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書評

  • 『興亡の世界史』 03巻

    栗田伸子 佐藤育子
    出版社:講談社
    発行:2009年9月
    ISBN:9784062807036
    価格:¥2415 (本体¥2300+税)
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「正史」以前の地中海世界史

 カルタゴ史の叙述は可能であるか。二十世紀を代表する古代史家シャルル・ピカールがそう問いかけたのは三十年前のことだった。

 アルファベットを発明した海洋民族フェニキア人は地中海沿岸の各地に植民活動をくりひろげた。そのなかで最大の勢力となったのがカルタゴである。その建国伝説では、前八一四年、王女エリッサが亡命し、たどり着いた土地であったという。

 ところが、フェニキア語(ポエニ語)で書かれた文献はわずかな碑文を除けばほとんど残っていない。頼りになるのは接触したギリシア人やローマ人の記述だけ。これとて外から見た者の印象であるから、当てにしづらい。だから、碩学(せきがく)をして冒頭の問いかけをなさしめたのも無理もないのだ。

 とはいえ、この数十年、考古学の発掘調査はめざましいものがある。エーゲ海を中心に地中海の各地でフェニキア人の壺(つぼ)、宝飾品、土器片などが見つかっている。このためにオリエント文化の伝播(でんぱ)者としてのフェニキア人の役割が注目され、「東方化革命」説すら提唱されている。その最たるものがカルタゴであり、大いなる覇権をふるう通商国家として繁栄した。本書は日本人の本格的な研究者による初のフェニキア・カルタゴ通史であり、安らかな気分で読み通すことができた。

 カルタゴの名を知らずとも、ハンニバルの名なら聞いたことがあるだろう。大国ローマを脅かしたカルタゴの勇将である。今日でも、チュニジアの5ディナール(約四百円)紙幣はその顔で飾られている。だが、ローマに大スキピオが登場し、救国の英雄と讃(たた)えられた。それにもかかわらず半世紀の間にカルタゴは復興し繁栄する。その勢威を恐れるあまり、ローマはカルタゴの力を根こそぎにしてしまう。地中海がローマ人の「我らが海」となった前一四六年のことである。

 だが、それは後世にギリシアとローマが「正史」となる出発点でもあった。著者の声はそこに響いている。カルタゴが存在した古代には考えられないことだ、と著者は告発する。同時代の著作家にはフェニキア・カルタゴとギリシア・ローマとの戦争をもふくむ諸関係こそ歴史の王道だったはずだともいう。あったとされる幼児犠牲への厳しい視線も「正史」を残した者たちの勝利の雄叫(おたけ)びにすぎないのだ。実態は共同墓地や骨壺をめぐるより精緻(せいち)な科学的調査を待たなければならないのに。

 この夏、私はチュニジアのチュニス近郊にあるカルタゴ遺跡を訪れた。ビュルサの丘に登り、わずかに残された住居跡を歩いた。その遺構の基部だけにカルタゴ時代の面影が残っている。丘の上から円形の軍港と長方形の商港の痕跡を見下ろしながら、その美しい情景に思わず何度もシャッターを切った。そこには、かつて交易に出向く商船が停泊し、その活動を脅かす勢力と戦う軍船がひかえていたにちがいない。

 著者も指摘するように、カルタゴはさまざまな地域の異質なものを生かしながら多極的な関係を保つ通商国家であった。その幻影は同質化しながら階層差をもたらすローマ帝国のグローバル世界とは、およそ相容(あいい)れないところがある。それは宿命的な出会いだったのだろうか。われわれの時代がはまり込みつつある世界と重ね合わせるならば、カルタゴのたどった道はどこか現代へのアンチテーゼとして読み解けるのかもしれない。

 ◇もとむら・りょうじ 1947年、熊本県生まれ。東大教授。専攻は西洋史学。主著に『薄闇のローマ世界』など。欧文学術誌“KODAI”編集長。

 ◇くりた・のぶこ=1954年、北海道生まれ。東京学芸大教授。共著に『古代ローマ法研究と歴史諸科学』など。

 ◇さとう・いくこ=1958年、富山県生まれ。日本女子大学術研究員。共著に『古代オリエント事典』など。

講談社 2300円

評・本村凌二

(2009年11月2日  読売新聞)