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YOL×ワールド・トレード・センターDVD コラボレーション企画
9.11、あなたは何をしていましたか?エッセイ発表
事件が起こった日に体験したことや感じたこと……
たくさんのご応募ありがとうございました。その中から10名の方のエッセイを紹介いたします。

【 愛知県 30代 女性】
 2001年9月11日忘れも出来ません。ちょうど私は臨月でなかなか夜眠れず暗いリビングでTVを点け、ボーっとしていました。その時ニュース速報で事件を知った衝撃。N.Yは私の中で小さい頃から憧れで、いつかツインタワーに登ってみたいと思っていました。すごくショックでTVから目が放せなくなっていました。次の日も次の日も一日中N.Yの事件で持ちきりでした。時間がたつにつれてどれだけの犠牲が出たのか考えると胸が苦しくなり、生に対してとても考えました、これから生まれてくる命、失われた命・・どれをとっても一つしか無く愛しい命なのに・・・などと考えていました。惨事から4日後私の所に新しい命が誕生しました。病院内のTVも9.11のニュースで持ちきりの中自分にできる事は二度とこんな事が起こらないように、愛情の枯れる事の無い、愛の溢れる人が増えて欲しいと願い息子に(いずみ)と名付けました。これから子供たちが愛の溢れる世界を作り上げていってくれる事を願います。

【 神奈川県 40代 男性 】
 その日、私は成田空港にいた。 翌朝の便に乗るため、空港近くのホテルにいた。テレビ画面には、煙の出たビルが映っている。たいへんなことが起こった、と息をのんだ。それからビルが崩壊した。 自分は明日、海外への飛行機に乗る。安全に飛べるか。そもそも飛行機は予定通りに運航されるのか。不安だった。そこで起こっているのは、テレビの向こう側の出来事だ。しかし明日、自分は海外行きの飛行機に乗る。「世界」で起こっていることに、いやおうなく参加させられているようで、怖かった。 私が行った北ヨーロッパの町は平穏だった。タクシーのラジオから、自分の知らない言語の合間に「オサマ・ビン・ラディン」という言葉だけが聞き取れた。世界はつながっている、と思った。 帰国のとき、空港でアラブ系の男性が、厳重なチェックを受けていた。搭乗を拒否されたようだ。ぼくも「こんな人と一緒に乗るのかよ」と差別的な感情をもった。男は、激しく抗議して、それから悔しそうに泣いた。彼も「被害者」だった。 あの男の涙は、忘れない。
【 東京都 40代 女性 】
 あの日、主人と二人でTVを見ていました。一機目の事件の中継を見ていると2機目が激突・・最初、映画を見ているようで現実感がまったく感じられませんでした。更にペンタゴンに飛行機が突っ込んだ時世界大戦の恐怖が心の奥に広がりました。結局、大戦には至りませんでしたが、その後も中東の情勢は緊迫したまま・・テロにより日本人が惨殺されたり。距離というのは怖いもので、今、そこで起こっている現実が歴史の中の1ページのように感じられるのです。傷ついている人がそこにいるのに・・・破壊される建物がそこにあるのに・・・もっと考えなくてはいけないのに平和ボケしている私がいます。先日、10歳の娘と二人映画館で9.11を見ました。泣いてしまった娘を見て可哀想だったとも思いましたが彼女には感じて欲しかった、考えて欲しかった。間違っていなかったと信じています。
【 愛知県 30代 女性 】
 その日、結婚式に着るホワイトドレスを作っている最中でした。部屋の中には1人。テレビはつけっ放しでした。大きなオーガンジーレースを部屋いっぱいに広げ、裁っていたまさにその時でした。番組がいきなり変わり、いつものニュースが少し早めに始まりました。目線はレースからテレビへ。しばらく見ていると2機目が生放送中に直撃。「何が起きているんだろう・・・」しばらくはそのニュースに釘付けです。そして、2機目突撃したビルが崩れていく姿。恐いのと寂しくなってしまったことで、婚約者に電話しました。婚約者の声を聞き何だか分からないけど少しだけホッとした事を鮮明に覚えています。結婚するまで日記を付けていたんですが、その日の日記はその事件についてばかりを書きました。しかし、その時の気持ちをどう言葉にして書き込んだらいいのか分からなく、日記の最後は「・・・。」なのです。

