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書評平穏さに潜む恐怖感カズオ・イシグロと言えば、英国文学における最高の栄誉であるブッカー賞を受け、後に映画化もされた『日の名残り』の印象が強い。日本生まれであるにもかかわらず、英国人以上にかの国の本質がわかっている。そう思えるほど、かつての栄華を回想する老執事の人物造型は見事だった。 『わたしを離さないで』は、『日の名残り』に通じる抑制の利いた文体で、ごくありきたりの日常を描いているように見える。ところが、読み進めるにつれ、その一見平穏な生活の背後から、次第に奇妙な感触が伝わり始めるのだ。 やがて、語り手のキャシーや、友人のルース、トミーの人生には、何かとてつもなく恐ろしい秘密があるらしいということに読者は気付かされていく。事態の全貌(ぜんぼう)が明らかになった時、読者は血も凍るような恐怖感を覚えることになる。イシグロの文章が平穏なだけに、かえって魂の奥底にまで届くような衝撃があるのである。 キャシーやその周囲の人たちが「介護人」や「提供者」といった言葉の背後に隠しているある戦慄(せんりつ)すべき真実とは何か? 未来がもしこの小説のようになってしまったら、世界はもはや悪夢でしかない。しかし、私たちの社会は確実に『わたしを離さないで』が描くような世界に向かっているのかもしれない。 多くの論議を呼ばざるを得ない危険なテーマを敢えて取り上げることで、この小説はすぐれた同時代性を獲得している。 それにしても、「ヘールシャム」に学ぶキャシーたちは、なぜ自分たちの運命に対してこれほど従順なのか。時々爆発するトミーは困りものではなく、むしろ人間本来の姿なのではないのか。キャシーたちの置かれた境遇が、全てがシステム化されていく現代に生きる私たち一人ひとりの寓話(ぐうわ)なのだと思い至った時、この希有な小説の恐ろしさは底知れないものとなる。土屋政雄訳。 ◇カズオ・イシグロ=1954年、長崎県生まれ。作家。5歳で渡英、帰化。 早川書房 1800円 評者・茂木健一郎(脳科学者) (2006年6月19日 読売新聞) |
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