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スクエアな世界と丸くならない人間
──アメリカ小説の特異性
文学部英文学科 小林 久美子 准教授

「私には構想(デザイン)があった。実現に必要なのが、金、家、プランテーション、奴隷、家族だった─ もちろん、ついでに妻もね。私はだれの世話も受けずにこれを成し遂げようとしたのだ。」

皆さんは、こういう発言をする人物がいたら、どう思うでしょうか。「プランテーション」「奴隷」という単語からして、現代日本とは異なる時代と場所に生きる人間だということが分かりますが、それを差し引いても、なかなかすごいことを言う人だな…と思いますよね。次のような人たちはどうでしょうか。初めて本気で愛した女性が別の男性と結婚したため、夫婦の自宅の川向うにある邸宅に引っ越し、夜な夜な超ど級のパーティーを開催することで、その女性をおびき出そうとする30代の独身男性。成績優秀、指名されてもいないのに教師からの質問にかたっぱしから正答し、ガリ勉と揶揄するクラスメートたちに対して、「あんたたち、ラクでいいわよね。わたしが全部質問に答えてあげてんだから」と鉄面皮で言い放ったかと思えば、こっそりラブレターを書き綴ったりもし、さらにはその行為を猛烈に恥ずかしがって、「みんな大嫌い!勉強だって嫌いに決まってんじゃない! ぜんぶうんこよ!」と絶叫して、乗っていた馬車を暴走させる十代の女子学生。いずれも過激な雰囲気がぷんぷん漂う人物たちです。私の研究対象とするアメリカ小説は、このように「周囲にいるとちょっと(かなり)困った人」を物語の中枢に据える傾向が非常に強い、と特徴づけることができます。これは「小説」という表現ジャンルにおいては、珍しい傾向だといえます。

小説についての定義はあまたありますが、アメリカ文学研究の古典的名著『アメリカ小説とその伝統』(リチャード・チェイス著、1957年)を参照すると、小説とは「ロマンス」と対照関係にある物語ジャンルだと定義されています。この「ロマンス」は、いわゆる「恋愛の悲喜こもごも」を指すのではなく、中世ヨーロッパで主流であった物語作法を意味します。

物語は、ごく大まかにいうと、「登場人物」と「世界」で構成されていますが、ロマンスにおける登場人物たちは「英雄」「悪役」「ヒロイン」と、それぞれ役割分担が明確です。主人公は立派な騎士、悪役は怪しい魔法使い、救うべきは美しき姫。そんな彼らが生きる「世界」は、魔法などの超常現象が起こり得る、「この世ならぬどこか」に直結した時空間に存在します。登場人物が、いささかきっちりしすぎるぐらいに徹底的に書き分けられているのに対し、世界の方では、現実とファンタジーの区別があやふやになっています。つまり、「かちっとしたキャラクター」と「ふわっとした世界」という対立要素の組み合わせによって、ロマンスは成立しているのです。

「小説」は、「ロマンス」の後続とされる物語形式です。ロマンスが中世の世界観を語るにふさわしい表現方法であるならば、小説は近代という時代を描くべく編み出されたジャンルです。ロマンスと同様、小説も「登場人物」と「世界」が二大構成要素ですが、内実はずいぶん異なっています。ロマンスの主人公は、強い意志と明確な目的を有する「行動の人」です。小説の主人公は、往々にして、自分が何をやりたいのかわからず、目的が見つかったと思った途端に迷いが生じ、考え込んだりします。英雄は誘惑を振り切って、愛する姫のもとに何としてもたどり着こうとしますが、小説の主人公は、あっさりと誘惑に乗って、当初の目的はどこへやら、すぐに脇道に逸れます。

西洋近代小説の傑作、ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』を例に取ると、主人公は、演劇に情熱を燃やす青年です。とはいえ、おのれの全存在を賭けて舞台に捧げるというほどの決意はなく、恋愛の機会が訪れると、そちらにうつつを抜かします。周囲からも「演劇なんてやめろ。ちゃんとした社会人になれ」としょっちゅう諭されます。ロマンスの主人公は「お前は英雄の器じゃないんだから、姫を救出するなんて夢語りはやめろ、現実を見ろ」とはまず言われません。なぜなら、ロマンスは「姫の救出」という「夢を見る」ことが「現実を直視する」ことだからです。それに対して、小説における「世界」は、「夢」と「現実」がくっきりと区分されており、登場人物たちが属するのはあくまでも後者とされています。つまり小説は「ふわっとしたキャラクター」と「かちっとした世界」によって構成されており、ロマンスとは逆のベクトルを示すのです。ただし、ロマンスと小説は、相反する性質を持った「キャラクター」と「世界」の組み合わせによって成立する、という原則は共有しています。

アメリカ小説の特異な点は、ここに存在します。つまり、「キャラクター」と「世界」が同じベクトルを 示す傾向にあるのです。最初に紹介した3名の「困った人たち」は、いずれも代表的アメリカ小説に登場するのですが、彼らが強烈に示すように、アメリカ小説は「かちっとしたキャラクター」と「かちっとした世界」がタッグを組むことで(あるいは両者がとっくみあいの喧嘩をすることで)成立します。 意志が強く、目的実現にすべてを捧げる人物が「夢」や「妖精の国」ではない「現実社会」という世界に生きることになったら、どうなるか。

アメリカの小説家たちは、「近代社会」という枠組みにおいて、「神」や「超自然」が、除外ないしは周縁化されていることを、基本的には受け入れています。ただ彼らは、「近代社会」の枠組みに合わせて登場人物が馴化していく過程を描くこと(=西洋近代小説の雛形)には興味をさほど示しません。「既婚女性を奪う」とか「広大なプランテーションを打ち立てる」といった目的自体は「社会」の枠組みに一応収まるものですし、いっそのこと「俗っぽい」と形容してもいいぐらいに、けばけばしいものです。しかし、アメリカ小説の登場人物たちは、そうした「はしたない」目的に絶対性と不可侵性を付与することで、「英雄」のごとく断固とした「行動の人」と化すのです。

世俗的な枠組み内で英雄的クエストを敢行するのは、社会の構成員としては好ましい性質ではないかもしれません。しかし、やみくもにエネルギー値の高い人物を描くときにこそ、筆が乗るのが、アメリカの小説家の特徴です。いったんこうした小説に慣れてしまうと、「普通」の小説を読んだときに、ほっとすると同時に、なんとなく物足りない気持ちにもなります。「あんた、アメリカ小説って奴に惚れちまったんだね」という超自我の声が、私の脳裏に響く瞬間です。

※冒頭の3名は、以下の作品にそれぞれ登場します。(紹介順に)ウィリアム・フォークナー著『アブサロム、アブサロム !』(岩波文庫、上下巻) F・スコット・フィッツジェラルド著『グレート・ギャツビー』(白水社)、シャーウッド・アンダソン著『ワインズバーグ、オハイオ』(新潮文庫)


文学部英文学科 小林 久美子(こばやしくみこ) 准教授
1978年生まれ。専門はウィリアム・フォークナー研究。米国ミシガン大学アナーバー校大学院博士課程修了(Ph. D. in English)。東京大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得満期退学。日本学術振興会特別研究員を経て、2012年4月に法政大学文学部に着任。
論文に「サトペンの家(ホーム)—『アブサロム、アブサロム!』における家事と描写」『れにくさ』5-2号(2014年)など、翻訳にラモーナ・オースベル著『生まれるためのガイドブック』(白水社)などがある。

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