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    世界史と日本史を融合した新しい近現代史を物語風に紹介します。

    <鎖国日本とペリー来航>第6回~強大だったアジアの帝国

    南洋の日本人町

    • 山田長政が活躍したタイ・アユタヤの遺跡
      山田長政が活躍したタイ・アユタヤの遺跡

     日本全国を統一した豊臣秀吉が、「(みん)」の征服をめざして朝鮮に出兵したのは、16世紀末でした。武装貿易集団の倭寇(わこう)の活発化などによって、明の貿易統制が揺らぐなど、東アジア情勢にも変化が見え始めていました。

     明の援軍などによって朝鮮軍が勢いづき、秀吉軍は苦戦し、明との講和交渉も決裂しました。2度目の遠征も失敗し、秀吉の病死とともに朝鮮から撤兵を余儀なくされました。

     明朝の末期、日本人が海外に進出した一時期があります。

     徳川幕府から海外渡航を認める免許(朱印(しゅいん)状)を得た商船が、盛んに「朱印船」貿易を行ったのです。渡航した船は、幕府が「鎖国」するまで延べ約350(せき)。移住する日本人も多く、フィリピンやカンボジア、シャム(現在のタイ)など南洋各地に「日本町」が形成されました。

     駿河国(現在の静岡県)に生まれた山田長政(ながまさ)は、朱印船に乗ってシャムに渡って貿易を営み、アユタヤ(当時の首府)の日本人町の頭になります。さらにシャムの高官の地位に就き、王の命令で軍隊を率いて反乱軍の鎮圧にあたったりしました。

     明は1644年、農民反乱の首領・()自成(じせい)によって滅ぼされました。

     現在の遼寧省や吉林省あたりに住む女真(じょしん)(満州)人が、1616年、すでに新王朝をたて、36年には国号を「(しん)」と定めていました。

     清朝は、初代の太祖ヌルハチからラストエンペラーの宣統帝(せんとうてい)溥儀(ふぎ)(12代)まで300年近く続きます。溥儀は廃帝後、日本の傀儡(かいらい)国家、満州国の皇帝になります。

    国性爺合戦

     清朝では、康煕(こうき)帝、雍正(ようせい)帝、乾隆(けんりゅう)帝の3帝時代(在位1661~1795年)に黄金期を迎えます。

     康煕帝は、南の国境地帯での反乱を鎮め、台湾において反抗を続けた鄭成功(ていせいこう)を下して1683年、台湾を領土としました。

     鄭成功の父親は明朝の遺臣、母親は長崎平戸の日本女性でした。鄭は、中国沿岸各地に軍事・経済拠点を設け、台湾からオランダ人を追い払って明への抵抗を続けました。

     鄭は明の皇帝の姓である「国姓」の朱氏を賜ったので「国姓爺(こくせんや)」と言われました。近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)(1653~1724年)の代表作で、1715年に初演された浄瑠璃「国性爺合戦(こくせんやかっせん)」の主人公・()(とう)(ない)は、この鄭成功をモデルにしています。

     芝居の中で、和藤内が清軍を打ち破った際、<うぬらが小国とあなどる日本人、虎さえこわがる日本の手並み覚えたか>と、見えを切る場面は印象的です。

     清は、黒竜江(アムール川)方面で南下するロシアとも戦い、1689年、ネルチンスク条約を締結、国境などを取り決めました。1720年にはチベットを制圧し、57年には中央アジアのジュンガル王国を滅ぼして、新疆(しんきょう)(新しい土地の意)と名付けました。

     17世紀には1億人台だった清の人口は、その後急増し、19世紀に入ると4億人を超えたといわれます。

    イスラム世界の王朝

    • ムガル帝国の第5代皇帝シャー・ジャハーンが亡くなった王妃のために造ったタージ・マハル
      ムガル帝国の第5代皇帝シャー・ジャハーンが亡くなった王妃のために造ったタージ・マハル

     インドのムガル帝国(1526~1858年)は、16世紀前半、チンギス・ハーン(モンゴル帝国の創始者)の血を引くとされるバーブルが建てた王朝です。ムガルとはモンゴルが(なま)ったものです。

     イスラム教が奉じられていましたが、第3代皇帝のアクバルは、インド人の大多数を占めるヒンズー教徒の官僚・軍人を登用するなど融和に努めました。17世紀半ばに版図は最大規模となり、インドの大部分を支配します。

     一方、トルコ族の一派によって建設された西アジアのオスマン帝国(1299~1922年)は、15世紀半ばにビザンツ帝国(東ローマ帝国)を滅亡させてコンスタンチノープル(イスタンブール)を首都にし、16世紀にはスレイマン1世のもとで最盛期を迎えました。アジア、アフリカ、ヨーロッパにまたがる広大な領土を支配し、地中海の制海権も奪いました。

     16世紀の初め、イランではサファビー朝(1501~1736年)が成立します。イスラム教シーア派を国教とし、アッバース1世によって建設された首都イスファハーンの壮麗なモスクや庭園は、王朝最盛期の繁栄ぶりを今日に伝えています。

