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    夏休み!お城へGO(上)時代の違う石垣がそろう松坂城

     夏休みに合わせて、城郭考古学が専門の千田嘉博・奈良大学長と三重県松阪市の松坂城跡を歩き、お城の楽しみ方について初心者向け“熱血授業”をしてもらった。

     「じっくりお城を見て、歩く。やっぱり楽しいなぁ!」と城内で笑顔が絶えない千田さんは、授業の場に松坂城を選んだ理由について、「石垣の進化を見ることができる、天守などの建物がなくても見所の多い城」と説明する。

     城というと、徳川家康が1610年に精密な設計図をもとに築造した名古屋城などを思い浮かべる人が多いだろう。しかし、そうした一度に全体が完成した城の方が実は少ないという。

     松坂城は、豊臣秀吉配下の戦国武将・蒲生氏郷がもううじさとが1588年に丘の上に築城した。2年後に蒲生は会津(福島県)へと移り、その後、服部氏、古田氏を経て、江戸時代には紀州・和歌山藩の支城となった。これら複数の城主らが時間をかけて築いたのが現在の松坂城だ。おおまかに高いところに古い石垣が残り、麓に行くほど新しくなる傾向がある。

     「うーん、これは古い。いいですね」と一番高い天守台の石垣の前で千田さんがうなった。

    • 「よくぞ、これほどいい自然の石を見つけてきたと感動します」と話す千田嘉博さん(松坂城跡で)
      「よくぞ、これほどいい自然の石を見つけてきたと感動します」と話す千田嘉博さん(松坂城跡で)

     

     麓には、名古屋城のように、石を割って形を整えた大きな「切石」で組んだ石垣がある。それに比べると、天守台の石は小さく、形はバラバラの自然の石だ。石を加工したほうが技術が高いようにも感じるが……。

    • 松坂城跡の麓には加工した石で整然と組まれた「切石」の石垣が巡る
      松坂城跡の麓には加工した石で整然と組まれた「切石」の石垣が巡る

     「一歩離れたところから眺めてください。石垣の横の目地がそろって見えるでしょう」と千田さん。確かに、それぞれの石の形はバラバラにもかかわらず、全体的には地層やミルフィーユのように平行に横の線が走って見える。

     「この『野面のづら積み』には驚くべき戦国時代の技術が込められているのです。割って加工した面と面を合わせるのは比較的、簡単です。しかし、直線のない自然石をパズルのように組んでいくことは非常に高度な石工の“読み”が必要です。例えば古い石材を使って最近、修復した場所を見てみると横の目地が通っていないことがわかりますよね」と千田さんは力説する。

     石垣には、自然石を使う古い「野面積み」と加工した石を使う新しい「切石」の2種類があり、前者は織田信長や秀吉の時代、後者は家康以降と大きく分けることができる。

     訪れた城の石垣が古いものか、新しいものか。それとも両方のハイブリッドなのか、実際に自分の目で調べてみてほしい。

    ◆「中級編」としての解説

     野面積みはさらに前期と後期に分かれる。

     「天正期」…天正年間(1573~92年)頃の石垣で信長の安土城が代表。割れやすいが、横長の石を好んで使う。

     「文禄・慶長期」(1592~1615年)…石垣の隅を幅が短い、長い、短いの順で積み上げる「算木積み」が徐々に取り入れられていく。

    (岡本公樹)

    東海百城ガイド(13) 松坂城 蒲生氏郷が築いた平山城

    三重県松阪市殿町/

     標高約38メートルの独立した丘陵にある平山城。丘を人工的に南北に分断した北側に築かれた。最上段に天守台や本丸上段、2段目に本丸下段と「きたい丸」、3段目に二の丸と隠居丸、丘の周辺には三の丸がある。

     1584年に南伊勢12万石の大名として蒲生氏郷が海に面した松ヶ島城(松阪市)に入った。蒲生は88年にこの丘に城を築き、本拠地を移動し「松坂」と名付けた。「松阪」に表記が変更されたのは明治時代だ。

     天守は1644年に大風で倒壊し、そのまま再建されることはなかった。和歌山藩時代は、一国一城令のため、本丸など中核部分は利用せず、二の丸に陣屋(御殿)があった。国史跡。

     松阪駅(JR、近鉄)西口から徒歩約15分。バスでは市民病院前下車すぐ。北側に市営駐車場あり。

    2016年08月02日 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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