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オリンピック物語

第六部 ドーピング〈3〉

毎日注射、果ては死…旧東独選手衝撃告白

 旧東独崩壊後、秘密警察の文書を証拠に始まったドーピング裁判。当時、知らないうちに薬漬けにされた年間何千人もの選手の一人で、1985年の陸上ワールドカップ(キャンベラ)四百メートルリレーで、今も残る世界記録を樹立したイネス・ゲイペルさん(43)は怒りに震えていた。

 「法廷にいた私たち元選手は、ドーピングを行った医師らの説明を聞きながら、どういう薬が使われ、それがどういう後遺症につながったかを知って、衝撃を受けた」

 森を走るのが好きだった少女が、薬物による競技エリート育成の国家システムに発掘されたのは17歳の時。「すぐにドーピングは始まった。皿一杯の薬物をコーチに与えられ、栄養剤を飲めば、体は厳しい練習に故障なしで耐えられると説明された。選手権の期間は、毎日注射も受けた。不思議に思って聞くと、『我々はあなたのためにここにいるのだから』と言われた」

 胸が小さくなり、急速に筋肉がついたのは、特訓のせいだと思っていた。声も心なしか太くなったが、毎日聞くため、変化には気づかなかった。しかし当局は、キャンベラ大会を最後に「西側への亡命の危険あり」と、ゲイペルさんを国際大会に出すのをやめた。

 旧東独は、特に効果の上がった女子水泳、陸上選手を中心に、早ければ13歳ごろから筋肉増強剤アナボリック・ステロイドの錠剤や男性ホルモン・テストステロンの注射を始めた。副作用は男性化(毛深さ、筋肉質、声)だけでなく、内臓疾患や皮膚炎、攻撃性や性欲の異常な高ぶりといった精神病、子宮の退化、胎児の奇形、果ては死に及んだ。

 怖いのは後遺症が時を経て深刻化していくことだ。ゲイペルさんの場合、心臓病、深刻な腎臓疾患、肝臓へのダメージだった。「最もひどかったのは精神面。攻撃的な活動の後に暗黒に落ち込む憂うつが現れ、過食症が始まり、無力感に襲われた」。男性ホルモンによる性の強制的変化。薬物使用が神経組織に影響、精神病を引き起こすと知ったのは後になってからだ。

 「何度か自殺を試みた。でもどこかに、生きる意志が残っていた。私は走る能力を、初めて自分を解放するために使った」。西側に逃げたのは、東西の壁崩壊直前の89年。29歳だった。

 「信頼を裏切り、若者の心と体、人生を(国家のため)平然と犠牲にする非人間性には恐怖さえ感じる。彼らは過去を認めて責任を取ることさえしない」。ドーピング裁判では、数千人の幹部、科学者、コーチのうち、わずか100人足らずが裁かれ、いずれも罰金などで禁固刑を免れた。薬物使用のノウハウを知るコーチの多くは、米英豪仏、中国、ギリシャなど各地に散り、“旧東独の遺産”を世界に広めている。(アテネ・結城 和香子)



 (2004年3月10日付 読売新聞 無断転載禁止)

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