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    名古屋から勝幡へ 覆った信長出生説

    信長の父2

    • 信長が生まれた勝幡城の復元イラスト(富永商太・絵、千田嘉博・監修)
      信長が生まれた勝幡城の復元イラスト(富永商太・絵、千田嘉博・監修)

     織田信長はどこで生まれたのか?

     現在の名古屋城と同じ場所にあった那古野なごや城と覚えている人が多いかもしれない。だが、平成になって刊行された歴史書では、勝幡城(愛知県愛西、稲沢市)とされているのがほとんどだ。かつての定説を覆したのが前回も紹介した愛知県愛西市の佐織公民館館長の石田泰弘さん(53)だ。

     石田さんは、勝幡城跡の近くで生まれ育った。かつて城跡に立てられていた看板に「一説によると信長はこの城で生まれた」とある一文がずっと頭に引っかかっていた。「勝幡城で信長は生まれたの?」と聞いても、地元でも「そんなはずはない」と一笑に付され、歴史を学ぶために進学した東京の大学でも、指導教員から「そんな話は聞いたことがない」と一蹴された。

     大学院に進んだ23歳の時、旧佐織町(現・愛西市)の町史の執筆委員となった。資料を調べているうちに、江戸時代に尾張の城跡についてまとめられた地誌「尾州古城志」に、「信長が勝幡城で生まれた」と書いてあるのを見つけた。「これがあの一説の典拠か」と感動したが、それだけでは勝幡城出生と断言できない。そこで“ライバル”の那古野城出生説を調べ始めた。

     信長の父・信秀は勝幡城を本拠としていたが、後に、今川氏の居城だった那古野城を奪取して本拠を移している。

     那古野城が落城したのは、信長の生まれ年である天文3年(1534年)を挟んで、元年(32年)説か、7年(38年)頃説があった。元年なら信長の那古野城出生もありうるが、7年頃なら成り立たない。

     決め手となったのは、京都の公家、山科言継やましなときつぐが勝幡城に信秀を訪ねた時の日記の記述だった。天文2年(33年)に「那古野の今川竹王丸」という12歳の男子が勝幡城に招かれて、一緒に蹴鞠けまりをしたことが書かれていた。

     竹王丸とは誰かと疑問に思っていたところ、別の研究者が、駿河(静岡県)の今川義元の実弟で、のちに元服して那古野城主となる今川氏豊うじとよであることを突き止めた。那古野城は今川氏が古くから飛び地として持っていた土地であった。これで、天文元年落城説と信長の那古野城出生説はともに消えた。

     「那古野城出生説は、江戸幕府の公式な資料である『寛政重修諸家譜』で採用されており、後の研究者も信用してきたのではないでしょうか」と石田さん。

     石田さんが勝幡城出生説を発表したのは平成になってからのこと。1992年に郷土史雑誌「郷土文化」(名古屋郷土文化会編)に掲載され、しばらくして歴史研究者の重鎮の目にとまり、勝幡城出生説は広まった。

     石田さんは信長の誕生日についても調べた。定説は、ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスが「信長は誕生日の19日後に本能寺の変で焼死した」との記載から、引き算で計算された5月11日か12日。しかし、尾張などに関する信頼性の高い三つの史料で「5月28日」と記されていることを確認した。「地元の資料を丹念に調べることで、地元でも忘れられていた信長や父・信秀の歴史を掘り出すことができた」と振り返る。

     石田さんの研究を反映して、勝幡城跡に近い名鉄・勝幡駅前には、「全国で最も若い信長像」(石田さん)である、赤ん坊の信長を抱える信秀夫妻の銅像が2013年建てられた。(岡本公樹)

    東海百城ガイド

    勝幡(しょばた)城/愛知県愛西市勝幡町、稲沢市平和町/

    信長の祖父が築城か

     2市にまたがる平城。織田信長の祖父・信定が16世紀初頭に築城したとされる。旧海部あま郡と旧中島郡の境にあり、両郡に勢力を広げた弾正忠だんじょうのじょう系織田氏の居城だった。

     城の規模は全体が一辺約200メートル、中心部は東西約90メートル、南北約130メートルだったと伝わる。石垣や天守などはなく、豪族の居館のようなものだったと考えられている。

     現在は、城跡の中心部を江戸時代の天明年間(1781~89年)に開削された日光川が貫く。川にかかる城西しろにし橋付近が中心部とみられ、川の東側2か所(稲沢市)に城跡を示す石碑が立つが、堀跡などは残っていない。

         ◇

     駅前に銅像と立体復元模型が置かれている名鉄・勝幡駅から徒歩約10分。

    2017年03月20日 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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