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伴奏者たちのアテネ

長嶋さんに元気もらった

野球日本代表チームマネジャー 中村 勝彦さん 37

 野球日本代表監督・長嶋茂雄(68)のアテネ五輪断念が発表された2日。会場の片隅で、日本チームのマネジャー中村勝彦(37)は、自分が準備した発表会見の様子をじっと見守っていた。

 全員がプロ野球選手で臨む初めての五輪。ニッポン野球の威信をかけた闘いになる。「長嶋監督」と一緒に行きたかった。

 「監督のエネルギーは、チームに伝わるはず」。中村は思いを断ち切って、アテネへの準備を再開した。

キューバとの五輪壮行試合で、選手にデータを伝える中村さん(右から2人目。7月13日、東京ドームで)
キューバとの五輪壮行試合で、選手にデータを伝える中村さん(右から2人目。7月13日、東京ドームで)

 裏方になるつもりはなかった。

 プロを夢見て、捕手として日体大に進学。しかし、3年生の冬、体育の授業で転倒して左肩を強打、靱帯(じんたい)断裂の大けがを負った。

 自暴自棄になっていた中村を、同じ病室に入院していた初老の男性が励ました。男性は糖尿病の悪化で足を切断していた。「こんなことで、腐っている場合じゃない」と目が覚めた。

 それでも白球とのかかわりを求めた中村は、退院後、青年海外協力隊の野球指導員に応募した。

 90年7月に赴任したのは、中米のコスタリカ。ジュニアのナショナルチーム監督として、有望選手を発掘するのも仕事だった。

 カリブ海に面した地方都市の公園では、飛び抜けて足が速い9歳のウェイロンという少年に出会った。

 仕事にあぶれた男たちが、昼間から酒を飲んで通りで寝ているような街。「費用はかかりません。週に1度は実家に帰します」と親を説得し、首都サンホセのチームに入団させた。

 昨年11月、コスタリカを再訪した。教え子11人のうち9人は、アメリカのマイナーリーグに巣立っていた。21歳になり、大学の特待生として野球を続けていたウェイロンは、「あなたのおかげで人生が変わったよ」と言ってくれた。コスタリカでの2年間が報われた気がした。

 帰国後、94年に日本プロ野球コミッショナー事務局の総務部門に入った中村は、海外チームのデータ収集、宿舎の手配、用具の発送と、五輪に向けた雑用の一切を引き受けている。

 過労で倒れた今年2月、病院を抜け出して日本代表チームの会議に出席した中村の姿を見て、長嶋は「顔色が良くなってきた。大丈夫だよ」と声を掛けた。マネジャーとして接するうち、「並外れて前向きで、一切、苦情を言わない。すごい人」と思うようになっていた。長嶋の言葉に、元気をもらった気がした。

 しかし、10日後、その長嶋が病に倒れた、と知らされた。「いろんな仕事を嫌な顔ひとつせずに引き受けていたから、疲れがたまってしまったのだろうか」と思った。

 7月、日本代表は、最大のライバル、強豪キューバとの壮行試合に臨んだ。その試合を申し込むためにキューバを訪れたのも中村だった。

 高い運動能力。そして勝利へのあくなき執念。キューバ選手たちの目は、自分の力で貧困からはい上がろうとするコスタリカの少年たちに重なって見えた。壮行試合でも、ルール違反すれすれのけん制球で、日本選手は何度も刺された。「こっちが、いかに彼ら以上に本気になれるかが勝負だ」と中村は思う。

 プロ・アマ混成チームで臨んだ前回シドニー五輪で、日本代表はメダルにも届かなかった。初めてマネジャーを務めた中村自身、海外チームのデータをうまく選手に伝えられなかったという苦い反省がある。

 今、「プロの裏方」を自任する中村は「今回は、準備が整った」と話す。そして、言った。

 「帰ってきたら、監督に金メダルの報告をしたい」

 雪辱を期す“長嶋ジャパン”の一員として、中村は5日、直前合宿の地イタリアへと旅立つ。(敬称略)

 (2004年8月4日付 読売新聞 無断転載禁止)

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