルで出会ってつきあい始めていました。

田中 ずいぶん充実した大学生活を過ごされていたようですね。

山田 正直に申し上げますと、私にとって大学は「玉ひで」という家業から離れることができる、隠れ家のような存在でした。父も周りの人たちも、高校を出たら店を手伝うように言いました。そうでないと、年下の職人さんたちにいろいろ教わらなければならなくなり、お互いやりにくいですからね。
でも私は、卒業したら10年は仕事だけに専念するのと引き換えに、大学の4年間は自由にさせてほしいと頼みこみ、4年間は朝から夜遅くまで大学の近くで過ごしました。そしてその後の10年は、ほとんど店を一歩も出ずに働きましたよ。

田中 人生の中で、一時的に何かから逃れ、自分の時間を過ごす場所、大学にはそんな役割もあるのかもしれませんね。

残されたものや知識を頼りに推理する楽しさ

田中優子

田中 お店を継ぐことは、いつ決心されたんですか。

山田 小学校の卒業アルバムに書いていますが、ものごころつく前から皆さんに「この子が跡継ぎ」と言われて、幼稚園のころには漠然と決めていたように思います。
その意味で、私に職業選択の自由はありませんでした。でも、なんでも自由がいいわけではなく、世襲という形が日本の伝統や文化を守ってきたという面もあると思うんです。

田中 江戸時代は、農家に生まれれば農民、商家に生まれれば商人と将来が決まっていました。でも、だからこそ、次の世代によりよいものを残そうと懸命に働き、それが発展につながったんですよね。お店の創業は1760(宝暦10)年、まさに江戸のなかばですね。

山田 私で8代目ですが、養子が入らず直系で続いているのは、老舗の中でも珍しいです。

田中 もとは幕府の「御鷹匠(おたかじょう)」の家柄だったとか。

山田 鷹狩に同行したわけではなく、狩りのあとの包丁式でツルを切るお役目でした。そのお手当だけでは食べられないので、副業として料理屋を始めたそうです。ただ、大名などから頼まれたときだけの不定期営業だったようで、そうなると食材としては、庭で飼える軍鶏が一番だったんです。

田中 なるほど、保存手段がないから生かしておくわけですね。

山田 それから、これは記録がないのですが、店を構えていたというより、お屋敷に食材を持って伺う出張料理の形だったのではないかと考えています。そしてそれが一般的だったとすると、池波正太郎の『鬼平犯科帳』で鬼平が密偵たちにモツ鍋をふるまう場面が出てきますが、これも納得がいきます。内臓は1羽の鳥からそんなにとれませんから、あれは店の料理人がどこかのお屋敷のイベントに出張して、武士たちが口にしなかったものを持ちかえったのではないかと推理しています。

田中 さすが、推理小説研究会ですね(笑)。たしかに江戸時代は、火事など災害が多かったこともあって、外食といっても屋台が非常に多く、私たちが想像する料理屋は意外と少ないんです。その分、仕出し屋が活躍していたのですが、武家の場合は、目の前で調理させたほうが、毒を入れられる心配もなく安全だったかもしれません。

山田 先生の推理も素晴らしい(笑)。

田中 江戸の暮らしを、直接に知る手立てはありませんから、残されたあらゆるものを手がかりに、推理するしかないんです。でも、江戸時代の研究では、その部分がまだまだ足りていないと思います。

山田耕之亮 田中優子

「変えないために変える」ことで守ってきた伝統

田中 玉ひでを有名にした元祖・親子丼は、いつごろできたのですか。

山田 1894(明治27年)の大福帳(帳簿)に初めて記述がありますから、その1、2年前からでしょう。ただ、「汁かけ飯のような品のないものは店にそぐわない」と、間もなく出前だけの提供となり、以来、父の代になるまで90年間、店では出していませんでした。

田中 そんなに長い間ですか! いまやすごい、行列ですね。

山田 ありがたいことです。私は「変えないために変える」と言っているんですが、伝統というものは頑なに守ろうとしてはだめで、時代に合わせる工夫を重ねることで初めて本当に守ることができる、と考えています。ですから、うちのお料理は味も少しずつ変えていますし、朱のさじを出すなど新しいサービスも加えています。そこをお客様に支持していただいているのでしょう。

田中 最近は、地方のお店をプロデュースされたり、コンビニとコラボされたりと、お仕事の幅を広げていらっしゃいますね。この先、全国展開や世界進出のようなことも考えていらっしゃるんですか。

山田耕之亮 田中優子

山田 いえ、それは考えていません。こういうとカッコつけているように聞こえそうですが、「目の行届く範囲」というのが大事だと思うんですよ。大きく展開しすぎると、経営自体が変わってしまうのではないかという心配もあります。

田中 ほかと同じような経営になって、玉ひでのブランドが崩れる恐れがありますよね。

山田 逆に、最後は家族だけ、あるいは一人になっても続けていかなくてはならないと考えています。飲食店は、それができる商売でもありますから。

田中 地域に根差した、本当に江戸のよさを感じさせるお店ですね。最後に2015年の抱負をお聞かせくださいますか。

山田 以前は毎年テーマを決めていたんですが、ここ5年ほどはそれをやめているんですよ。理由は、偶然の思いがけないできごと——本当はそれが必然だと思っていますが——で考えや決意が変わることが増えているということ。そして、プロデュース店やコンビニなど、いろんな方とコラボする機会が多くなったので、私が自分の意思で決めるというより、皆さんの要望に柔軟に対応することが自分の役割だと考えるようになったことです。

田中 何が起こるか、何を起こされるか、楽しみにしています。ありがとうございました。


玉ひで主人
山田耕之亮(やまだ こうのすけ)
1961年東京都生まれ。1983年法政大学社会学部卒業。日本料理店での修行を経て、「玉ひで」に入社。1998年に8代目を継承した。老舗の技と伝統の味を守り育てつつ、サークルKサンクスとのおむすびの共同開発やプロデュース店も展開。2012年4月には、東京スカイツリータウン・ソラマチに姉妹店もオープンしている。

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