早稲田大学の教育・研究・文化を発信 WASEDA ONLINE

YOMIURI ONLINE | 読売新聞

  • トップ
  • オピニオン
  • ニュース
  • 研究力
  • 文化
  • 教育
  • キャンパスナウ
  • 早稲田評論
  • English

ホーム > オピニオン > 文化・教育

オピニオン

▼文化・教育

谷口 眞子(たにぐち・しんこ)早稲田大学文学学術院准教授 略歴はこちらから

「武士道と敵討」

谷口 眞子/早稲田大学文学学術院准教授

武士道と敵討

 剣豪小説やドラマでは、見事な太刀さばきの武士が敵を討つシーンがでてくる。江戸学の泰斗、三田村鳶魚氏は、敵討をしなければ武士の一分が立たないと考えられていた、と述べているし、千葉亀夫氏も、敵討をしなければならないという武士道の犠牲になって、武士は敵討を強要されたと記している。編集部から仮テーマとして与えられた「お題」も「武士道、武士の精神、敵討」だった。ここから、敵討は武士道を表現する行為としてイメージされていることがわかる。

 しかし、敵討は武士だけが行ったわけではない。近世後期には百姓や町人も敵討をしていたし、彼らの敵討を幕府や藩が賞賛していることからしても、敵討と武士道を結びつけて考えるだけでは、どうやら江戸時代の敵討は正しく理解できないようである。

赤穂浪士の討ち入り

 江戸時代の典型的な敵討と聞いて、多くの人は赤穂事件を思い浮かべると思う。早稲田大学演劇博物館に所蔵されている、幕末刊行の「敵討番付表」をみても、東の大関は「忠臣蔵仇討」と書かれており、赤穂浪士の討ち入りが敵討と考えられていたことがわかる。赤穂事件は、元禄14年(1701)3月14日、勅使饗応役だった赤穂藩主浅野内匠頭が、江戸城松の廊下で高家の吉良上野介へ切りつけ、即日切腹を申し付けられたことに端を発していた。浅野家の断絶により浪士となった元家臣たち47人は、翌年12月14日に吉良邸へ討ち入って上野介の首を取り、高輪泉岳寺にある内匠頭の墓前へ供えた。

討ち入りは敵討か?

 幕府は浪士たちに切腹を命じた際、「主人の讐を報じ候と申し立て」て徒党を組み、吉良邸へ押し込んだとしている。彼らが復讐を主張していることは認めているものの、幕府自身は討ち入りを徒党行為ととらえており、主君のための敵討とは解釈していないのである。さらに、浪士の切腹後、儒者の佐藤直方が討ち入りは敵討ではないと論じた。

 佐藤直方は討ち入りを敵討とは考えなかった。上野介が内匠頭に切りかかったのなら、上野介は赤穂浪士にとって敵に相当するが、実際はその反対であり、内匠頭が切腹を言い渡されたのは大法に背いた罪人だからである。直方は、合い言葉・合い印を使い、飛び道具を携えた「戦場の法」で上野介を討ち取った罪を自覚して、浪士たちは泉岳寺で自殺すべきだったと述べた。

 これに対し、同じ山崎闇斎門下の浅見絅斎と三宅尚斎は反対の意を唱えた。浅見絅斎は、上野介が内匠頭に恥をかかせたことから刃傷が起きたと考え、浪士たちが、主君の死は上野介のせいであると思ったのも無理はないから、討ち入りは大義であるとしている。そして、命を捨て書き置きまで残した者を批判するのは讒言である、と直方を非難した。

 一方、三宅尚斎は、主君が上野介に抱いた遺恨がいかなるものであれ、無条件にそれを継ぐのが家臣の忠義だと理解する。彼は、主君の志の正邪も浪士の討ち入り方法も、その行動が治安を乱すかどうかも、まったく問題とせず、「討ち入り=敵討」「赤穂浪士=義士」論を主張した。

