不安 空虚 懐古
変容の10年描出
■失われた時代
カフカ賞など海外の文学賞で注目された村上春樹(57)は、今年春に創刊された米の文芸誌「A PUBLIC SPACE」でこんな発言をしている。
日本のバブル経済は、米国の1920年代に匹敵する。その意味で、1995年から2005年までの“失われた10年”は、日本にとって決定的な時代だったと思う。その10年間の僕の、そしておそらくわれわれの大きなテーマは、日々の混沌(こんとん)と共存する方法の基礎を築くことにあった――。
「戦後」のどん詰まりを象徴するような空白の10年。それを経た今、失われたあの時間を呼び戻し、あらためて自分の位置を確かめようとする作品が、今年は刊行された。
黒井千次(74)『一日 夢の柵』(野間文芸賞)。村上の言う10年と重なる時期に文芸誌に書き継がれた短編12編には、この間の社会の変容が映っている。「老い」を生きる男の日常を膜のように覆う不機嫌と怯(おび)えと開き直りを通してみた世界は、通勤電車に揺られたころとはまた違っている。その新鮮な驚きと違和感を、作家は綿密に観察し、描写する。高度成長時代の墓標のようにうずくまる団地の暗がり(「要蔵の夜」)などに、主人公を迷い込ませながら。
51歳の男が、大好きだった亡き叔父に語りかける形で、社会人、家庭人としての半生を振り返る伊井直行(53)『青猫家族輾転録』(新潮社)も、バブルの狂騒と夢のあとの空虚を見つめていた。オイルショック後の就職氷河期だった70年代半ばに始まった会社勤め、社内の派閥抗争、親友の裏切り、独立、娘の妊娠――時代と時間にほんろうされ、少しくたびれた50男の語りは、サラリーマン中年世代の心に響いた。
■充実の女性陣
女性作家の充実が目立った年でもあった。村田喜代子(61)『鯉浄土』は、生老病死のこもごもを、身をもってとらえた短編集。「からだ」にはじまり「惨惨たる身体」で閉じられる各編は、限りある〈命の容器である体〉に注がれる、ふくよかで強靱(きょうじん)な目線で結ばれていた。
村田の後続世代では、40代の3人が飛び抜けていた。ベルリン在住の多和田葉子(46)が取り上げたのは米国。『アメリカ 非道の大陸』(青土社)は、一様でないこの大国を車で移動し、断片を並べることで、その姿を浮かび上がらせた。川上弘美(48)『真鶴』は、主語や接続詞を極力排した文章を連ね、失踪(しっそう)した夫の記憶と生きる女性のさまよいを描いた。また、さまざまな恋愛のかたちを若い女性たちが語る短編集『ざらざら』(マガジンハウス)の軽さは、この作家の別の一面の、純度の高い結晶と感じられた。芦屋を舞台に、いとこのミーナと過ごした1972年をいつくしむように描いた小川洋子(44)『ミーナの行進』(中央公論新社、谷崎賞)には、ものより心が豊かだった昭和の懐かしいにおいがあった。
漱石「坊っちゃん」から100年、逆方向からこの古典を照らした小林信彦(74)『うらなり』(菊池寛賞)、江戸中期の上方を題材に語りの粋をつくした辻原登(61)の時代小説『花はさくら木』(朝日新聞社)も印象に残った。基地問題の現実を、容赦ない暴力と閉塞(へいそく)感の中でとらえた目取真俊(46)『虹の鳥』には、重い問いがあった。青来有一(48)『爆心』(文芸春秋)は、体験のない世代による原爆小説の可能性を示した。
■終わりと始まり
「戦後」を長く支えた価値観やシステムが齟齬(そご)を来たし、様々な局面でほころびが見えた今年。何かが終わり、何かが始まる節目に文学もあると思わされたのは、吉村昭、小島信夫の死が重なったこともあるだろう。自らの最期を見すえた『死顔』、独自の小説世界を全うした『残光』(新潮社)と、ともに生涯現役を通しただけに、欠落感は大きい。
一方で若い書き手も力を発揮した。どことも知れぬ場所で起きている紛争、現代の不安を寓話(ぐうわ)調に描いた小野正嗣(36)『森のはずれで』(文芸春秋)、媒体の特性を生かした阿部和重(38)の携帯小説『ミステリアスセッティング』(朝日新聞社)、大阪の街の空気を丸ごととらえた柴崎友香(33)『その街の今は』(新潮社)、手あかにまみれた紋切り型に吸収されて言葉が伝わりにくい状況に対して「書きたくない」と書くことで抗ってみせた中原昌也(36)『名もなき孤児たちの墓』(野間文芸新人賞)。
小説とは何かを考え続ける保坂和志(50)は『小説の誕生』(新潮社)で書く。〈未来というまだ見ぬ時間や、未開と呼ばれていたり異郷と呼ばれていた未知の場所から希望や活力が提供されるのではない、停滞した世界の中で、絶望したり投げやりになったりしないためにはどうしたらいいのか、ということを考える基盤を作るのが小説なのではないか〉
そんな作品を、来年はもっと読みたい。(敬称略)(山内則史)
5氏が選んだベスト3
加藤 典洋 (文芸評論家)
・川上弘美『真鶴』(文芸春秋)
・吉村昭『死顔』(新潮社)
・中原昌也『名もなき孤児たちの墓』(同)
川村 二郎 (文芸評論家)
・黒井千次『一日 夢の柵』(講談社)
・村田喜代子『鯉浄土』(同)
・川上弘美『真鶴』
川村 湊 (文芸評論家)
・金石範『地底の太陽』(集英社)
・目取真俊『虹の鳥』(影書房)
・司修『ブロンズの地中海』(集英社)
中沢 けい (作家)
・釉木淑乃『帰ってきた黄金バット』(集英社)
・小池昌代「あふあふあふ」(「群像」5月号)
・山崎ナオコーラ『浮世でランチ』(河出書房新社)
沼野 充義 (東大教授)
・小林信彦『うらなり』(文芸春秋)
・金石範『地底の太陽』
・佐藤友哉「1000の小説とバックベアード」(「新潮」12月号)
(2006年12月19日 読売新聞)
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