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ドモンドン・アンドリュー(Andrew Domondon)/早稲田大学理工学術院准教授  略歴はこちらから

グレートブックス 再考学部教育

ドモンドン・アンドリュー(Andrew Domondon)/早稲田大学理工学術院准教授

概論

 数年間にわたり、私はプラトン、アリストテレス、デカルト、カントなどの偉大な思想家が著した「グレート・ブックス」と呼ばれる一連の古典を学部生に教える機会に恵まれてきました。そこでなぜ「グレート・ブックス」について教えるのか、尋ねられることがあります。恐らく、現在の日本の大学ではこうした著作について学部生に教えるのは一般的ではないからでしょう。学生や保護者の多くは、大学を主に「給料の良い仕事に就くための手段」として見ています。教授、大学運営に関わる理事、大学教育に関わる政府職員などの多くも「大学は研究活動に注力し、その国際的な地位の向上に努めるべきである」と考えているようです。就職準備も研究も高等教育の役割の一部ではありますが、私は学部教育のより重要な使命は別にあると考えています。それは「学生たちを責任ある市民および思慮深い人間に育てること」にほかならず、その目的を達成するために「グレート・ブックス」について教えているのです。

就職準備や研究は学部教育の主な使命と言えるか?

 就職準備や研究を学部教育の主な使命と主張するのには問題があります。もちろん大学は卒業後に就職するに当たって役立つような知識やスキルを教えるべきですが、学生たちは単に働く場所を見つけられればいいと思っているわけではありません。彼らは本当に深い意味でやり甲斐ある仕事がどういうものなのかを知りたいのです。保護者も、子供たちが大学に通った後に職を得て経済的に自立することだけではなく、息子や娘が成熟した大人、知識がありながらも謙虚で、力強さと同時に思いやりがあり、感受性豊かでありつつも粘り強く思慮深い人間に成長するよう大学が導いてくれることも望んでいるのではないでしょうか。当然ながら、大学側はそれなりのリソースを投じ、将来新たな発見や新技術の開発を行う研究者を育てるべく学生たちを教育する必要もありますが、彼らのうちほとんどは卒業後に研究者になる道を選んでいないという事実を忘れるべきではありません。多くは企業の従業員となり、一部は起業家や公務員になりますが、どの人にも共通して期待され求められるのは、責任ある市民であること、つまり、社会的、倫理的な問題において、コミュニティーにとって何が最善の判断であるかを真剣に考え、話し合うことのできる市民として、社会に貢献することです。研究者も研究者であると同時に、当然そういう責任ある市民であるべきです。現代の研究者はますます不正やデータの改ざんにかかわる問題に注意することが求められています。しかし、このような行為のどこが問題か、処罰以外の観点から論じることのできる人はどれほどいるでしょうか。カントの倫理思想に基づき、科学的誠実さの重要性について一貫して弁護できる人はどれほどいるでしょうか。また、どれほどの人がカントとアリストテレスの倫理観の違いを明確に説明できるでしょうか。就職準備や研究を主要な関心事とする一般的な学部教育では、学生たちが将来的に市民または人間として直面する難しい問題や課題の多くを理解し、それらに対処するための十分な準備とは言えません。

