島田 西洋に「嫌み」効果も 松永 感情の位置づけ巧み 茂木 独特な有限の世界観
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哲学の可能性をめぐって議論をかわす、左から茂木健一郎、松永澄夫、島田雅彦の各氏=竹田津敦史撮影
哲学をテーマに行われた哲学者の松永澄夫、作家の島田雅彦、脳科学者の茂木健一郎の3氏による座談会は、後半に入って「日本人と哲学」のかかわりをめぐる議論が展開された。(司会は小林敬和・文化部長)
――哲学というと、役に立たないからこそ面白いという意見もあれば、学問の基礎という見方まである。ここからは、特に日本における哲学の可能性についてうかがいたい。
茂木 日本の知識人は、思想に関してずっと「輸入業者」だった。しかし、輸出できるような日本の思想もある。それは「もののあはれ」といった、いわば「生命のはかなさ」を説く一種の生命哲学だ。現代が直面する様々な問題は、西洋近代の直線的機械的な世界観の行き詰まりから生まれている。だから、「もののあはれ」という有限性に根ざした世界観を、西洋近代の哲学の言葉で表現できれば、世界への最大の贈り物になる。
松永 17世紀以降の西洋哲学は認識論中心で、感情論が一番弱い。茂木さんは「もののあはれ」とおっしゃったが、日本人は感情に関する言葉が豊かだし、感情を人間関係の中で、また自然との関係でどう位置づけるかといったことに優れている。西洋の哲学は「価値とは何か」という問題でも、快・不快は取り上げても喜びとか悲しみなどの感情とつなげて論じない。そのあたり文学者は巧みに表現しているが、これを哲学の言葉で他の事柄との位置関係を示しながら描く、というのが僕の課題だ。
茂木 日本には、外国の優れたものを取り入れて消化していく伝統がある。例えば「曜変天目茶碗(ようへんてんもくちゃわん)」という優れた焼き物は、もとは中国の南宋で作られたものなのに、今は日本にだけ残っていて国宝になっている。同様にカントとかヘーゲル、ニーチェの哲学はもう我々の中に「入っている」。そこに自分たちの価値を加えて、体系的な思想とか哲学を作るのは大事なことだ。
島田 芸術の基本も自然の模倣であり、換骨奪胎である。岡本太郎が縄文文化の素晴らしさを発見するためには、まず留学先のパリでマルセル・モースの人類学講座を受けねばならなかった。外国とのかかわりの中で自らの良さを発見する伝統がある。日本にキリスト教の宣教師が来た時は、不合理な信仰は受け容(い)れなかったが、布教の道具である弁証法は受け容れ、逆にキリシタン弾圧の道具として使った。
茂木 「外のものを取り込んで自分を高める」というのは生命の本質でもある。例えば、生物の細胞の中にはミトコンドリアがある。それはもともと他の生物だったが、やがて細胞に入り込み共生することで重要な役割を果たすようになった。
島田 新渡戸稲造の『武士道』や岡倉天心の『茶の本』など、明治時代には外国人に向けて英語で書かれた本がいくつか出た。外圧にさらされ、熾烈(しれつ)な思想的対話が生じ、日本から何らかの思想が発信される、ということもあった。彼らの本にも西洋哲学に「嫌み」を突きつける効果は相当あった。
――日本発の哲学が求められているとすれば、それは西洋の思想の行き詰まりを反映しているようにも思える。
松永 いろいろなものを見落とすことなく公平に眺め、「順序関係」をハッキリさせるのが哲学の思考だ。そのようなスタイルに、先ほども言ったように人間の感情的な側面を載せていくことが大事だろう。例えばグローバリズムが進む中で、収益などの経済的な価値と人権などの価値は自明とされている。しかし、お金は「より有用なもの」と交換できるからこそ価値がある。そうやって考えていくと、結局一番最初にあった価値というのは「素朴に泣いたり笑ったりしている生活」ではないか。人権の価値も、そこにいきつく。哲学は「どの価値がより重要か」を断定することはできないが、価値が発生した順序を示すことはできる。
茂木 個人的な関心でいえば、「物質である脳からどうやって意識は生まれてくるのか」という「心脳問題」を解きたい。しかし、そこでは西洋で生まれた経験主義的な科学の世界観、近代合理主義の考え方はあまり役に立たない。むしろ古代ギリシャの哲学などに、心脳問題を解く重大なヒントがあると思っている。
島田 脳科学には現象を物質に還元していく考え方があるが、心脳問題は脳内物質やDNAなどの要素には還元しきれない。もとより文学者は自分の脳と言語というツールを使って自然界には存在しない概念を立ち上げていくわけで、茂木さんの発想は我々が無意識的にやってきたことをモデル化しようとしている。だから、同業者のように思える。
――最後に、学生などに勧めたい哲学の本を挙げていただければ。
茂木 プラトンの『饗宴(きょうえん)』。学生時代に初めて読んだ哲学書だが、内容が、ぶっとんでいる。例えば、若い男に「私の美貌(びぼう)とあなたの知性を交換しよう」と言われたソクラテスが、「どちらに価値があるのか、わかっているのか!」と拒否した、といった話が書いてある。中高生などは見た目の良さにだまされがちだから、読むといい(笑)。
島田 ある種の「身もふたもなさ」が哲学の魅力だと思っている。だから、カントの『人類史の憶測的起源』や『永遠平和のために』などは、皆が自明と思っていることを疑ってかかっていて、その救いのなさが気持ちいい。哲学は常にユーモアに裏打ちされている。ニーチェも文章が警句でできているところは取っつきやすいし、実人生では敗北続きなのに本の中では一人で勝手に「勝っている」ところが小気味いい。
松永 典型的な哲学書ではないが、アランの『人間論』や『芸術論』あたりは生活に密着した問題を実感をもって語っていて、だれが読んでも面白いだろう。多くの書物は、独特の専門用語になじむまで読み込まないと理解できない傾向が強く、勧めにくい。「さあ哲学だ」と、勉強する気持ちで、きまじめにギリシャ哲学から順に読んでゆこうという人はおそらく意気消沈する。島田さんにとってのニーチェのように、その人の関心や気質にあったものが見つかればしめたもの。そのような本はきっとあるし、入り口はどこから入っても、中では一緒になるようになっているのが哲学なのだから。
(2007年4月11日 読売新聞)
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