早稲田大学の教育・研究・文化を発信 WASEDA ONLINE

YOMIURI ONLINE | 読売新聞

  • トップ
  • オピニオン
  • ニュース
  • 研究力
  • 文化
  • 教育
  • キャンパスナウ
  • 早稲田評論
  • English

ホーム > ニュース > 新政府内閣総理大臣 坂口恭平 EDUCATEの本質 ― 石山大学での5年間

ニュース

新政府内閣総理大臣 坂口恭平
EDUCATEの本質 ― 石山大学での5年間

“新政府内閣総理大臣”として、精力的に活動している坂口恭平さん

 “新政府内閣総理大臣”を名乗り、車輪のついた移動可能なモバイルハウスを作る建築家。「作家」「現代美術家」など多数の顔で活動を続ける坂口恭平さん(34)=早稲田大学理工学部卒=は、東京の路上生活者の住居写真を集めた卒業論文を「0円ハウス」として出版、近著「独立国家のつくりかた」はベストセラーとなりました。卒論が元となった映画や自身を追ったドキュメンタリー映画「モバイルハウスのつくりかた」も公開された坂口さんに、早稲田で過ごした日々を振り返ってもらいました。

 【校友広報紙『西北の風 Vol.12』(2012年9月発行)より】

早稲田大学理工学部建築学科への進学

 「建築家」という言葉を初めて知ったのは小学校5年。自分の部屋で毛布と学習机を使ったテントを作るのが楽しくて遊んでいたところ、親父から「そんなに好きなら建築家になれ」と言われた。「建築家」を再び意識するのは大学進学のころ。通っていた熊本高校の先生は「建築家になるなら東大へ行け。そうでないと先に進めない」とか、わけのわからないことを言っていた。同級生もみんな偏差値で大学を決めていた。でも、これは筋としては間違っている。学校のルールに従いすぎて、みんな「何となくこのルールって変えられないんでしょ?」と思っている。本当は好きなところに行きくべきなのに。

 だから、どこへ進むべきか、自分で調べてみることにした。熊本市立中央図書館に行って建築雑誌や建築関係の本を乱読した。直近の建築から時代を遡っていくと、80年代前半にエッジの効いた建築があった。ドラム缶を転がしただけのような、手作りしていそうな「幻庵」。早稲田大学理工学部建築学科の石山修武教授の作品だった。初めてピーンときた。「うわ、この人だ」と。小学校時代のテント遊びと連続性があるものを、見つけることができた。僕は高校2年までは成績上位だったが、高3の時には答えの分かっている勉強をすることがつまらなくてやめていたので、とても入試で合格できる学力ではなかった。だが、たとえ合格できなくても石山教授の講義に忍び込み、研究室の扉をたたけばよいと思っていた。

 入試で合格する学力はなかったのだが、運よく理工学部建築学科の指定校推薦枠が余っていた。早稲田の理工学部の指定校推薦は学科指定のものだから、希望通りに建築学科の枠が回ってくるのは稀。当時、県立熊本高校には10年以上建築学科の枠は回ってきていなかった。先生が「早稲田の建築学科の指定校推薦が余っている。みんな国立に行くから」というので「じゃ、僕がいただきます」と。推薦は高校2年までの成績で決まるから、受験せずに早稲田に進学できた。「なんで建築学科が、ちょうどお前の時に回ってきてるんだ?腹が立つ」などと先生は言っていたが、僕は石山教授に会いたい一心で、単に合格したいという受験生とはノリが違った。まさに風、「西北の風」が自分に吹いたのだと思う。

