「大阪は歯医者天国。なんでも審査を通ってしまう」――東京都内のある歯科医が、やっかみ半分でこう漏らした。医療機関の行った保険診療を適正かどうか審査する厚生労働省所管の民間法人「社会保険診療報酬支払基金」。そこで行う歯科の審査にバラツキがあることが本誌調査で明らかになった。
本誌 渡辺理雄
「2年たたないうちに、同じ歯にむし歯の治療を2度、3度と繰り返しているんです。歯を削るところがなくなりますよ。どう考えてもおかしい……」
関東地方の健康保険組合の担当者が、書類の山の中から不自然な治療を見つけた。
同健保では、社会保険診療報酬支払基金の審査が済んだ診療報酬明細書(レセプト)と診療報酬請求書に対し、再チェックをしている。支払基金の審査は1か月単位のため、健保で患者ごとにレセプトをまとめ、過去にさかのぼって点検するのだ。見直していくと、理屈に合わない治療がかなり見つかるという。なかには、抜いた歯を治療したケースもあった。
担当者は、審査を行った大阪府支払基金に、冒頭の治療を行った歯科クリニックの請求書を見直すように要請した。しかし回答は「原審通り(請求通りの支払い)」。同健保は再三にわたり、要請したが、回答は変わらなかった。患者は歯科クリニックの窓口で払わなくてもいい診察代を出させられた心配もある。
担当者があきれ顔で言う。
「むし歯の再治療が必要なケースもある。ならば、その理由を示してくれればいいのに、その説明もない。健保をなんだと思っているのでしょう」
審査委は医療機関寄り!?
社会保険診療報酬支払基金は、1948年に設立された公的機関。保険医療機関から提出されたレセプト・請求書を審査し、診療報酬を支払う業務を行っている。健保から基金を通して病院・クリニックに支払われる診療報酬は約11兆円。およそ国民医療費の3分の1を占める。
審査・支払いは、サラリーマンが加入する各健保組合、協会けんぽ(旧政管健保)、公務員の共済組合などの保険者から任された業務で、同基金はレセプト1件あたり114円20銭の手数料を得ている。2007年度の手数料収入は約800億円。いわば基金にとって、本来、健保はお客様≠セ。
しかし健保には、基金はお客様≠ナある健保よりも、保険医療機関寄りだとの不満が強い。特に、歯科で――さらにいえば、大阪など一部の府県の審査が甘すぎるのではないか、というわけだ。
ここで一般にはなじみがない審査・支払いの仕組みを説明しておこう(下図参照)。
病院やクリニックなどの医療機関は、患者ごとの診療内容が分かるレセプト・請求書を毎月、都道府県の支払基金に提出する。基金では、まず事務職員が記載漏れやミスがないかレセプトを点検。この時点で記載もれやミスがはっきりしたレセプト・請求書は病院・クリニックに返送(返戻)する。疑問点には付箋などを付けて、審査委員会に提出する。
審査委員会が開かれるのは月に1週間程度。ここで、基金から審査委員に任命された医師、歯科医が、診療内容が適切かどうかを審査する。厚労省・基金本部が示しているルールや医学的な常識に照らし合わせて、請求(請求書通り支払い)、査定(支払いを認めない)、返戻(返送・差し戻し)などの判断を下す。
この流れを見る限り、公正で問題が起こりようがなく見えるが、内実は、かなり複雑だ。元審査委員が話す。
「審査委員会は、診療担当者、保険者、学識経験者の3者で構成されることになっていますが、実際は医師会、歯科医師会、基金が作った候補者リストから決められます。医師、歯科医の資格者で、月に1週間も縛られる審査委員はなり手が限られます。しかも医科、歯科ごとに数十人もそろえなくてはなりません。人選は都道府県の医師会、歯科医師会頼み。審査は甘くなります」
審査委員会のルールも乱れがちという。歯科医療に詳しい別の元審査委員も、こう明かす。
「審査委員は本来、赤ペン以外は持っていけないことになっています。しかし、ルールを守らず、知り合いの歯科クリニックに電話を入れ、記載の足りないレセプトに書き込みを入れる審査委員もいました。コピーして持ち出すケースもあります」
ほぼ請求通りの大阪
審査が甘いかどうかは、支払いが認められなかった金額の多寡にあらわれる。支払いを認めた金額に対し、認めなかった金額の割合を「査定率」という。本誌は都道府県支部ごとの歯科の査定率(07年度)をまとめた内部資料を入手した。都道府県によって大きなバラツキがあることが分かる(下のグラフ)。
査定率最下位は大阪で、査定率は0・008%。1174億1697万円の支払い金額に対して、査定でカットされたのはわずか972万円。請求通りに、ほぼ支払っているわけだ。
ある健保の関係者は、大阪府支払基金の審査についてこう問題点を指摘する。
「審査が甘いから、健保側にまわってきたレセプトをまた再度、しっかりチェックしなければならない。不自然な点を指摘して再審査の請求をすると、基金は歯科クリニックに病名、診療行為を追加させて、帳尻をあわせてくる。なんのために、大阪府支払基金に審査の手数料を支払っているか分からない」
