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サーキット徒然草

129周目:ロドリゲス兄弟を聴け

 夏は「クレイジーケンバンド」に限るぜ。

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 昔、メキシコにロドリゲス兄弟という天才レーサーがいた。

 特に弟のリカルドは、これぞ神童というキャリアを誇っていた。10歳で国内自転車チャンピオン、11歳でオートバイのローカルチャンピオン、13歳でメキシコ2輪チャンピオン、15歳でメキシコ4輪チャンピオン、16歳で国際競技ライセンスを獲得、19歳でF1GPデビュー(それも名門フェラーリから。緒戦イタリアGPで予選2位)、20歳でメキシコの「最優秀スポーツ選手」に選ばれるも、秋開催の第1回メキシコGP予選中に不慮の事故死。享年20歳。

 2歳年上の兄ペドロもまた、2輪から4輪へと転向して頭角を現していた。当初、弟は兄を追い越そうと必死だった。それがいつのまにか、弟の方が脚光を浴びるようになっていく。弟リカルドが世を去った時、兄ペドロはいったんは引退を考えるが、数か月後にはサーキットに戻ってきた。レースからは離れられなかった。

 兄弟のうち優れているのは弟の方だという見方は衆目の一致するところで、その弟が事故で亡くなった以上、残った兄にチャンスが巡ってくることはほとんどなかった。兄ペドロの活動は、60年代後半まで、もっぱら北米大陸内にとどまる。

 そんなペドロだが、67年南アフリカGPでクーパー・マセラーティを駆って優勝すると遂にF1レギュラーシートをつかみ、、68年ル・マン24時間ではフォードGT40で優勝と、国際ドライバーとして再評価され始める。69年はBRM/フェラーリ/マートラとチームを転々としたが、70年になるとF1はBRMの、スポーツカーはポルシェのエースの座を射止める。勇気(と技量)が試される旧スパ‐フランコルシャンを舞台とした70年ベルギーGPでは、BRMを操り平均時速240km/h以上の高速で走り切って、自身2度目のGPウィン。当時のF1GPはフォード‐コスワースDFVエンジン搭載車が大多数を占め、実際に強かったが、ロドリゲスは常に「非DFV」陣営にあったから、勝機は少なかった。

 ペドロ・ロドリゲスの真価が発揮されたのはむしろ、「じゃじゃ馬」ポルシェ 917を駆った国際スポーツカー・レースにおいてだった。当時は、F1(3リッター、450馬力)よりもスポーツカー(5リッター、550馬力)の方がトップレベルでは速かったのだ。しかもスポーツカー・レースは遅いクルマも混ざっての長距離戦であり、メーカーの威信もかかっているから、速さだけでも確実さだけでも駄目だった。国際的なトップドライバーならF1もスポーツカーも両方操って一人前とみなされた。当時のスポーツカー・レースがいかに華やかだったかは、スティーヴ・マックイーン主演の映画『栄光のル・マン』を見れば分かる。ポルシェ 917とフェラーリ 512Sの死闘は本物のサーキットでも実際に繰り広げられた。

 そのポルシェ 917を、誰よりも巧みに、誰よりも速く走らせた男がペドロ・ロドリゲス。70年にはデイトナ24時間、ブランズ・ハッチ1000km、モンヅァ1000km、ワトキンズ・グレン6時間で優勝、71年にはデイトナ24時間、モンヅァ1000km、スパ1000km、エステルライヒリング1000kmで優勝。一緒に組む相棒ドライバーより確実に速かった。

 ジャッキー・スチュワート、ヨッヘン・リント、ジャッキー・イクスら名手たちと同時代のトップレーサーであると誰もが認める存在になった。もはや「あのリカルドの兄」と言う者はいない。

 71年夏、彼ペドロは取るに足らないマイナーイベントにいつものポルシェではなくフェラーリを駆って参戦した。どんな小さなレースでも、声がかかれば彼は喜んで駆け付けた。レースすることが心底好きなのだった。しかし彼はドイツ;ノリスリング(かつてナチの集会場だった場所だ)でトップを快走中に不可解な事故に遭い、炎上するマシーンの中で命潰えた。享年31歳。

 弟リカルドは20歳で、兄ペドロは31歳で、ともにレーシングマシーンのコクピットに就いたまま、世を去った。

 メキシコ人で国際的に活躍したレーサーは非常に少ない。にもかかわらず、二人のロドリゲスは1950年代末から70年代初頭にかけて縦横無尽の活躍をし、世界チャンピオンにはならなかったとはいえ、その存在感を大いに示した。

 日本国内に海外のモータースポーツ情報が伝わるようになったのは、60年代半ば以降のことだ。弟リカルドのレースっぷりをリアルタイムで知る者はほとんどいなかったことになる。その後、もれ伝わってくるリカルドの武勇を知るにつけ、それを背負いながら奮闘し続けるペドロのレースっぷりが、なぜか少年の心には深く強く沁みてくるのだった。

 1962年、メキシコ・シティに完成した本格的なサーキットは、その記念すべきオープニングイベントにおいて、地元の英雄を失う予期せぬ事態となった。その地は「リカルド・ロドリゲス・サーキット」と命名される。そして71年秋に開催されるはずだったメキシコGPは中止され、そこに再びF1が戻ってくるのは15年後の86年まで待たなければならない。亡き兄弟を讃えて、コース名は「エルマノス・ロドリゲス・サーキット」へと改まっていた。

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 「クレイジーケンバンド」の最新アルバムは「ソウル・パンチ」だ。その12曲目を聴いてオイラは驚き、そして涙した。

 まだ聴いてない者は、つべこべ言わずに聴くように。い〜〜〜〜〜〜〜ねっ!

(2005年7月20日  読売新聞)