今を生きる人々にとって、現代は過酷な時代だ。不況、リストラ、殺人と、心の荒むニュースには事欠かない。
かくいう僕も、アニメーション業界という、人間の業の濃縮ジュースの様なところで今までやってきて、いい加減人間というものに飽き飽きしている。出来れば煩わしい人間関係を捨て、自宅のある熱海で温泉に浸かりながらボーっと余生を過ごしたい、そう思うことがある。歳をとったという事かもしれない。動かぬ身体に鞭打って、会社に通う毎日である。
しかし、これから人間ってのはどうしていくんだろう、という事には大きな興味を抱いている。今、世の中は大きな不安のただ中にある。出来ることなら、その不安の原因を解き明かし、映画の中で描きたい。
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この映画に、人間は登場しない。登場人物は全て、人の形を模した人形たちである。人形をもっと解りやすく言うと、ロボットということである。人間は、常に自分の似姿としてのロボットを造ろうとしてきた。工業用ロボットだったら、もっと合理的な、必ずしも人間の形をしていなくても良い筈なのに、何故人の形を模したロボットを造ろうとするのか。そうした、説明のつかない事をする人間というものを、人形の側から語ってみよう、そうすれば少しは人間というものがわかるかもしれない、と考えた。
物語の主人公・バトーは映画のガイド役である。アンドロイドの暴走事件を追う中で、バトーは様々な人形たちと出逢う。破壊されて何も語らないアンドロイド、人間の姿をしたロボットの女性、禍々しき祭礼の中で人間に焼かれる人形たち、自ら死体となって、人間であることを超越したと自惚れる男。そしてバトーもまた、戦いの中で傷つき、自分の身体を機械に置きかえてゆくことによって人形に近づいてゆく。
バトーが出逢う人形たちは、それぞれの人間観を持っている。各々が、人間ではない立場から、人間の傲慢や欺瞞を問いただす。バトーは、観客の代理人である人間の相棒・トグサと共に、人間という存在を問う、地獄巡りの旅に出る。観客はバトーに案内され、トグサという人間を通して、様々な人形達の声を聞く、という仕組みになっている。
この映画は、人間中心主義の立場をとらない。生きとし生けるもの、人間だって、動物だって、ロボットだって等価値であるという結論を残して終わる。こんな不安な時代だからこそ、皆が何に価値を与え、共に生きてゆくかという事こそを考えるべきだと思うのだ。
家族、恋人、友人。我々は決して独りでは生きられない。そしてこの物語の舞台である2032年の未来では、ロボットや電子存在も、人間にとって必要な他者になっている。いや、そう言う時代はすでに訪れていると言っていいかもしれない。
今の我々に必要なのは、人間中心のヒューマニズムではない。人間そのものが限界に来ている、人間の底が抜けているこの時代に、人間をとりまく、もっと広い視野での倫理観というものが、必要だと思う。この映画を作りながら、今この世界を覆っている言いようのない不安、そしてそのただ中にある人間というものの意味を、共に考えてゆければ幸いである。(談)
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