大阪府支払基金が歯科で健保から受け取る手数料は07年度で約9億5000万円。手数料分の仕事をしているとは思えない。元審査委員が話す。
「ある時、通知に沿っていないレセプトの件で、大阪のあるクリニック院長と話したところ、『それは国の通知が間違っているんだ』と。結局、審査委員会で支払いが認められました。大阪では、基本的なルールが守られていません」
副委員長のクビを獲れ
一方、査定率が最も高かったのは、神奈川。査定率は0・268%で、支払いを認めなかった査定金額は約2億5000万円。この金額は全国の合計金額の約4割に及ぶ。
査定率が高い理由を歯科医療関係者は、こう説明する。
「神奈川だけは、審査委員会を名実ともに3者構成で行っている。審査は、国や基金本部のルール通り。判断に迷うところは、審査委員の協議のうえで、厚労省に伺いを立てている。神奈川が突出しているわけじゃない。ほかの支部の運営がおかしいということだ」
患者や保険料を納めている被保険者の立場からは、拍手喝采ものだが、歯科医側からは「審査委員会憎し」に。積もりつもった不満が今年、爆発した。
神奈川県歯科医師会は神奈川県支払基金に再三にわたり、抗議の意を込めて文書で問い合わせを行った。これを受けて両団体の代表者同士が協議した結果、今年5月末、歯科担当の審査副委員長が辞任する騒ぎとなった。
ある健保組合の担当者が話す。
「支払基金を屈服させた神奈川県歯科医師会は凱歌をあげていました。審査がめちゃくちゃになるのではと心配です」
こうした状況のなかで、レセプトの再チェックにより力を入れる健保も出てきそうだ。
都内の数万人の被保険者を抱える健保組合では、専門会社にレセプトの点検を依頼しているのに加え、前歯の治療を受けた患者に対し、電話による聞き取り調査を行っている。
前歯の治療では、人工歯冠にセラミックなどの保険外の材料を選ぶケースが多い。その場合、治療の最終段階だけ自費診療になるが、二重に保険請求もしてくるクリニックもあるという。
同健保のまとめによると、月30〜40件の前歯治療件数のなかから、1〜2件の自費診療による二重請求が見つかる傾向があるという。減額される金額は1件あたり2万〜5万円。年約20件は二重請求が見つかるという。
民間法人らしく競争を
しかし個々の健保の取り組みには、限界がある。支払基金が正しく審査するのが筋だ。大阪と神奈川の査定率の格差を、支払基金本部はどう見るのか。中田宏・支払基金審査部長に疑問をぶつけた(以下、一問一答)。
――大阪の査定率が低いのはなぜか
レセプトに間違いがある場合は、医療機関に差し戻して、訂正して翌月正しい請求にしてもらう形になっています。大阪は返戻の割合が全国一高い。それが大きな要因です。
――神奈川の査定率が高いのはなぜか
神奈川は、返戻したレセプトが、2〜3回やりとりして直って返ってこないと、何回もやっていられないよ、ということで(保険診療を認めない)査定していました。それと『歯科点数表の解釈』(編集部注 厚労省などが定めたルール集)などの読み方がほかとは若干異なっていたという事例があったと聞いています。
――直らないなら査定は当然では
ええ。しかし他の支部との兼ね合いもありますから。
――では、他の都道府県では、記載漏れやミスが直るまで、何回でもレセプトをクリニックに差し戻しているということか
そういうことなんでしょうね。
最後は他人事のような回答だ。
後日取り寄せた支払基金本部の資料によると、07年度の大阪の返戻件数は5万4519件、神奈川は4万6021件で、支払基金が医療機関から受け付けた全件数に対する割合は、大阪が0・651%で、神奈川が0・629%とほぼ同じだった。中田部長の回答には根拠がない。
支払基金本部では、支部間のバラツキ解消のための歯科検討委員会を設置。医学的な考えの違いなどの統一を図る考えだという。同委員会の活動が進めば、査定率のバラツキはなくなっていくだろうとしている。
元審査委員がこう話す。
「支払基金は億単位の手数料を払うに見合うことをしていない。歯科の審査・支払いは基金を通さず、健保が直接できるようにすればいい。法改正の必要はなく、現在、保険医療機関側の同意が必要とされている国の通知を変えるだけで実現可能です」
社会保険診療報酬支払基金は03年、特殊法人から民間法人となった。天下り先機関から脱却させ、民間の競争原理にさらされてみれば、理屈が合わない説明もできなくなるだろう。
| 社会保険診療報酬支払基金 |
|---|
| 1948年設立の公的機関。理事長以下4人の常勤理事のうち、3人は厚生労働省出身。職員数は5309人。07年度の純利益は92億円。約400億円の現金・預金と約1000億円以上の不動産資産を保有。都道府県ごとの支部に、診療内容が適切かどうかを判断する審査委員会を設置。審査委員の定数は4536人。審査委員は規約で医師、歯科医師と定められている。審査委員会は、診療担当者、保険者、学識経験者の3者で構成するとされている。/td> |