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    光秀と重臣斎藤利三の背後に四国情勢

    美濃人の本能寺の変(3)

     明智光秀はなぜ、本能寺の変(1582年)を起こしたのだろうか。

     様々な説があるが、この連載では、光秀は足利幕府の重臣であり、幕府再興を目指したが、幕府に代わる新政権を作ろうとした織田信長を討ったという「幕府再興説」を紹介してきた。

     しかし、戦国大名といえども、当時は思い通りに配下の武士たちを動かせたわけではない。本能寺の変で重要な役割を果たした明智軍の武将で、美濃出身の斎藤利三としみつ(1534?~82年)は、どんな理由で光秀の決断に従ったのか。系図を見てみると、利三が、四国の戦国大名長宗我部元親ちょうそかべもとちかと縁戚関係でつながっていたことが注目される。

     元親は1575年、土佐(高知県)を統一。信長はその後、土佐にとどまらず四国全体の領有を認めている。

     背景には、複雑な事情があった。

     信長は68年、京と幕府を支配していた三好三人衆らを追い払い、足利義昭を15代将軍に就任させた。阿波(徳島県)を本拠とする三好氏に手を焼いていた信長にとって、元親に三好氏の背後をつかせることは有効な戦略で、元親の嫡男に「信」(信親)の字を与えるほど深い関係を結んだ。

     しかし、本願寺の降伏で三好氏が信長に臣従すると、敵(三好)の敵だからと好待遇を受けていた元親の戦略的な価値が薄くなる。そして、本能寺の変の前年の81年後半頃、信長は元親に土佐と阿波の一部しか領有を認めない方針へと大転換した。

     当時、信長と元親との外交は光秀が担当し、交渉窓口となっていたのが利三だった。はしごを外された元親と、縁戚関係のある利三には納得がいかず、ともに信長へのやりきれない思いを抱くことになる。

     この思いが本能寺の変の背景だと考えるのが「四国説」である。1996年に初めて四国説を学術論文で全面的に主張した藤田達生・三重大教授(近世国家成立史)は「本能寺の変の理由は、信長と光秀の人間関係に由来する事件と考えられていましたが、本来は織田政権の外交や組織論という視点で研究すべき問題です」と話す。

     美濃の利三と土佐の元親という遠い距離を結んだ重要な人物が、元親の妻の実家・石谷いしがい氏に養子で入った利三の兄・頼辰よりときだった。当時の感覚では、「利三、頼辰兄弟と元親は一蓮托生いちれんたくしょうの親戚だった」と藤田さんは言う。

     利三が光秀に同調する理由は確かにあったのだ。さらに2014年、岡山市の林原美術館で47点の「石谷家文書」が見つかり、利三や頼辰、元親らのやりとりが明らかになった。そこでは、利三ら美濃人が時代をどう動かしたのかが詳細に書き残されていた。(岡本公樹)

    ◆本能寺の変が起きた理由についての主な説

    幕府再興説 足利幕府に取って代わろうとする信長を止めようとした

    四国説 光秀や斎藤利三が進めていた長宗我部氏との外交関係をひっくり返したことに反発

    野望説 光秀が天下を狙った

    遺恨説 徳川家康の接待を巡り、信長から侮辱的な扱いを受けたり、人質となった母を見殺しにされたりした

    突発説 たまたま信長が本能寺で手薄な状態でいることがわかった

    黒幕説 光秀に指示をした黒幕としては、朝廷、足利将軍、イエズス会などがある

    高年齢説 老い先短いと感じた光秀が明智家の先行きを不安視した

    東海百城ガイド 

    大桑(おおが)城(岐阜県山県市大桑など)

     濃尾平野の北側には複数の山や丘が屏風びょうぶのように横たわる。その一つの山上に立つ大桑城は、15世紀末に美濃守護の土岐一族が築城したと伝わる。

     守護土岐氏は革手城(岐阜市中心部)を長く居城としたが、勢力を伸ばす斎藤道三や水害などにより平野部から追いやられ、1535年に大桑城に移ったが、47年に道三の攻撃で落城し、守護土岐氏の最後の地となった。

     標高約407メートルの古城こじょう山(金鶏山)に築かれ、曲輪くるわや石垣の一部などが残る。山頂からは、岐阜城がある金華山が見える。南麓には、道三の攻撃に備えるために築いたとされる「四国堀」の堀と土塁も保存されている。

     椿野バス停から徒歩約20分の麓の登城口からさらに1時間。車では、はじかみ林道で山頂近くにある新登城口から徒歩20分。

    2017年01月30日 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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