石山修武教授との出会い

 しかし、早稲田に入学して、「幻庵」について周りに学生に聞いても誰も知らなかった。「お前ら大丈夫か? 何のためにここに来たんだ?」と思っていた。石山教授に会いたくて入学した僕とは、あまりにもテンションが違いすぎた。研究室に行って挨拶するなどということはつまらない。だから入学早々、3年生の講評会に潜りこんだ。一発、印象に残る挨拶をかまそうと。向こうから興味をもってもらわないとだめ。オファーが来るまで動くな、というのが僕のやり方だから。モヒカン頭で作務衣を着て、ほとんど裸足でアコースティックギターを背負って。3年生の講評会なのに、席の一番前に座って1年生の僕が真剣に聞いていた。すると講評会の最後に石山教授が「お前、誰だ?」と声をかけてきた。「1年生、坂口恭平と申します。石山さんに会うためにきました」。すると「何だ、お前は。うるさいからどこかへ行け」と怒られた。僕にとっては狙い通りの最高の出来事。これが初対面だった。

 石山教授から受けた初めての講義の課題は「あなたが今まで暮らしてきた家について述べよ」というもの。親父の会社の社宅暮らしだった僕には変わった体験がなく、5人家族が暮らした空間を絵に描いた。布団の敷き方、両親が喧嘩したときの子どもたちの配置図、母親が親父に投げつけた物の放物線などを克明に。石山さんはなんと一等賞をくれて、クラスのみんなの前で発表する機会をくれた。僕の人生初のトークショー。みんな爆笑だった。

 「お前は今、重要なことをやっている。馬鹿だから意味はわからないと思うが、今和次郎(1888―1973)を調べてみろ。お前がやっているものはすでに今和次郎がやっている」と言われ、理工の図書館で調べた。名もない普通の民家とその生活を克明にスケッチした早稲田大学建築学科の教授。「とんでもないぞ、このおっちゃん」と興味を持った。「参考文献でお里が知れる。参考文献は手を抜くな」「固いものだけでなく、バランスよく」「死者の書いたものが本だ。生きている人の評価は変わる。考え方も変わる。だから死んだ人の意見を聞け」。石山教授の言ったことは全部覚えている。僕は石山教授を勝手に師匠にして、私淑していた。講義では常に自分が持つぎりぎりのものを出した。いつも汚い恰好をして、石山教授に嫌われていることもわかっていたが、全然へこまずにやり続けていた。

課題「都市の再生」

 3年時の建築設計の課題のテーマは「都市の再生」。それまでは架空の土地で架空の物質を建てる課題。ところがこの課題は「実際に町を歩いて、敷地を設定せよ。再生しうるものがあれば再生せよ」。これはおもしろいと、街を歩き回って渋谷区の外苑西通り沿いにあった廃墟屋上で貯水タンクをみつけた。発電機を動かして、ビデオをセットして4日間住んでみた。課題の規定である模型として15分間のビデオを、設計図として絵を提出するという無茶苦茶。課題の講評会では模型が並んでいる中、自分だけテレビとビデオデッキという異様な光景だった。集まった教授たちは騒然としていた。「これでは将来食っていけないぞ」とも言われた。講評会でのプレゼン時間は6分だったので、仕方なくビデオを途中で止めたら、石山教授が怒り出した。

 「全部、流せ。途中で止めるな。時間は関係ない。みんなに見せろ」。そして、「既存の建物を住宅に改造するというのは重要なことだ。日本にはもう建物は余っていて、これ以上建てる必要はないということが確定している。経済に突き動かされているだけだ。お前は近代建築の系譜なんか勉強する必要はない。このまま突き進め。10年後には食うことができるようになるだろう。でも、10年後なんだ。その前に飢え死にする。飢え死にしないように気をつけろ」と言ってくれた。1年生の時に潜りこんだ同じ講評会での出来事。課題も一緒だった。運命が回っているのを感じた。「やれ」と言われたから、その後、図面は一切書かなくなった。

世田谷村へ

2012年5月に講談社から発行された『独立国家のつくりかた』。「何も壊す必要などない。ただ、あらゆる常識を根底から疑い、歩きかたを変えてみる。視点を変えてみる。そして、思考しつづける」として、新政府内閣総理大臣としての考え方などが書かれている。

