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    短気が災い放浪15年

    渡り奉公家救う~水野勝成〈1〉

     戦国時代は、命を失う危険性は高いが、再チャンスも多かった。それを象徴する言葉が主君を次々に変えていく「わた奉公ぼうこう」だ。対照的な「忠臣は二君に仕えず」という言葉が社会の常識として通用したのは、江戸時代中期以降のことだ。若い頃に問題を起こして家を追い出されたものの、渡り奉公の末に家を救うことになった2人の戦国武将を紹介したい。

     刈谷城(愛知県刈谷市)で生まれ、後に福山城(広島県福山市)の名君と呼ばれるまでになった水野勝成かつなり(1564~1651年)の物語から始める。勝成の父・忠重の姉が徳川家康(1542~1616年)の母にあたり、家康とはいとこの関係。水野家の嫡男ながら、途中15年間も家に戻ることを許されず、諸国を放浪した経歴を持つ。

     昨年秋に勝成の特別展を開催した福山城博物館学芸員の皿海さらがい弘樹さんは、「前半生と後半生でこれほど人格が変わった人物も珍しい」と話す。

     勝成は1579年頃、家康が武田勝頼の高天神城(静岡県掛川市)を攻めた際に、父とともに参戦し、初陣を飾るが、84年、家康・織田信雄のぶかつ連合と羽柴(豊臣)秀吉が戦った小牧・長久手の戦いに出陣した際、短気から部下を殺してしまい、激怒した父から勘当された。

     渡り奉公の始まりは、85年、秀吉から摂津国(大阪府)で728石をもらったことだった。わずか1年で秀吉のもとを去り、浪人として九州へ渡った。熊本に派遣された佐々成政に仕え、反抗する地元の武士を鎮圧する戦いに明け暮れるが、まもなく佐々は反乱鎮圧の失敗を秀吉にとがめられ切腹する。勝成はその後、小西行長、加藤清正、黒田長政と九州の武将に、渡り奉公を続けた。

     ところが、長政に同行して九州から京都へ船でのぼる途中、ともの浦(福山市)付近で、黒田家の家臣とけんかをして、海に飛び込んでまたも出奔しゅっぽんしてしまった。「勝成は、船のロープを結べと言われたことに対して『そんな危ないことができるか』とけんかになり、海に飛び込むというさらに危険なことをしたと伝わります。このとき27歳ですが、かなり短気な人だったのでしょう」と皿海さんは苦笑する。

     流浪の末、秀吉が1598年に死亡した翌年、京都・伏見城下にあった家康の屋敷周辺の護衛を勝手にしていたところ、水野の息子だと気づいた家康の仲介で、勝成の勘当が解かれ、水野家に戻ることになった。

     しかし、皿海さんは「父は勘当を解くことを反対したようです。すでに水野家は勝成の弟で次男の忠胤ただたねが継ぐ体制になっていました」と話す。父と同じ「忠」の字と後継者を意味する「胤」を次男に名乗らせたのは、勝成の存在を二度と認めないという強い意志が込められていたのだろう。一方、家康は、関ヶ原の戦いの前年という風雲急を告げる中で、歴戦のつわものと知って勝成を陣営に欲しかった。

     1600年7月、刈谷城主だった父・忠重が、池鯉鮒ちりゅう(愛知県知立市)で暗殺された。石田三成方への誘いを断ったためとも言われている。家康はすぐに勝成に水野家と刈谷城主を継がせ、そのまま9月の関ヶ原の戦いに突入。勝成は家康の期待通り、大垣城(岐阜県大垣市)攻めで軍功をあげた。

     「長年の放浪の苦労で人格が変わったのでしょう。次男を支えたはずの水野家の重臣も離反せず、福山まで付いてきたことが城絵図などから分析できます」

     皿海さんが言う後半生の勝成について、次回紹介する。(岡本公樹)

    東海百城ガイド 40

    水野氏本拠湾の両岸に

    刈谷城(愛知県刈谷市城町)

    • 刈谷市による刈谷城の復元イメージ。正面は石垣、裏側は土造りだった(刈谷市提供)
      刈谷市による刈谷城の復元イメージ。正面は石垣、裏側は土造りだった(刈谷市提供)

     三河と尾張の境を並行して流れる境川と逢妻あいづま川の三河側の台地に立つ。現在は埋め立てで河口から10キロ以上も上流にあるが、戦国・江戸時代は衣浦湾に面した「海の城」だった。

     水野氏の本拠はもともとは尾張側の緒川城(愛知県東浦町)だったが、水野勝成の祖父・忠政が1533年に刈谷城を築城し、2城体制で両岸から衣浦湾を支配した。

     本拠が刈谷城に移った時期は不明だが、忠政の息子の信元、その弟の忠重(勝成の父)、勝成、さらに勝成の弟・忠清が城主を継ぎ、その後、松平、本多、土井ら譜代大名が代わる代わる城主を務めた。

     現在残る城の形は、忠重・勝成時代に整備されたとみられている。天守はなく、二つの隅にやぐらがあったが、江戸中期の1707年に起きた南海トラフ地震(宝永地震)などで倒壊したという。絵図や発掘調査で、城の正面にあたる南東側には、石垣、櫓、2か所の2階建ての門があったことがわかり、刈谷市が復元計画を進めている。

     JR逢妻駅、名鉄刈谷市駅から徒歩約20分の亀城公園。駐車場あり。

    2017年04月24日 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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