リベラル・アーツ教育についての誤解

 ではどのような教育が学生たちを責任ある市民や思慮深い人間に成長させるのでしょうか。「リベラル・アーツ教育」として知られる教育こそ、そのための教育なのです。アメリカでは学部生の教育のみを行う全寮制の小規模な大学「リベラル・アーツ・カレッジ」だけでなく、多くの大規模な研究大学の学部生向けの主要な学部(College of Arts and Sciences)でも、リベラル・アーツ教育を重要な教育理念としています。比較教育学について語ることは今回の意図するところではありませんが、日本ではリベラル・アーツ教育が広く誤解されていることから、ここでは一般的な思い違いをいくつか指摘し、詳しくは別の機会に論じたいと思います。多くの人はリベラル・アーツ教育を、学生たちが自分の好きな科目を何でも自由に選べるようにする教育プログラムであり、結果として学習内容の幅が広くなりすぎ、専門性に欠けたものだと考えています。これは根本的に間違いです。本来リベラル・アーツ教育とは、学生たちを無知から解放(liberate)し、深さと幅のバランスが取れたプログラムを通じて責任ある市民や思慮深い人間になれるよう導く教育です。さらに日本においては、本来リベラル・アーツとは別扱いしなければならないはずの一部の専攻や関連科目をリベラル・アーツの中に含めています。例えば、リベラル・アーツ教育に熱心に取り組んでいるアメリカのカレッジや大学のほとんどでは、経営学や法律学はリベラル・アーツに分類されていません。なぜなら経営学は利益の上げ方を、法律学は法律の実践方法を、学生たちに教えることがその役割りだからです。学生を特定分野のプロフェッショナルに育て上げることを主目的とする経営学、法律学、医学などの専攻や科目は、リベラル・アーツではありません。これらの分野は、MBA(経営学修士)、JD(法務博士)、MD(医学博士)などの専門の大学院課程で学べますが、ほとんどの大学では、このような専門課程に進学する前にリベラル・アーツの学部教育を修了していることが前提条件となります。

「グレート・ブックス」と責任ある市民の教育

ラファエロの「アテナイの学堂」には、西洋の2人の偉大な哲学者、プラトンとアリストテレスが描かれている。

 リベラル・アーツ教育の狙いの1つは学生が責任ある市民になれるよう教育することですが、はたしてこれにはどのような意味があるでしょうか。私見を述べるなら(普遍的に適用できるかどうかはさておき)、この教育により、学生たちが自分自身の文化的・知的伝統や基礎的な考え方について理解を深めるとともに、そこから市民権(citizenship)にかかわる基本的な問いを立て、それについて考えを深めていくことが可能になります。例えば、「最善の政府の形態はどのようなものか」、「正義とは何か」、「私は市民としてどのような責任があるか」というような疑問が考えられます。「グレート・ブックス」は人類がこれら重要な疑問について答えを試みてきた努力の結晶です。現代の多くの重要な問題はこうした著作に真剣に取り組むことなしに根本的な理解をすることは不可能です。20世紀の大部分にわたり、アメリカのほとんどのカレッジや大学ではこの理解が共有され、一般に「西洋文明」と呼ばれる科目で学生たちは全員がこのような疑問に真剣に向き合うことが求められました。学生たちは、1年間(2学期)にわたって、聖書、プラトンの『国家』、アウグスティヌスの『告白』、デカルトの『方法序説』、マキャベリの『君主論』、ホッブズの『リヴァイアサン』、ルソーの『人間不平等起源論』などの古典を読みつつ、古代から現代に至るまでの西洋文明の発達過程を学びます。このような著作を通じ、民主主義体制下で市民であることの意味、民主主義の理論上の基礎、その実現に至るまでの歴史的な闘争、民主主義の脆弱さ、そして最も重要な点として、民主主義の運命は市民次第で左右されることなどを学生たちに深く理解させるのです。

 では日本の場合はどうでしょうか。学生たちが責任ある市民になれるよう教育するために自分自身の文化的・知的遺産について学ぶことが重要だとするならば、日本の大学では学生たちに「グレート・ブックス」の代わりに日本の文明について教えるべきだという考え方もあるかもしれません。日本の大学で日本の文明について学生に学ばせることには私も賛成ですが、それが「グレート・ブックス」の代替になるとは思いません。前述の通り、責任ある市民になるためには、今日の市民にとって重要な、基礎的な考え方を理解する必要があります。例えば、現代の日本は民主主義国家とされていますが、民主主義は西洋から輸入された考え方であるため、その起源と発展過程を理解するには、「グレート・ブックス」をひもとく必要があります。人権という概念、近代科学という知識、そして大学制度とその存在意義についても、同様の指摘ができます。しかし、私の知る限りでは日本の大学で、日本の文明、まして西洋文明についてすべての学部生に必修としているところはありません。