 卒論は東京の路上生活者の家の写真集。多摩川や隅田川、新宿を歩き回って調査した。当初、石山教授は「路上生活者の家など意味がない」と興味を示さなかった。しかし屋根にソーラーパネルを設置して自家発電し、電化製品を稼働させていた隅田川の家を見せると「これはすごい。これだったらあり得る」。 ケント紙にカラーコピーを貼って、ワープロで文字を打って切り抜いて張って、写真のキャプションだけで既定の文字数を書いた手作りの卒業論文『東京ハウス』(後に『0円ハウス』として出版)」は研究室の中で最高の評価を得た。可能性をまた、見つけてくれた。

 就職する気はなく、大学院には進学したかったが学費が出せない。だから石山教授が普段使うエレベーターで待ち伏せして、無理やり乗り込んで「金ないけど大学院に忍び込みたいのですが」と直訴したら、「ふざけんな!」と怒られた。大学院の入試当日は、「自分には『東京ハウス』があるし、ビデオもあるし、建築がだめだったら出版や現代美術がある」と思って寝ていたら研究室から電話がかかってきた。石山教授がでて「お前は何やっているんだ?試験を受けていないじゃないか!」。「無理だっていわれたからやめましたよ」と答えると「お前は本物のバカか!」と言われ、すぐに大学の研究室に呼び出された。

 これからどうするのか聞かれ、「独立して社会を変えるんですよ。これ(卒論)を出版するから大丈夫ですよ」と答えると、ブチ切れられた。本気で怒られたが、「世田谷村(石山教授の個人研究所)に入れてやる」と言われ、「行きます」と即答。翌日から世田谷村で無給で働くことになった。図面も引けない、模型も作れない僕を、重要な打ち合わせや契約に、なぜかいつも連れて行って金の稼ぎ方というものを見せてくれた。「修業は1人でやって、10年間苦しむもの」。そう思っていた僕は1年後、世田谷村を卒業した。石山教授は「気をつけろよ」と送り出してくれた。

 石山教授の一言ひとことが目から鱗だった。未だに僕にとって一番怖い存在。常に監視の目として、自分に重くのしかかっている。石山教授は僕とはまともにコミュニケーションをとってくれたことはない。しゃべってもくれない。今でも「お前、誰だ?」っていわれる。「何をいっているんですか。僕の本の書評、この前書いてくれたじゃないですか」というのだけれども(笑)。しかし、石山教授はいつも態度で教えてくれた。「お前はすごい」なんてことは一度も言われたことがない。僕はこの師匠に弓の弾き方、ナイフの使い方といった、生き抜いていく術というものを教わった。僕にとっては早稲田大学というよりも“石山修武大学”だった。“educate”はラテン語で外へ導くことを意味している。”育てる“のではないのだ。ビクビクしているところを、石山教授によって外へ引っ張りだされたら、そこに、おもしろい世界が広がっていた。

映画『モバイルハウスのつくりかた』より

関連リンク

0円ハウス

映画『モバイルハウスのつくりかた』

石山修武研究室

坂口 恭平(さかぐち・きょうへい)

【略歴】
2001年、早稲田大学理工学部建築学科卒業。2006年結婚、一児の父。
近著『独立国家のつくりかた』(講談社現代新書)では「現政府に文句があるなら、勝手に独立国家をつくっちゃえばいい!」として“新政府総理大臣”を名乗るにいたった経緯などが描かれている。
総理直通「いのちの電話」として携帯電話番号を公開(090-8106-4666 ※2012/8/8~10/3は休み)。ツイッター(@zhtsss)

  • 早稲田大学東日本大震災復興支援室 早稲田大学東日本大震災復興支援室
  • 大学体験web もっと動画でワセダを体験したい方はこちら
  • QuonNet まなぶ・つながる・はじまる、くおん。