 内匠頭が切りつけて上野介に怪我を負わせたのに、その家臣が上野介を敵としてよいのか、内匠頭がいだいた遺恨の内容がはっきりしないのに、その恨みを継いで上野介を討ち取るのは、家臣として正しい忠義の道と言えるのか、など、赤穂浪士の討ち入りを敵討と言うには、実はいろいろと問題があった。討ち入りが当時の一般的な敵討の概念からはずれていたからこそ、このような議論が登場したと言えよう。

百姓女房の敵討

 ところで、江戸時代に行われた通常の敵討は、自分の親兄弟や主君・師匠などが不法に殺され、殺害者が行方不明のとき、遺族や家臣・弟子らが犯人をみつけてとどめをさすことを言った。江戸時代も後期になると、武士のみならず百姓や町人たちも敵討をするようになった。また男性だけでなく、女性が行うこともあった。その一例として、百姓女房ちかの敵討を紹介しよう。

 文政3年(1820)、武州高麗郡太田ヶ谷村で、百姓喜左衛門の女房ちかが父親の敵討に成功した。勘定奉行へ出された請書によれば、ちかが9歳のとき、父平左衛門は酒に酔っていた同村の留三郎に殺されたという。平左衛門が負傷したとき、村役人は傷が治ったことにして事件を示談で済ませた。その後、平左衛門が死亡したにもかかわらず、村役人は一件を届け出ず、留三郎は姿を消した。父親の死亡後10年ほどして、他村の寺にいた留三郎が太田ヶ谷村へも出入りするようになったのを知ったちかが、敵討に及んだのである。

 老中大久保加賀守はちかの敵討を、百姓女房として奇特なことと評価し、褒美を与えるように地頭の丸毛一学へ命じた。一学が青銅五貫文を与えたことは、『新編武蔵国風土記稿』にも記載されており、ちかの敵討は地域の中で記憶され、語り継がれていったと考えられる。

明治期の敵討禁止

 敵討の多くは、実は親のための復讐であり、孝行の実践として幕藩権力もこれを是認していた。天保4年(1833)に酒井雅楽頭の家臣山本三右衛門の娘りよが、叔父と一緒に父の敵討をしたとき、幕府はりよに白銀5枚、白ちりめん2疋を贈り、酒井家は15人扶持、銀20疋、白ちりめん20巻を与えて家名相続を認めた。ちなみに2年後に出版された「娘敵討 きやうくんいろはうた」には、「野にも臥し山にも臥して憂き苦労、これも親への孝行と知れ」「おなごにも習わせおけよ、武術をば、まさかの時の用に立つなり」とみえる。

 ちなみに明治初年に起きた十数件の敵討も、1件を除くとすべて祖父母・父母・兄・叔父のための復讐であった。明治3年(1870) 、百姓兄弟が父の敵討をして自首した一件では、役人が人倫の鑑として称賛し、政府に賞典を上申している。敵討をよしとする観念が社会に深く根づいていたため、敵討が禁止されたのは明治13年(1880)になってからのことであった。

 敵討は武士道精神を発現した「武士道の華」というよりはむしろ、庶民も含めた親孝行の実践行為として江戸時代の社会の中に位置づけられていたのである。

谷口 眞子(たにぐち・しんこ)/早稲田大学文学学術院准教授

【略歴】
大阪生まれ。早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。博士(文学)。専門は日本近世史。武士の主従関係にもとづく幕藩制国家の特質を、実力行使のあり方を切り口に考察し、江戸時代の法や裁判、罪と罰の観念、武士の心性、武士道論などを研究している。近年では中近世ヨーロッパ史との比較により、西欧世界を中心としない新たなものの見方を提示しようとしている。

【著作】
主著『近世社会と法規範―名誉・身分・実力行使』(吉川弘文館、2005年)、『赤穂浪士の実像』(吉川弘文館、2006年)、『武士道考―喧嘩・敵討・無礼討ち』(角川学芸出版、2007年)。

  • 早稲田大学東日本大震災復興支援室 早稲田大学東日本大震災復興支援室
  • 大学体験web もっと動画でワセダを体験したい方はこちら
  • QuonNet まなぶ・つながる・はじまる、くおん。