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サーキット徒然草

77周目:船橋サーキット再訪

 先日、雑誌の企画で船橋サーキットの跡地を訪ね、当時の総責任者の方から話を伺えるという願ってもない機会があった。

 「船橋サーキット」といっても、今やその存在を知らない者の方が多いだろう。東京湾に面した千葉県船橋市の埋立地に、1965年7月から67年7月までの丸2年存在して人気を博したレース場だ。

 埋立地ゆえ平坦で、一周距離はインフィールド部の使い方で 3.1km/2.4km/1.8kmの3通りがあったが、いずれにせよ短めのコース。直線部分もあるが、全体的には曲がりくねってテクニカルで低速に設定されていた。静岡県のダイナミックで高速な富士スピードウェイが開業するのが66年1月のことだから、船橋はそれより半年前、つまり関東初の本格的サーキットということになる。当時、日本に存在したサーキットは三重県の鈴鹿のみで(開業後3年弱)、東名高速道路も未完成という時代だから、関東・東京近郊の人々にとっては実に大きなニュースだった。60年代半ばといえば、東京オリンピック直後、高度成長の真っ只中、マイカーブームの到来が言われ、国内自動車産業が延びに延びまくっていた時期だ。

 そのオープニングレース、65年7月18日開催の《全日本自動車クラブ選手権レース大会》(通称CCCレース)は、諸般の事情によりその年開催されなかった《第3回日本グランプリ》の代替イベントという意味合いが強く、国内各メーカーが主要ドライバーとマシーンを送り込み、さらに珍しい外車も数多く登場し、注目が集まっていた。当日はあいにくの雨に見舞われたが、スタンドを埋めた3万6000人の観衆は、後世に残る名勝負を目のあたりにすることになる。GT1レースの序盤に接触事故を起こした浮谷東次郎駆るトヨタスポーツ 800は、ピットでフェンダーを叩き出して修理し、最後尾からレースに加わると猛烈な勢いで追い上げ、遂にはトップを行く生沢徹(ホンダS 600)に追い付き追い抜いて見事な逆転優勝を手中にする。観衆のどよめきが浮谷の走りと共にコースを周回したという逸話も残っている。浮谷はGT2レースでもロータス・レーシングエランに乗って勝ち(2位はまたしても生沢のスカイラインGT)、2種目制覇を達成、一躍ヒーローとなった。しかし、その浮谷はわずか1ヵ月後、鈴鹿で練習走行中、謎の事故死を遂げてしまう。享年23歳。「うきや・とうじろう」の名前はレーサーとしてよりもむしろ、彼が生前書き残した手記や何冊もの本によって、若者の生きざまのバイブルとして今もなお語り継がれている。

 その東次郎が、サーキット完成前の時点でガールフレンドであり女流レーサーとなる近藤美智子嬢と一緒に船橋にやってきては「走らせてくれ」と懇願していたこと、オープニングイベントのエキジビション走行の際に登場した最新鋭ロータスF3マシーンは船橋サーキットが当時高額を支払って空輸したものだったこと等、面白いエピソードの数々も今回の取材で初めて聞くことができた。

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 もともと船橋サーキットは、朝日土地興業が1955年に開業したレジャー施設「船橋ヘルスセンター」の中の一事業だった。「船橋ヘルスセンター」は言うなれば現在の「東京ディズニーランド」の先駆的存在であり、60年代には大いに賑わった。三木鶏郎が作曲し楠トシエが唄った「長生きしたけりゃ、ちょっとおいで、チョチョンのパッ」という船橋ヘルスセンターのCMソングは、現在40代以上の者には懐かしく思い出されるものだろう。 ヘルスセンター内の「ゴールデンビーチ」や「大滝すべり」を発案し成功させ当時40代前半の働き盛りだった丹澤章浩氏は、自身ロータスエランを乗り回すほどの「カーキチ」であり、知人からサーキット建設の話が持ち込まれると、すぐに乗り気になった。元2輪/4輪GP選手であり理論派テクニシャンとして高名だったイタリア人ピエロ・タルッフィが間髪入れずにやってきて(どうやら日本での別のサーキット建設の話が頓挫した直後だったらしい)、船橋サーキットを設計すると、わずか半年にも満たない短期間で完成した。ヘルスセンター代表者である父親には内緒で進めたサーキット建設だったらしいが、盛大に催されたオープニングイベントの時にはその父親もニコニコ嬉しそうだったと言う。

 ヘルスセンターでの歌謡ショーに招かれた人気歌手や俳優が、サーキット走行をしたり、サーキットに隣接する飛行場を使っての遊覧飛行を楽しんだり、むしろそちらの方を楽しみに来てくれていたという話も、なかなか興味深い。レジャー施設の一環としてのサーキットという考え方は実に進歩的だったと、いま改めて思う。

 しかし、事は良い方向には進まなかった。

 日本国内でレースイベントを開催するためには、その唯一の統轄団体であるJAFの方針に従わざるをえない。国内レースの黎明期である当時、統轄団体の方針や構成員は常に揺れ動いていて定まらず、サーキット運営者はその荒波に翻弄されるしかなかった。船橋ではビッグレースがなかなか開催できず、赤字が増えていった。

 67年夏、船橋サーキット閉鎖の報に驚いたオイラは小学6年の洟垂れ小僧だったが、「サーキットのある場所は、移転先を考慮中だったギャンブルの船橋オートレース場の熱心な申し入れにより、これに替わることになった」という『オートスポーツ』誌の記事を読んで、すごく虚しい気分になった。しかし今回の取材で、オートレース場の話を進めたのは意外なことにむしろ船橋サーキット側であることが分かった。クルマが好きで、サーキットまで造り、他の仕事があるにもかかわらず開催イベントには欠かさず顔を出し、JAFとの折衝をすべてひとりでやった丹澤氏だったからこそ、決断を下すのも早かった。氏は「我々はレース運営の専門家ではなかったですから」とやや自嘲気味に言うが、かなり早い段階で、このままサーキット運営を継続するのはリスキーすぎると転用を考え始めたというのは、けだし卓見であったかもしれない。日本のレース界のダメぶりを見抜いていたのだ。話を聞きながら、36年ぶりに別の意味で虚しい気分を味わった。「楽しかったし、悔いはありませんよ」という氏の言葉にやや救われはしたが。

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 かつて隆盛を極めた「船橋ヘルスセンター」は時の流れの中、77年に閉幕し、80年代に入ってからは巨大ショッピングセンター「ららぽーと」へと変貌している。03年3月の週末、そこは大勢の人々で賑わっていた。隣接する巨大な屋内スキー場「ザウス」は近々取り壊されるそうだ。その右麓に現在ある船橋オートレース場に、かつて船橋サーキットが存在していたことになる。2年間に開催されたレース数は35戦ほど。60年代の熱気と興奮がいっぱい詰まった一戦一戦だったはずだ。今後も追跡調査をしていきたい。

 都心から電車で数十分で行ける小さくて親しみやすい本格的サーキットが、かつて間違いなくあったのだ。何もF1開催が可能である大きなサーキットである必要なんてない。安全に楽しめる小さなサーキットが、たとえばお台場あたりに出来たら、船橋サーキットの趣きを再び少しは感じさせてくれるだろうのに。

 今回取材した話の一部、および船橋サーキット古今の写真は『レーシングオン』誌5月号に載っている。興味のある方はどうぞ。

 現在と未来は、常に過去の上に成り立っているのだよなぁ。