第二部 近代五輪〈1〉
「原型は英国にあり」
オリンピック復活の考案者はブルック博士――。19世紀末、ギリシャの古代五輪の伝統を汲(く)んだ国際大会の創始に尽力、「近代五輪の父」と呼ばれるクーベルタン男爵(仏)の功績に、真っ向から異議を唱える小村が英国にある。
ロンドンから、北西へ車で3時間余り。ウェールズとの境界近くにある「マッチ・ウェンロック」は、ひなびた石造りの家並みが続くひっそりとした田舎町だ。ここで1850年から今日まで、地域住民を中心にした競技大会「ウェンロック五輪」が毎年開かれてきた。
五輪博物館に現れた、マッチ・ウェンロック五輪協会のヘレン・クロマティ前会長は「クーベルタンは確かに五輪を復興させたが、国際的な五輪大会のアイデアは、もともとウィリアム・ブルック博士から得たもの。クーベルタンは残念ながら、(近代五輪の父という)不滅の栄誉を欲した余り、後世ブルック博士の功績を故意に無視する挙に出たのよ」とにべもない。
英国的な本家争いかと思うと、意外と一理ある。古代ギリシャ文化に関心を抱いていたブルック博士は、当時オリンピアで古代五輪の遺跡が発掘されたことなどに触発され、大会を考案。村の司教らの猛反対を制して、当時の英国としては珍しい、階層にかかわらず全住民が参加する競技会を開催した。表彰台や3位までのメダル、古代五輪にヒントを得た開会式の入場行進は、「ウェンロック五輪が始めた五輪の伝統」だと前会長は言う。
当時フランスの高等教育に、英国式体育を取り入れることに腐心していたクーベルタン男爵は、英国制度の研究のため滞在中、ブルック博士から招待を受けて、ウェンロック五輪を視察に訪れた。1890年10月の夜、27歳のクーベルタンと、81歳のブルック博士は夜を徹して語り合い、ブルック博士は恒久的にアテネで開かれる、国際的な五輪大会開催の夢を熱弁したという。
クーベルタンは直後の月刊誌に、「五輪の伝統が現在も生き続けているのは、ブルック博士のお陰だ」と称賛を寄せ、翌年の大会の花形競技に、メダルを寄贈して敬意を表した。
しかし、親密な友情はそこまで。ブルック博士は、クーベルタンが五輪復興の演説を行い、国際オリンピック委員会(IOC)の素地を作った1894年のソルボンヌ会議には、体調不良で出席出来ず、1896年4月に世を去った。アテネで第1回近代五輪が開かれる直前のことだった。
幾多のブルック博士との文通も、クーベルタン男爵の妻の手で焼却され、ブルック博士の名は忘却の彼方に葬り去られた感がある。
なぜ五輪史を書き直せと抗議しないのか? 「英国人は、そんな(はしたない)ことはしないものよ」とは、誇り高き五輪協会の見解だ。(文と写真 結城 和香子)
(2003年4月16日付 読売新聞 無断転載禁止)