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    信長に倣い最新鋭の城<築城名人 金森長近1>

     「築城名人」と聞いて誰を思い浮かべるだろうか。

     石垣と天守がある「城」の原点は織田信長の安土城だ。これが進化して、江戸時代に一般的となる完成形の一つが徳川家康の造った名古屋城である。城の発展の歴史は天下統一の歩みと重なる。もしも天下人が明智光秀や信長の次男、織田信雄のぶかつだったら……。現代人がイメージする城の形もまた違うものになっていたかもしれない。

     そうした「歴史のもしも」を想像できるのが金森長近かなもりながちか(1524~1608年)だ。長近を築城名人として挙げる千田嘉博・奈良大教授(城郭考古学)は「城造りで、信長の安土城の特徴を個性豊かに取り入れている」と評する。

     長近は、飛騨の高山城(岐阜県高山市)を築いた高山藩祖として知られている。18歳で10歳年下の信長に仕え、親衛隊「母衣ほろ衆」となり、信長から「長」の字をもらい、「可近ありちか」から改名した。

     1572年に信長の臣下8人が連署した文書の中に、82年の清須会議に出る木下(豊臣)秀吉や丹羽長秀などとともに長近の名前があり、信長の有力な家臣であったことがわかる。

     長近が初めて城持ち大名となったのは75年。2年前に信長は越前(福井県)の朝倉氏を滅ぼすが、その後、現地の一向宗が一揆を起こし信長勢は一掃される。一向宗から越前を奪還するために長近は75年、八幡城(岐阜県郡上市)の城主、遠藤慶隆よしたからとともに、美濃から越前の大野郡(福井県大野市など)に侵攻。そのまま郡の3分の2を領有し、翌76年から4年かけて、盆地内の丘陵に大野城を新造した。くしくも信長が安土城を造り始めた年と同じである。

     大野城と安土城には共通点も多い。現在も残る石垣からは、信長が最初に造った小牧山城(愛知県小牧市)でも見られる地下から主要な建物に入る穴蔵式の入り口や、安土城にあった可能性がある「懸け造りのテラスのような跡」(千田さん)が見られる。「注目すべきは、後の時代の整然とした建物配置ではなく、安土城の本丸でも見られるように、天守と周囲のやぐらが折り重なるように複雑に接続されている所」と千田さんは言う。

     年下のカリスマ・信長に倣って、領民たちが見たことのない最新鋭の「城」によって支配しようという、50歳代の新城主の意気込みが伝わってくるようだ。

     1582年の本能寺の変で信長亡き後、長近は、同僚だった秀吉につき、飛騨で3万8700石を与えられる。88年頃から築き始めた高山城は、石垣と天守という安土城の基本は押さえながらも、「長近スタイル」としか言いようのない大胆な城になる。次回はこの高山城の復元を試みる。(岡本公樹)

    東海百城ガイド<22>

    大名・金森氏最後の地 八幡城(岐阜県郡上市八幡町柳町)

     標高350メートルの山城の眼下には長良川へ注ぐ吉田川の清流と城下町が広がる。

     1559年、鎌倉時代以来の名門、とう氏を倒した遠藤盛数もりかずが築城。後を継いだ息子の慶隆(1550~1632年)は信長に従い、朝倉氏との戦いなどで活躍した。

     慶隆は豊臣時代に転封されたが、1600年の関ヶ原の戦いで東軍につき、長近の養子で2代高山藩主となる金森可重ありしげとともに八幡城を攻撃。和睦し、戦の後は城主に返り咲いた。

     しかし、4代後に嫡子がなかった藩主が亡くなると、1692年に遠藤氏は再び転封となり、高山から出羽(山形県)へ移っていた金森氏が97年に八幡城に入った。財政難から年貢の取り立て方法を変えようとして領民と対立し、江戸で幕府老中への直訴が起きるなどの「宝暦騒動」(1754~58年)の結果、改易となり、大名・金森氏はこの地で幕を閉じた。

     県史跡である石垣の上には、焼失前の大垣城(岐阜県大垣市)を模して1933年(昭和8年)に造られた模擬天守「郡上八幡城」が立つ。木造の再建天守としては国内最古で、市指定文化財となっている。

     長良川鉄道・郡上八幡駅から「周回バス」で郡上八幡城下町プラザ下車、徒歩約20分。山頂に駐車場あり。

    2016年10月31日 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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