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    真田丸は超攻撃的 2段射撃構造<家康編20>

    • 3000の兵で数万の徳川軍を撃退した真田丸の復元図、奥が大坂城内(富永商太・絵、千田嘉博・監修)
      3000の兵で数万の徳川軍を撃退した真田丸の復元図、奥が大坂城内(富永商太・絵、千田嘉博・監修)

     1614年の大坂冬の陣。真田信繁(幸村)は約3000の兵とともに、大坂城の外側に設けた「独立した一個の城」(千田嘉博・奈良大学長)である真田丸に立て籠もった。徳川方は前田利家の息子の利常らの大軍が襲いかかったが、数千の犠牲を出しながら、真田丸を落とすことはできなかった。

     大坂の陣からしばらく後、武田信玄を崇敬する人物が甲州流軍学を創設して人気となる。真田氏は信玄に仕えたこともあり、「神君」家康をきりきり舞いにさせた真田丸は甲州流の格好の教材となった。そして、実際にあった形ではなく、甲州流で典型的な「城から張り出して三方を堀で囲まれた半円形の出丸」としてイメージされるようになり、定着した。この通説が誤っていることは前回紹介した。

     では、本当の真田丸はどのようなものだったのか。城郭考古学が専門の千田さんは、これまで注目されていなかった古地図にヒントがあったと指摘する。

     大坂の陣から数十年後の17世紀後半に、全国の廃城を現地調査した図面集『浅野文庫諸国古城之図』が伝わっている。その中に真田丸跡の地形を描いたものもあったのだ。

     この古地図や屏風びょうぶ絵などの史料に、科学的な地形の復元を加えたものが今回新たに描いた真田丸の想定復元図である。

     信繁は、奥に見える大坂城から離れた丘陵を南北に長い長方形に整地して、周辺を堀と土塁で取り囲んだ。土塁の上には2階建ての塀が巡り、上下2段から鉄砲が撃てた。雨でも下の段からは射撃ができる超攻撃的な仕様だった。さらに、入り口のある北側に回り込まれても一段低い小さな曲輪くるわが迎え撃つ二重構造でもあった。

     「信繁は勝利をつかむために様々な状況を考えぬいて真田丸を築城したことがわかります。孤立しながらも勝利することができた要因は『守り』を重視したのではなく、積極的に迎撃する『攻め』の城にしたことだったのです」と千田さんは話す。

     局地戦で家康は信繁に敗北した。だが、城の大切さを知り抜いている家康は、真田丸をはじめとする大坂城の防御施設の徹底的な破壊を条件に豊臣秀頼と和議を結んだ。おそらく信繁はこれに反対しただろうが、新参者の意見を豊臣氏の重臣たちは聞き入れなかった。

     翌15年5月、大坂夏の陣が起こる。城としての機能をほぼ失った大坂城から信繁らが野戦に打って出て戦死。秀頼も母の淀君とともに自害した。家康は一国一城令を出し、天下統一を完全なものにし、翌年4月に駿府で長い戦いの人生に幕をおろした。

    (岡本公樹)

    2015年12月14日 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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