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研究力

▼WASEDA研究特区―プロジェクト研究最前線―

脳の世紀、心の世紀にふさわしい
科学の社会的還元を追究する

応用脳科学研究所(2010年度 文部科学省私立大学戦略的研究基盤形成支援事業)

 早稲田大学は、2007年に創立125周年の節目を迎えたことを契機に、大学経営の中長期計画「Waseda Next 125」を打ち出すとともに、世界に通用する「研究のWASEDA」の確立へ向けて、大学として組織的・戦略的に力を入れていく重点研究推進分野を策定した。目標を実現に移していくために、2009年4月には戦略研究を推進していくための全学組織、重点領域研究機構が新たに設置され、2009年度・2010年度に、各年4つの重点領域において、学内研究プロジェクトの公募が行われた。

 この初年度の4つの重点領域の1つ「健康・医療の新潮流形成」に、学内から11のプロジェクトの応募があった中から唯一採択されたのが、早稲田大学人間科学学術院とスポーツ科学学術院の教員が中心となって組織する応用脳科学研究所による研究プロジェクト、「脳と心の科学の社会的還元―総合人間科学に基づく応用脳科学―」(図1)である。

応用脳科学研究所の所長を務める、熊野宏昭・人間科学学術院教授

 「応用脳科学」とは、近年の脳科学の発展をベースとして、その知見を社会へ還元するとともに、日々の生活の中で人々が健康増進や病気・障害の治療などに役立てていけるようにするための、幅広い学際的研究領域をさす。非常にホットな分野で、多くの企業が参入して産業化・商業化をにらんだ開発研究も盛んに行われるようになってきている。しかしながら、学問としての応用脳科学はまだ端緒に着いたばかりである。

 人々が脳科学を自分達の生活に安心して取り入れていくには、脳科学を社会へ応用していくための学術的研究がしっかりと推進され、応用脳科学そのものの科学的基盤が確立される必要がある。こうした目標のもとでスタートしたのが、早稲田大学応用脳科学研究所である。同研究所が推進する研究プロジェクトの取り組みについて、所長の熊野宏昭・人間科学学術院教授に話を聞いた。

図1 早稲田大学応用脳科学研究所の研究ビジョン

多岐にわたる関連研究領域が結集

 「21世紀は、脳の世紀・心の世紀と言われてきて久しいのですが、ところが実際は、情報過多になってかえって混乱してしまっています。人間や社会にとって、脳や心の科学の知見をどう応用していくことが良いのかがよく見えてこないのです。脳科学が日々の健康増進の中でどう役立てられるのかを分かりやすく提示し、心の病気や障害にもこれまでとは違った新しい切り口での治療や支援を開発していくことが求められています」(熊野所長)

 脳科学といわれる分野は、臓器としての脳を研究する狭義の脳科学から、近年はスポーツ科学、人間科学、さらには社会科学などとの学際領域で展開される広義の脳科学まで、幅広い範囲にわたっている。脳科学の知見を俯瞰し、必要なものを相互に連関させながら応用領域を構築していくことが必要とされるが、見通すべき範囲があまりに広がりすぎていて、総合することが非常に難しい。

 この点で、応用脳科学研究所の強みは、25人というコンパクトな陣容ながら、医学、生物学、スポーツ科学、健康科学、臨床心理学、基礎心理学、情報科学、工学、言語学、環境科学……と、じつに多岐にわたる専門領域から研究者が結集していることにある。もともと早稲田の人間科学、スポーツ科学が、幅広いバックグラウンドをもって学際研究を組織してきた歴史があり、今回はそのなかから、脳科学に関わりを持つ、もしくはそこに隣接する研究者を総動員している。

 「応用脳科学には様々なアプローチで取り組まれていますが、ここまで多様な分野が比較的小さな規模のセンターにぎゅっと集まった研究プロジェクトというのは、世界でも他に例がないと思います」(熊野所長)

 図2は、応用脳科学研究所の研究領域の広がりを示したものである。大きく分けて、水色で示された脳神経系の構造と機能を研究する「脳グループ」、赤色で示された生涯発達とコミュニケーションを研究する「発達グループ」、オレンジ色で示された行動・社会・環境の関わりを研究する「行動グループ」の3つから構成されている。

 脳グループは、脳科学の基礎的な研究を専門とする研究者で構成されており、それぞれの先進的な脳研究を推進しながら、プロジェクト全体がしっかりとした脳科学的な根拠をもって研究を進めているかをチェックし、アドバイスしていく役割も担っている。発達グループでは、例えば右上の高齢・障害に関するテーマでは、ロボット介護・看護の認知症治療への応用が、左下には子どもの発達や能力開発、真ん中の上側には言語情報学による発達障害の研究に脳科学を応用していく研究などがマッピングされている。行動グループは、上側には、脳や心の科学と社会とのインタフェースとなるような研究が、また真ん中には、臨床心理学・行動医学系の研究が位置づけられている。

図2 応用脳科学研究の実施体制

脳が心を変え、心が脳を変える

 具体的な取り組みとして、例えば、熊野所長らの臨床心理学の研究(行動グループ)では、うつ病やパニック障害といった疾患と脳の働きとの関係の解明と、その知見を活かした行動療法・認知行動療法が探究されている。