「グレート・ブックス」と思慮深い人間の教育

読者を差し招き、ひもとかれるのを待つ「グレート・ブックス」

 リベラル・アーツ教育には、学生たちを責任ある市民に育てる以外に、思慮深い人間として生きていけるよう導くという使命もあります。この目的を果たすために「グレート・ブックス」よりも適している著作はありません。私は自分のクラスでプラトン、アリストテレス、アウグスティヌス、デカルト、カント、ニーチェなどは、我々の人間としての存在の核心に迫る疑問を投げかけていると説明しています。例えば、「理性で分かることには限界があるのか」、「私とは何か」、「私が人間として追求するべき善は、私が市民として追求するべき善と異なるか」などです。これらの思想家によるこのような疑問への答えは、抽象的な理論というよりも、自分たちがいかに生きるべきかという問いに直接関わるものであるため、学生向けの「グレート・ブックス」研究の招待状と解釈することもできるでしょう。大学へ来るほとんどの学生たちは、自分の生き方に関する立場への問題意識を持っておらず、そのような問題に対処するための知識もスキルも持ち合わせていません。つまり、「自分が何を分かっていないか」を分かっていないのです。ほとんどの学生は、「グレート・ブックス」が投げかけているような種類の疑問についてじっくり考えたことはありません。

「グレート・ブックス」を読み解くことは特に日本の大学の学部生にとって重要です。なぜならこれらの著作は、日本の大学自身が受け継いできた大学の2つの役割、つまり、大学は、就職に役立つスキルを学生たちに提供する場所であるとともに、学生たちが自身の興味の対象を思う存分追求できる場所でもあるという考え方、を見直すよう学生たちに迫るからです。前者の考え方は、例えば語学力やプログラミングスキルといった能力を学生に与えることで、彼らが望む職に就けるようにするという大学自身の自己アピールに由来するものです。また後者の考え方は、ほとんどの大学で、学生が自ら興味のある分野(一般には、自分の専攻分野)を集中的に学習するよう奨励しているという事実に由来します。「グレート・ブックス」に真剣に取り組むと大学の自己アピールの仕方や、学部生向けに発信されるメッセージに疑問符がつきます。例えば、プラトンやアリストテレスなら、前者の考え方を「大学はスキルを教え込むことを重要視して、それによって得た力をどのように行使するべきかについて学生一人ひとりが判断できるように育てることをないがしろにしている」と批判するでしょう。また、アウグスティヌスなら、後者の考え方を「大学は単純に学生の興味を満たすことしか考えておらず、ただただ興味を追求することが最高の善なのかどうかを考えるよう学生たちに促していないようだ」と批判するでしょう。もちろん、すべての「グレート・ブックス」が学生たちに同様の問いかけを行うわけではありません。事実、私が批判してきた考え方を擁護するために一部の「グレート・ブックス」が引用されることもあります。しかし、人間がどのような善を追求するべきかについて活発な議論を呼び起こすことこそが「グレート・ブックス」の特質であり、だからこそ「グレート・ブックス」は真剣に向き合う価値があるのです。

結論、そして皆さんへの招待状

 学部教育の主な目的は学生を責任ある市民や思慮深い人間に育てることです。そのためには「グレート・ブックス」を真剣に読み、かつ議論し合うことが不可欠です。この記事によってたとえ一部の読者でも自ら「グレート・ブックス」を読んでみようという気持ちになってもらえていたら幸いです。まだ首を傾げている読者の皆さんも、私がいつも学生たちに言うように「『グレート・ブックス』の著者たちも皆さんが読んでくれるのを待っているはずです」とお伝えしておきます。彼らからの招待をぜひ受けてみてください。

ドモンドン・アンドリュー(Andrew Domondon)/早稲田大学理工学術院准教授

神奈川県鎌倉に生まれる。国際基督教大学講師、早稲田大学理工学術院講師を経て現職。早稲田大学理工学術院国際教育センターのセンター長も務める。専門は科学史・科学哲学。

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