般若心経は科学的真理
般若心経をやさしい言葉で大胆に現代語訳した『生きて死ぬ智慧』(小学館)が、刊行9か月で43万部のベストセラーになっている。文は生命科学者の柳澤桂子さん(67)、挿画は日本画家の堀文子さん(87)というコンビも異色だ。なぜ今、般若心経? 柳澤さんと堀さんに聞いた。(石田汗太、前田恭二記者)
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「科学エッセーをあと2冊出し、あとは好きな短歌に専念します」と語る柳澤さん
「読者の中心は中高年層ですが、20、30代の若い人も結構手に取ってくれて、こういうものが求められているんだなあ、と思いましたね」
マウスを使った発生学で世界的な研究者だった柳澤桂子さんは、30歳代で原因不明の病に倒れ、現在まで闘病生活を送っている。最近、ようやく神経伝達系の病気と判明したが、いまだに外出もままならない体だ。
「若いころから、私の中では科学と宗教はごく自然に一体でした。マウスの実験の時は、自然から何かを教えてもらうという気持ちでした」
全身の痛みに耐え、死を意識し続けた35年間、ドイツ神学や歎異抄、フロイト、ユングなどに読みふけり、神や「悟り」のメカニズムに関心を持った。「般若心経もその一つで、今回の本には『心訳』とありますが、私にとっては科学書のつもりです」
般若心経の出合いは10年ほど前、哲学者の中村元さんのテレビ仏教講座を見て興味を引かれた。「分からないことがあると徹底的に追求する性分」で、ブッダの言葉についても読み込んだ。その結果、般若心経の「空」の思想が、科学的真理だと気づいた。
「ブッダは、欲や苦しみの根は自我への執着だから『自我を滅するべし』と説きますが、これは自己と非自己の区別は錯覚で、真のリアリティーは一元論だという科学的世界観と同じです。私は、高い教育を受けたブッダは、ギリシャ哲学の原子論を知っていたのではと推測しています」
難しい仕事になると覚悟した訳文は、実際にワープロに向かうと、わずか2日でできてしまった。「詩のように言葉がさらさらと出てきて。長い間に、経文が私の血肉になっていたようです」
〈ほんとうは/野の花のように/わたしたちも生きられるのです〉と序文に書いた。平易な言葉だが、柳澤さんの宗教観が凝縮されている。
「科学を子供に教えるなら、同時に宗教や生命の歴史も教えなければ。そうしなかった戦後教育の偏りが、現代日本のゆがみとして現れていると思います。それに気づき始めた人が、この本を手に取ってくれるのかもしれません」
美しく詩的な訳
「現代の科学者が美しく詩的な言葉で般若心経を訳された。柳澤先生の思想がすばらしいのであって、あまり私がしゃしゃり出るのは失礼です」ときっぱり。挿画の堀文子さんは毅然(きぜん)と、自由に描き続けてきた人である。
老境にあってヒマラヤを歩き、2001年に大病をしてからはミジンコ、枯れ葉などを通じて生命を描く。「人間社会の問題には興味がないんです。この世と生命の不思議に驚き、それを記録しているだけ」。絵の“精神性”といった物言いは大嫌いなのだとも。「心を通して描くんだから、そんなのは当たり前のこと」。その言葉さながらに、絵は強さを秘めている。
黒い装丁と同様、収録される挿画はモノクロを基調に、部分的に色を残す形で画像処理を加えている。「構築がしっかりしていれば、加工しても変わらないでしょう。編集者の方に感謝しています。人さまに差し上げてもいいなと思いました。あまりにも本当のことが書いてあって、読むのが怖いくらいですけど」
(2005年7月20日 読売新聞)
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