【 東京都 20代 女性 】
 深夜ふとテレビをつけたら、飛行機がビルに衝突してビルが崩れていく様子が何度も流れていた。ひとりぼっちテレビの前。同じ映像を何時間も見て、同じようなアナウンスを何時間も聞いて、信じられないまま朝になった。私は大学4年生だった。何も用事がない夏休み、誰かに会いたくて、大学に行くことにした。いつもの駅、いつものように通勤客が列を作って電車を待っていた。違うのは、新聞の一面。でも誰もそのことについて話していなかった。人がたくさんいるのに一人ぼっち。大学に着くと、いつもの場所に友人が放心状態で座っていた。友人が、「ニューヨークのこと・・・」と言った。友人も孤独にテレビを見ていたのだ。友人と私はビルに飛行機が突っ込んだことを話した。人がたくさん死んだことも、たくさんの人を殺した人も死んだことも、たくさん人がいる東京で、私も友人も大学でたまたま会うまで、お互いひとりぼっちだったことも、悲しすぎた。
【 東京都 40代 女性 】
 アメリカ人の主人とエアーフォースに属しているその友人で「この日は何をしていた?どう思った?」夕食時に話題になった。その時‥私は東京在住。台風15号の中、夜11時頃仕事より帰宅しTVを見て知った。身体が震え「戦争が起きる!」と思ったと話した。一方主人はカリフォルニア在住のサラリーマン。いつものように会社に早朝5時に出社し仕事をしていた。第一報は朝5時40分頃、京都在住の友人からの国際電話で知った。その後同僚達とラジオやTVに釘づけになった。「とにかく情報を得なければならない」と思った。皆仕事どころではなくクレイジーになっていたと言った。友人はコロラド州のエアーフォースアカデミー(アメリカ空軍士官学校)内に居た。朝のシャワーを浴びたあと、急遽呼ばれクラスへ集合の後、TVのニュースを見せられた。エリートと言われているクラスメイトも動揺していた。その日から3ヶ月間外出禁止令が出てアカデミーの中で待機していたと話した。2001年9月11日、皆それぞれの場所でこの事件を知った。そして「この悲劇を報復で返すことは許されない悲劇の繰り返しはしてはならない!」皆の思いは同じだという事がわかった。
【 静岡県 30代 女性 】
 9月11日。この日、多くの消防士の命が奪われた。実は、この日は夫の誕生日である。そしてその夫の職業は、消防士である。テロが起こったあの日、夫は夜勤で消防署に勤務中であった。私はいつものように、家で子供を寝かしつけゆっくりとテレビを観ていた。もしあのテロ事件が私の住む町で起きたとしたら、間違い無く夫は出動しただろう。そしてもしかしたら、私や子供を残して命を落とすことになったかもしれない。どうしてもこの日は他人事には思えない。当たり前だが、夫の誕生日は毎年やってくる。私達家族は、夫の誕生日であるこの日を祝っている。しかしあのテロ事件で亡くなった消防士の家族にとっては、悲しみの日である。私はあの日以来、9月11日を複雑な気持ちで過ごすこととなった。
【 広島県 50代 男性 】
 私はテレビの映像に言葉を失った。2日前その中にいたビルが燃えているではないか!それも本来の予定なら、今私はあのビルの中に居たのである。急遽予定を変更して帰国していなかったら、、、頭の中が真っ白になった。 あの事件から私の人生観が変わった。テロを擁護する気はないが、ミュンヘンオリンピックでのテロ事件の時、ノーベル賞受賞を拒否したサルトルが何と言ったか知っていますか。ナチスと闘った行動派の哲学者は「テロは弱者の原爆だ」と擁護した。humanistでブルジョアを憎んだ緻密で繊細な心の持ち主のサルトルの言葉である。アメリカに象徴される強者の横暴に抵抗するにはテロも敢えて仕方がないかもしれない。日常生活でも、我々は相手の気持ちを十分考慮して行動しているだろうか。皆な自尊心を持っているのだ。虫けらの様に踏みつけられたら噛み付かれても仕方がない。奴隷にはなりたくないから。
【 神奈川県 19歳以下 女性 】
 テロが起こった日、私は家にいた。まだ小学六年生で、遠い国のアメリカのことを「大変だな」とぼんやり思っていた。それから五年後、二〇〇六年四月一日、私はワールド・トレード・センターの前にいた。学校のプログラムでホームステイをし、ホストファミリーがワールド・トレード・センターに連れきてくれたのだ。ビルの残骸が広く散らばり、本当に大規模なテロだったのだと目の前で見て実感した。私が気になったのは、「二〇〇一年九月十一日のヒーロー」とその下にテロで亡くなった人々の名前が書かれていたことだ。どうして「ヒーロー」なのだろう。なぜ「犠牲者」と書かないのだろう。私はそのことについて考え、自分なりに結論を出した。きっと彼ら、彼女らはヒーローのようにではなく、犠牲者として悲しみ死んでいったのだと思う。そして、生き残った人々はその思いを受け取って、救うために「ヒーロー」と書いたのだと思う。悲しい「ヒーロー」だ。こんな「ヒーロー」は誕生してはいけないと、早く世界中の人々に気づいてほしいと願っている。
【 愛知県 30代 女性 】
 美しいNYの秋空、そこにそびえ建つWTCを26階の自宅の窓から見ながら2歳の娘と二人、朝食をとっていた。アパートの窓が大爆発とともに揺れWTCから書類がはらはらと落ちていくのが見えた。現実が現実のことと思えなく暫く呆然としていた。2度目の爆発音がした。火をあげてじわじわとそして確実に燃え広がっていた。主人は出張中、この子を守るのは私しかいないと思い、娘を抱いて家を出た。アパートの前はWTC。周りは川で逃げ場所がないのだ。灰や爆発物が次々と降ってきて目の前が見えない。火事か戦争かテロなのか?泣き叫ぶ人たちのなか、絶対この子を死なせないと再度強く思った。そして、軍の救援船がきていることを知った。だれもいない灰の中の道を子供を抱え船着き場へと走った。船は既に一杯で、こぼれ落ちそうなほどだ。私たちが乗るようなスペースはなかった。『子供がいる人は端は危ないから船の一番真ん中へ行け。』と皆が一番安全な場所をあけてくれた。生死がかかわる状況の中、人種も宗教を越えて私たち親子を助けてくれたボートの人々の愛、その心がいつか世界平和に繋がることを信じています。

エッセイが紹介された10名の方には記念品をお送りいたします。
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