閉塞、疲弊に息づく人々
最近翻訳が出たエミール・ゾラの『文学論集』(藤原書店)に、こんな言葉がある。かつて小説家は「想像力がある」と讃(たた)えられたが、今や「現実感覚がある」と讃えられる方がふさわしい。見る才能は、創(つく)り出す才能ほどありきたりではない――。フランス自然主義の大家が130年近く前に書いた一節を、文学史の脈絡抜きに引用するのは少し乱暴かも知れないが、想像するよりもまず、見ることを上位に置くこの考え方は、現在でも通用するのではないか。吉田修一氏(38)の長編『悪人』(朝日新聞社)は、この「現実感覚」に貫かれた傑作である。
ごく普通の人々の平凡な日常が、保険外交員の21歳の女性の絞殺事件によって浸食されていくさまが、視点を切り替えながら描かれる。出会い系サイトで知り合った若い男女による、ワイドショーにでも消費されてしまいそうな事件。作家は、事件に至る背景、事件後の波紋、加害者、被害者、家族や友人の生活とその変化をじっくり見つめ、追う。
主人公の土木作業員の、幼時に母に捨てられた孤独、一人娘を殺された理髪店主の無念と怒り、主人公を育てた祖母の悲痛、主人公と逃走する、紳士服店勤務の女性の一途な愛。閉塞(へいそく)し、少し疲弊した地方都市の空気を吸って、彼らは血の通った人間としてうごめいている。その息づかいに感応するように、読者はいつしか感情移入している。そして、人物それぞれの「普通さ」が、悪とは何かという問いをまっすぐに突きつけてくる。
朝倉祐弥氏(29)「〈鈴木少尉〉の帰還」(すばる)も、些細(ささい)といえば些細な出来事を扱いながら、その背後にある世界の広がりと同時代性を視野に入れた作品だ。18年ぶりに町に帰ってきた〈鈴木少尉〉には、町に伝わる川を使った通過儀礼に失敗してこの地を去った過去がある。その後に起きた別の少年の水死事故により、〈儀式〉は途絶えた。自身の失敗と軌を一にするように、町が衰えたことを責められてきた少尉は、儀式をひとりでやり直すことで、町と川の生命力を取り戻したいと願ったのだろうか。
この神話的顛末(てんまつ)が、町の職員〈ぼく〉から、中学の友人で今はジャーナリストの〈きみ〉に宛(あ)てた手紙の形で語られる。川沿いに栄えた山間の親密な共同体に累々と受け継がれた風習が消え、やがて人々のきずながほどけていく経過を見る目に、この新鋭の本領を感じた。
地方の現実感覚を踏まえたこれら2作と対照的に、前田司郎氏(30)「グレート生活アドベンチャー」(新潮)の30歳の〈僕〉は、無為に漂う都市生活者のいまを、よく伝えている。ゲームで架空の世界に遊び、スーパーでレジを打つ女のアパートに転がり込んで、何をするでもなく〈ロングステイ〉する無職のこの男は、中古カメラを修理し、ネットで売ることも今はやめて、女の大切にしている猫のデザインされた座椅子を分解するうちに一日が終わったりする。
きのうと今日を区別するのさえ難しそうな〈僕〉の中で、引っかかっているのが、2年前に病気で死んだ四つ年下の妹のこと。この生活はグレートでもなければアドベンチャーのかけらもないが、作者は、始まりも終わりもない暮らしの、あるようなないようなかすかな手応えを、したたかに見据えている。
このほかでは、玄侑宗久氏(50)「龍の棲む家」(文学界)が新鮮だった。父の認知症を通して息子が生きる意味と向き合い、再出発する「介護小説」。ぼけ始めた75歳の父親の意識は、かつて市役所に勤めていたことから〈有給休暇の最後の一日を過ごす福祉課長〉という設定に日々リセットされる。同じ時間を繰り返し生きる、まるでSFのような現象が、老いという自然によって起きているわけだが、自然を自然のままに受け入れようとするおおらかさが読後残った。
星野智幸氏(41)「無間道」(すばる)は、生の実感が薄く、自殺者が増えたこの社会のグロテスクな近未来図にも見える痛烈な一編。際限なく生死を繰り返す人々の虚無に圧倒された。(山内則史)
(2007年4月24日 読売新聞)
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