 「うつ病やパニック障害は、現在、心の病気というよりも、脳機能の異常によって引き起こされた病気と理解されています。通常の医学の考え方では、薬で脳の働きを調整しようということになり、薬を正しく使えば確かにとてもよくなります。しかし薬を使わずとも、認知行動療法という、その人の行動パターンを系統的に変えていく療法によっても十分な回復がみられるのです。そのうえ、認知行動療法の方が、薬による治療よりも再発が少ないことも知られています」(熊野所長)

 理由もないのに不安発作を繰り返すパニック障害。ひとたびある状況――例えば電車の中で不安発作を起こすと、「電車に乗る」というだけで不安のボタンが押されて、発作につながることが習慣化していく。発作時には、短時間で、激しい動悸、息苦しさ、胸の痛み、めまい、自分がおかしくなりそうな恐怖、死の恐怖などが出現し、乗り続けていられずに電車から降りてしまう……。認知行動療法では、パニック障害の治療のために、外出訓練や乗車訓練など、苦手とする状況の体験的な克服を積極的に行う。具体的には、5分おき、10分おきに、自分の不安の度合いを点数化してチェックしていく。すると、あるところまでは不安感が猛烈に増していくが、15~20分を過ぎると楽になっていく。このような不安のピークを超える過程を体験することが、パニック障害の改善にはとても効果があることが分かっている。

 熊野所長は、パニック障害の患者では、脳の扁桃体、海馬、中脳水道周囲灰白質といった部位が、発作時だけでなく安静時にも活動が高まっていることを2005年の論文で世界に先駆けて明らかにしている。さらには、その翌年に、上記のような認知行動治療を行うと、治療前と比べて、額の奥、前頭葉の正面にある背内側(はいないそく)といわれる部位が、限定的に活性化していることも発見している(図3)。

 「この部位は、自分の心の中で起きていることを、少し距離を置いて、客観的に観察する機能を果たす部位だということが分かってきています。前頭葉は、人間が人間らしく生きるために、目の前の欲求や衝動に負けずに、長期的に自分のためになるよう行動をコントロールする役割を担っています。系統的な訓練法を使って前頭葉の機能を改善することで、パニック障害のほかにも、発達障害や、意外なところでは糖尿病や肥満を改善していくことができるのではないかと考えています」(熊野所長)

 このほかにも、発達障害の研究(発達グループ)では、アスペルガー症候群という、知的な問題がないにもかかわらず、自閉症と同じようなコミュニケーションの困難を抱えている患者についての研究が行われている。アスペルガー症候群は、言葉を介したコミュニケーションはうまくできるが、非言語的なコミュニケーションに問題があるため、場の雰囲気が読めない、相手の感情が読めないといった障害が特徴的である。通常人間は、声のトーン、強さ、速さなどで感情的なコミュニケーションを介して相手の真意を読み取るといったことを自然に行っているが、この読み取りに問題があることが明らかになってきた。こうした言語情報学のアプローチによる知見を、さらに脳の働きと結びつけて深めていくことが目指されている。

 「大切なことは、系統的な訓練をすることで、脳の特定の部位を鍛えることができるということです。言い換えれば、心が変われば脳が変わり、脳が変われば心が変わる――こうした関係性を様々な領域で科学的に検証し、応用脳科学の可能性を追究しています」(熊野所長)

図3 熊野所長らのグループでは、パニック障害への認知行動療法の前後の脳の状態を比較(11人の被験者のデータを統合)、症状改善に伴って背内側前頭前野の働きが活発化することを世界に先駆けて発見した。

幅広い知見のデータベース化へ

 2009~2011年度の3年間の重点領域研究の学内研究資金に加えて、2010年度には、文部科学省の私立大学戦略的研究基盤形成支援事業にも採択され、今後5年間の研究資金が確保された。国立精神・神経医療研究センター、日本医科大学(それぞれ2008年と2009年に早稲田大学と包括連携協定を締結)や広島大学大学院医歯薬学研究科との組織的な連携も進んでいる。

 「今後3年間は各グループの研究を推進し、3年後にいったん成果をまとめ、後半2年間の展開を議論する計画です。それに向けて、情報系の研究者を中心に様々な研究成果をデータマイニングして、応用脳科学に関するデータベースの枠組みを構築していく予定です。広い分野にわたる応用脳科学を横断して、継続的にデータベースを拡充していくとともに、広く一般にも公開していくことを目指しています」

 2010年度は、脳の血流を測定する光トポグラフィ装置をはじめ、多領域で共通に利用できる使い勝手の良い設備が整い、学際的な研究活動を本格化させていこうとしている。こうした装置を気軽に活用できる環境で、これまで脳科学との結びつきがなかったような多様な分野の研究者が、応用脳科学と社会とのつながり、人間とのつながりを広げていこうとしている――。

図4 5年間の研究ロードマップ (平成22 年度 文部科学省私立大学戦略的研究基盤形成支援事業「脳と心の科学の社会的還元のための応用脳科学研究基盤の形成」)

関連リンク

早稲田大学重点領域研究機構 応用脳科学研究所
http://web.me.com/kumanolab/IABS/

早稲田大学重点領域研究機構
http://www.kikou.waseda.ac.jp/jyuten/

早稲田大学人間科学学術院
http://www.waseda.jp/human/

早稲田大学スポーツ科学学術院
http://www.waseda.jp/sports/

国立精神・神経医療研究センター
http://www.ncnp.go.jp/