     こうしてムガル帝国、オスマン帝国、サファビー朝がイスラム世界に並び立っていたのです。

    日本の銀、世界の3分の1

    • 世界有数の銀の産地だった石見銀山
      世界有数の銀の産地だった石見銀山

     巨大な領土と、膨大な人口と、豊かな文化をもつアジアの大帝国が、ヨーロッパ諸国と比べていかに強勢であったかを示す数字があります。

     1700年の世界のGDP(国内総生産)に占める割合です。清が22.3%、ムガル朝などインドが24.4%、オスマン朝8.3%、サファビー朝6.5%でした。ヨーロッパ各国はいずれもそれ以下で、日本は4.1%でした。(出口治明『「全世界史」講義2』新潮社)

     交易の拡大に伴い、多種の品々の交換が始まると、国際通貨が生まれます。はじめは銅銭でしたが、15世紀には銀の流通が増大。中国では輸出品の対価として銀を求めたため、大量の銀が中国に流入しました。

     当時、大量の銀を産出し輸出できたのは、スペイン領の南アメリカと日本でした。ヨーロッパ諸国のインド洋貿易でもこれらの銀が重視されます。

     17世紀半ば、日本の銀産出量は年間200トンに上り、世界の約3分の1を占めました。中でも島根の石見(いわみ)銀山は、日本最大の銀山として外国にも知られていました。

     石見銀山は2007年、国連教育・科学・文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産に登録されました。

    イギリス領インド帝国の成立

    • 東インド会社の拠点が置かれていたロンドンのイースト・インディア・ハウス
      東インド会社の拠点が置かれていたロンドンのイースト・インディア・ハウス

     これらのアジアの帝国は18世紀後半~19世紀になると、弱体化・分裂の傾向を見せ、イギリスをはじめヨーロッパ勢力の干渉を受けるようになります。

     ムガル帝国について見ますと、ヨーロッパ諸国は17世紀はじめ、インド貿易を試み、国策会社として東インド会社を設立しました。イギリス、オランダのあと、デンマーク、フランスが続きます。

     イギリスの東インド会社は、オランダなどと競合しながら商館網を築きあげます。17世紀後半からインド産の綿布をイギリスに運ぶと、爆発的な売れ行きをみせます。

     それまでインド貿易商品の主役は、香料や胡椒(こしょう)でした。これが綿布に交代していくのです。

     さらにイギリスは、今度は綿花を輸入して自国で綿織物の製造を始めます。この結果、紡績機、織機が開発され、その動力として蒸気機関が活用されます。これがイギリスの産業革命を大きく前進させます。

     18世紀に入ると、ムガル帝国内は、地方政権が割拠して軍事抗争を繰り返します。帝国は弱体化し、これを機にイギリス、フランス両国が介入を強めました。1757年、傭兵(ようへい)として多数のインド人を雇っていたイギリス東インド会社と、フランス東インド会社・地方政権の連合軍がぶつかりあい、イギリスが勝利します(プラッシーの戦い)。

     イギリスはインド北東部のベンガル州の支配権を確立し、続いて地方の政権も次々に撃破して19世紀半ばまでにインド全域を制圧するのです。

     しかし、インドでは、インド人兵士たちの待遇への不満から「大反乱」(1857~59年)が起きます。反乱は、兵士にとどまらず、インドの民衆が多数参加しており、植民地支配に抵抗する民族運動の始まりでもありました。

     イギリスは、反乱鎮圧後、東インド会社を解散し、直接統治に切り替えます。ムガル王朝は消滅し、ビクトリア女王がインド皇帝を兼ねる英領インド帝国が成立します(1877年)。インドで大兵力を掌握したイギリスは、ここを拠点にアジア支配を強めていくのです。

     アメリカのペリー提督が日本遠征の途上、海軍長官にあてて書いた意見書(1852年)には、このような記述がありました。

     <世界地図を見ると、イギリスがすでに東インド洋ならびに中国海域において、要所を掌中に収め……イギリスは意のままに、これらの海域から他国を閉め出す力をもち、莫大な額の貿易を支配することが出来る>

     ペリーは、アジアに進出した強力なイギリス帝国を相手に、アジア太平洋における覇権争いを演じようとしていたのです。

    近代世界システム論

    • 英東インド会社の行政官の名前を冠したシンガポールのラッフルズ・ホテル
      英東インド会社の行政官の名前を冠したシンガポールのラッフルズ・ホテル

     すでに見たように、アジアの大帝国の富と力は、ヨーロッパ諸国を大きく上回っていました。しかし、交易を通じて「世界の一体化」が進展する中、アジアに対するヨーロッパ、とりわけイギリスの優位が確定的になります。

