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磯野 真穂(いその・まほ)/早稲田大学文学学術院助教  略歴はこちらから

「言うことを聞かない患者」、「融通の利かない医療者」
-医療現場の文化人類学-

磯野 真穂/早稲田大学文学学術院助教

言うことを聞かない患者

 「先生の前に出ると血圧が上がっちゃってね」
 「何回も測ると1回くらい120が出る」
 「死ぬまでこんなに薬を飲んで大丈夫かな?」

 鈴木さん(仮名、72歳)の診察時の血圧はたいてい150を超えている。医師はそのたびに降圧の必要性を指摘するが、鈴木さんはいろいろな理由をつけて血圧の高さを認めない。

 鈴木さんの血圧が高い理由の1つに弁膜症があった。自覚症状はほとんどないが、検査値は手術が必要なレベルに達していた。医師は、症状が出た人々の平均余命の短さを懸念し、早めの手術を勧めるが、鈴木さんが首を縦にふることはない。「なかなか決断ができなくて」、そう言って彼は、医師の勧めをのらりくらりとかわし続ける。

 そんなに医師の言うことを聞きたくないのなら、通院をやめればよいだろう。ところが、彼は、診察室には律儀に現れ続ける。

 つまり鈴木さんは「言うことを聞かない患者」であった。

「言うことを聞かない患者」の過去

 しかし、鈴木さんにはこんな過去があった。

 鈴木さんは、定年間際に一人息子を亡くしていた。流産が続きやっと授かった子どもであったが、29歳の時に、脳に問題があると言われ検査入院になり、その際に出た原因不明の高熱が原因で命を落としてしまったのである。

 「検査、検査と言われても、早く家に連れて帰っていればよかった」、「だから入院は怖くてね」、鈴木さんはうつむきながらそうつぶやく。

 だから鈴木さんは薬もあまり信用できない。ジェネリック医薬品は政府が医療費削減のために勧めているのではないか? 最近できた皮膚の発疹は同じ薬を長く飲み続けたからではないか? 鈴木さんはそう薬を疑ってしまう。

 しかし、薬や入院を怖いと思う一方、鈴木さんはいつ襲われるかもわからない弁膜症の悪化、そしてその後訪れるであろう死も恐れていた。だから「手術を受けよう」と思うこともある。だが鈴木さんはこうも思うのだ。手術で寿命が10年延びたとする。でも、そうまでして寿命を延ばすことに何の意味があるのだろう?

 血圧の高さを認めず、手術の勧めは断り、それでもなぜか病院には現れる鈴木さんの言動の背後には、息子を亡くした悲しみから来る医療不信があった。死を恐れる自分と、死を受け入れようとする自分のせめぎ合いがあった。

融通の利かない医療者

「どうして食べたんですか?食べちゃいけないって言われてますよね。」
「俺は世界で一番ナタデココが好きなんだ!」
「好きも嫌いもない。今は食べちゃいけないときなんです!」

 当時26歳の看護師の伊藤さん(仮名)は、末期の肝癌で入院中の平林さん(仮名、73歳)と、夜の病棟でこんな会話を繰り広げた。平林さんのゴミ箱に、空になったナタデココゼリーのカップを発見したからである。

 そして、この事件からそれほど時をあけずして、平林さんはその命を終えた。

 余命わずかの患者に対して、食べたいものを食べることも許さず、厳しい言葉で注意を与える「融通の利かない医療者」。このときの伊藤さんは、他の患者にそう映ったかもしれない。

「融通の利かない医療者」の思い

 しかし伊藤さんの言葉にはこんな思いが秘められていた。

 入退院を繰り返していた平林さんは、病棟内の「要注意人物」であった。

 病棟仲間が平林さんを車いすに乗せ、こっそりと喫煙室に連れて行ってしまう。ごみ箱には、禁止されているお菓子の袋がたびたび捨てられていた。

 末期の肝癌の患者にとって、食事は生死に直結する問題である。食べ物によっては腹水が急速に溜まって呼吸困難になったり、肝癌の影響で食道にできた静脈瘤が破裂したりするからだ。平林さんにおいても自由な間食は制限されており、ナタデココなぞもってのほかであった。

 医師からの指示をことごとく破る平林さんに対して、ミーティングでは、「危険な行為ということをとにかく伝え続けよう」という話が繰り返された。

 一方、平林さんの状態は悪化の一途を辿った。腹水でお腹ばかりが妊婦のように膨れ、手足はやせ細り、歩くこともままならず、息も絶え絶えになった。命が危険にさらされていると判断した医療チームは、平林さんのベッドを真っ先に巡回し、1時間置きに状態を確認することを決めた。

  「ナタデココ事件」は、チーム全体にそのような緊張が走っているときに起ったのである。

 私たちはこんなにあなたのことを考えているのに、いまあなたの命が危ないというのに、どうしてこんなものをたくさん食べてしまったのか?

 厳重注意を与えた伊藤さんの言葉の裏には、チームの思いが伝わりきらない、もどかしさと悲しさがあった。

 現在34歳で中堅どころとなった伊藤さんは、「治療方針に従わないから病状が悪化する」という話が医療者間で出ると、この話をしばしばするという。「大好きなものを食べたいという患者に、なぜ注意という形でしか応えられなかったのか?」、「全部は無理でも少しだけにしてみようとなぜ言えなかったのか」、そんな思いがあるからだ。平林さんのエピソードを経て、患者の思いを汲んだ看護をしたいという彼女のいまがある。

 しかしこのような看護観が当時26歳の自分にあったとしても、「食べたいものを食べさせよう」という提案はできなかっただろうと彼女はいう。担当看護師でもなく、経験も少ない自分に、危険があるとわかっている行為を「許可してはどうか」という提案はしにくい。チームは患者の命に責任を負っており、もし自分の一言で平林さんの状態が悪化したらそれはチーム全体の責任となるからだ。

ひととしての患者、ひととしての医療者

 医療現場で交わされる医療者と患者のやり取りの向こう側には、患者が聞くことのない医療者の思いや葛藤、医療者が聞くことのない、患者の戸惑いや逡巡がしばしばある。

 しかし、「聞かれない声」をすべて「聞くことのできる声」に変え、医療者と患者のすれ違いを減らそうとすることに、私はあまり価値を見出さない。

 どれだけ言葉を尽くしても、こころのあり方を言い尽くすことはできず、言葉にならない思いは常に残る。そして、残った思いがほんとうの思いでない保証はどこにもない。

 すべてを見えるようにするよりも、それでわかったつもりになるよりも、見えない部分、わからない部分に、ひととしての優しさ、傷つきやすさ、相手を思う心があることを信じたい。患者も医療者も、強さと弱さを抱え、日々を試行錯誤する同じ人間であることに希望を見出したい。

 人の痛みをものともしない心ない患者や医療者も中にはいるであろう。しかし、少なくとも、文化人類学者である私がこれまで出会った患者や医療者は、みな心あるひとたちであった。

磯野 真穂(いその・まほ)/早稲田大学文学学術院助教

【略歴】
早稲田大学人間科学部で運動生理学を学んだ後、オレゴン州立大学にて応用人類学修士号を獲得し、早稲田大学文学研究科にて2010年に博士【文学】を取得。専門は文化人類学・医療人類学。
心身症や医師-患者間のやりとりなど、医療をフィールドとした文化人類学を行っている。主な著作には、『医療の語らなかった摂食障害-摂食障害の食の文化人類学的探求-』(2010年、博士学位論文)。

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