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    信雄の城 安土以前最古の天守か<信長の次男1>

     織田信長が1582年の本能寺の変で長男の信忠とともに倒れた後、織田家を継いだのは信忠の幼子、三法師であり、次男の信雄のぶかつではなかった。

     さらに、秀吉対徳川家康・信雄連合が対決した小牧・長久手の戦いでは、信雄が戦いを始めたのに独断で和議してしまい、奮闘していた家康ははしごを外されてしまった。小田原攻めでは尾張の領有にこだわり秀吉の怒りを買って改易された――など、信雄には「愚将」の逸話がつきまとう。

     三谷幸喜監督の映画「清須会議」では、柴田勝家が「信雄様は大うつけ。織田家の棟梁とうりょうがつとまるわけがない」と言い放ち、秀吉も「あのバカでは無理です」とのセリフが続くように、これが信雄への一般的なイメージだろう。

     だが、その実態はどうだったのだろうか。千田嘉博・奈良大学長(城郭考古学)と宮武正登まさと・佐賀大教授(日本中世史、城郭史)が、信雄が築いた田丸城(三重県玉城町)を通じて人物鑑定した。

     千田さんは「この城はすごい。とても大うつけが造れる城ではありません」と断言する。宮武さんも「中世の城から近世の城へ大きく転換する画期となる城。信雄は『できる人』だったと言えます」と賛同する。

     信雄は、1575年に田丸城を大改修し、石垣と天守のある現在あるような城を築いたとされている。

     「実は、これは大変なこと」と宮武さんが切り出す。日本史上初の天守(当時は天主)は、信長が76年に着工し79年に完成させた安土城(滋賀県)だ。「信長が安土の前に、信雄に『天守』の試作品を造らせていたのかもしれません」と続ける。

     現在ある天守台は新しく積み直したものだが、千田さんは「きちんと発掘調査をすれば『日本最古の天守』が発見される可能性もあります」と期待する。

     田丸城は80年に炎上して、信雄は居城を松ヶ島城(三重県松阪市)へと移す。しかし、信雄は、その後も84年の小牧・長久手の戦い後に南伊勢を秀吉へ割譲するまでは、田丸城を重要拠点として様々な改良を加えていることがうかがえる。

     千田さんが信雄の力量として高く評価するのが、二の丸から本丸へ接続する出入り口だ。

    • 織田信雄が造った田丸城の二の丸から本丸へつながる出入り口
      織田信雄が造った田丸城の二の丸から本丸へつながる出入り口

     二の丸から攻めようとする敵は、これまで見たことのない防御施設を目の当たりにすることになる。深い堀には橋がかかり、その先には門を隠す形で塀を巡らせる。さらに門も「2階建て」のやぐら門で2階から火縄銃や弓矢で敵を迎撃できる。

     この出入り口の形は、防御と攻撃を兼ね備えた松坂城(同市)などの城でみられる「枡形ますがた」の原型と千田さんは指摘し、「非常によく考えられています。おそらく小牧・長久手の戦いの時に秀吉の圧力に対応するために、知恵をしぼった結果でしょう」と言う。

     「信長は、田丸城の築城ぶりで信雄の力量を測ったことでしょう。そして、信長が完成したこの城を見て『愚かな息子』と評価したとは思えません」と宮武さんは太鼓判を押した。

    (岡本公樹)

    (次回は9月18日掲載予定)

    東海百城ガイド16 見えるところだけ石垣 田丸城(三重県玉城町田丸)

     標高約52メートルの丘陵に築かれた平山城。城下町から見える東側の全面を石垣で飾り、背後は本丸などを除いて土造りで、初期の石垣が防御性よりも「見せる」効果が高かったことを示す。

     南北朝時代の1336年に南朝の北畠親房ちかふさらが城塞を築き、南朝の拠点となったとされる。

     その後、南伊勢を支配する戦国大名北畠氏は大河内城(三重県松阪市)を本拠にして信長と対抗。1569年に両者は信雄を北畠氏の養子とすることで和睦した。75年に信雄が北畠氏を相続すると、大改修を施した田丸城へ本拠を移し、再び南伊勢の中心となった。信雄の退去後は、蒲生氏郷、藤堂高虎らの領有を経て、紀州徳川領となる。

        ◇

     JR田丸駅から徒歩10分。駐車場あり。

    2016年08月29日 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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