     そこで一つの世界史像が定着します。「近代世界システム」論です。

     高校の世界史の教科書は大抵、この考え方に立って書かれているようです。

     この近代世界システムは、大航海時代の後半、西ヨーロッパ諸国を「中核」とし、中南米や東ヨーロッパを「周辺」として成立し、以後、成長と収縮を繰り返しながら拡大していきます。(加藤祐三・川北稔『世界の歴史25 アジアと欧米世界』中公文庫)

     イギリスなどの西欧諸国は、国際的な分業体制を作り出し、多くの後発国を植民地として従属させました。

     17~18世紀には、悪名高い「三角貿易」が盛んに行われます。

     イギリスなどヨーロッパの船は、西アフリカに武器や雑貨を運びます。その代わりに得たアフリカ人の奴隷をアメリカ大陸に連れて行きます。それとの交換で砂糖や綿花、タバコ、コーヒーなどをヨーロッパに持ち帰ったのです。

     この奴隷貿易と綿花・砂糖を栽培する奴隷制プランテーションによって、イギリスは莫大(ばくだい)な利益をあげ、それを産業革命の資金としました。

     1807年、イギリスは奴隷貿易を廃止します。その200周年を控えた2006年、イギリスのブレア首相(当時)が英紙に寄稿し、過去の奴隷取引について「深い悲しみ」を表明したところ、これが「謝罪」論争を引き起こし、黒人奴隷貿易の根の深さを見せつけました。

     この近代世界システム論に対しては、「ヨーロッパ中心史観」だという批判があります。とはいっても、ヨーロッパ人が主導して地球をぐるりと回って対外拡張を進め、グローバル化を推進したことは事実でしょう。

     このシステムの歴史でヘゲモニー(主導権)を握った国家は、「17世紀中ごろのオランダ、19世紀中ごろのイギリス」(同上『アジアと欧米世界』)です。

     イギリスは工業製品を輸出する「世界の工場」として、また、通貨ポンドによる「世界の銀行」として、「パクス・ブリタニカ」(イギリスによる平和)と称される繁栄を謳歌(おうか)したのです。

     そして20世紀は「アメリカの世紀」と言われました。

     この世界システム論に立つと、ペリーに迫られた日本の開国も、日本をこのシステムに組み込む一つのプロセスのようにみえます。

     日本の近代はここに幕を開け、覇権国家のイギリス、アメリカ、そしてアジアの大国・中国との関係を軸に起伏の激しい道をたどることになります。

    【主な参考・引用文献】
    ▽佐藤正哲・中里成章・水島司『世界の歴史14 ムガル帝国から英領インドへ』(中公文庫)▽永田雄三・羽田正『世界の歴史15 成熟のイスラーム社会』(同)▽佐藤誠三郎『「死の跳躍」を越えて 西洋の衝撃と日本』(千倉書房)▽吉澤誠一郎『清朝と近代世界 19世紀』岩波新書▽秋田茂『イギリス帝国の歴史』(中公新書)▽川北稔『イギリス近代史講義』(講談社現代新書)▽長崎暢子『インド大反乱 一八五七年』(中公新書)▽羽田正『新しい世界史へ』(岩波新書))▽高校地理歴史教科書『詳説 世界史B』『詳説 日本史B』(山川出版社)▽同『明解 世界史A』(帝国書院)

     筆者の浅海伸夫氏による講座「もう一度学ぶ『昭和時代』」は、次のテーマを「敗戦まで その検証」とし、1月から3月まで計5回にわたり、よみうりカルチャー荻窪(東京都杉並区)で開かれる(途中受講も可能)。読売新聞の連載「昭和時代」の紙面をテキストに「昭和戦争」を振り返る。詳しくはこちら

    • 「昭和時代 一九八〇年代」(読売新聞昭和時代プロジェクト、中央公論新社)
      「昭和時代 一九八〇年代」(読売新聞昭和時代プロジェクト、中央公論新社)


    • 「昭和時代 敗戦・占領・独立」(読売新聞昭和時代プロジェクト、中央公論新社)
      「昭和時代 敗戦・占領・独立」(読売新聞昭和時代プロジェクト、中央公論新社)


    • 「昭和時代 戦前・戦中期」(読売新聞昭和時代プロジェクト、中央公論新社)
      「昭和時代 戦前・戦中期」(読売新聞昭和時代プロジェクト、中央公論新社)


    • 「昭和時代 戦後転換期」(読売新聞昭和時代プロジェクト、中央公論新社)
      「昭和時代 戦後転換期」(読売新聞昭和時代プロジェクト、中央公論新社)


    • 「昭和時代 三十年代」(読売新聞昭和時代プロジェクト、中央公論新社
      「昭和時代 三十年代」(読売新聞昭和時代プロジェクト、中央公論新社


    2016年10月19日 05時20分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
    プロフィル
    浅海 伸夫 (あさうみ・のぶお
    1982年から18年間、読売新聞の政治部記者。その間に政治コラム「まつりごと考」連載。世論調査部長、解説部長を経て論説副委員長。読売新聞戦争責任検証委員会の責任者、長期連載「昭和時代」プロジェクトチームの代表をつとめた。現在は調査研究本部主任研究員。
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