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    世界史と日本史を融合した新しい近現代史を物語風に紹介します。

    <鎖国日本とペリー来航> 第7回~清帝国に「西からの衝撃」

    アヘン戦争勃発

    • 英東インド会社の蒸気船が清軍の帆船を破壊する様子を描いたエドワード・ダンカンの絵画
      英東インド会社の蒸気船が清軍の帆船を破壊する様子を描いたエドワード・ダンカンの絵画
    • 清朝まで王宮として使われた紫禁城
      清朝まで王宮として使われた紫禁城

     作家の陳舜臣氏は、『実録 アヘン戦争』(中公文庫)をこう書き始めています、

     <アヘン戦争は、東と西の邂逅(かいこう)に違いないが、平等な立場のそれではない。東にたいする「西からの衝撃」(western  impact)にウェイトを置いてとらえるべきであろう>

     そして「西」にとって「東」は、まずキリスト教を伝導すべき、宗教上の処女地であり、産業革命後は商品を売りさばく市場になる。これに対して、東にとって西は、単なる「夷狄(いてき)(野蛮な異民族)の土地」にすぎない。東は西のように、激しい信仰の情熱や飽くことをしらぬ利益追究欲をもって西に眼を向けたことはなかった――。陳氏はこのように続けていました。

     こんなエピソードがあります。

     清朝黄金期の乾隆(けんりゅう)帝は1793年、イギリスのジョージ3世が通商交渉のため派遣した使節団のマカートニー全権にこう言いました。

     <わが天朝は、およそ無い物はないほど豊かであるから、外国と通商して有無相通じる必要などもともとない>

     この初の「中英接触」では、イギリス側が皇帝に「三跪九叩頭(さんききゅうこうとう)」(3回ひざまずき、そのたびに3回ずつ頭を地につける)の謁見儀礼をとるかどうかで紛糾し、清朝はイギリス側の要求をほとんど拒否しました。

     中国には元来、われこそ世界の中心であるという中華思想があり、異民族のことは夷狄と呼んで見下してきました。中国の皇帝は古代から「冊封(さくほう)」といって周辺国の首長に国王の称号を授与し、周辺国は使節を派遣して貢物を贈り返礼の品を受けとる「朝貢(ちょうこう)」のシステムをとっていたのです。

     乾隆帝の時代には、内地をはじめ東北地方と台湾が直轄領、モンゴル・チベット・新疆(しんきょう)青海(せいかい)は間接統治、朝鮮・ベトナム・タイ・ビルマ(ミャンマー)を朝貢国とする、中国中心の国際秩序が成立していました。

    インド産アヘン密輸

    • 中国・広東省東莞市のアヘン戦争博物館敷地内にある林則徐の像
      中国・広東省東莞市のアヘン戦争博物館敷地内にある林則徐の像

     インドからイギリスへのアヘン輸出は、1773年に始まり、その後、増加の一途をたどっていました。当時、イギリスでは中国からの茶の輸入が増えていたのに、中国に売るような輸出品がありませんでした。そこでイギリスは綿製品をインドに売り、その対価でインド産のアヘンを買って中国に密輸し、かわりに中国から茶を輸入することにしました。

     イギリスとインドと中国による「三角貿易」です。

     18世紀末から中国のアヘン消費が増大し、中毒患者のまん延に危機感を抱いた清朝は、アヘン禁止措置を強化します。

     「アヘン厳禁論」に立つ道光帝は、有能な官僚だった林則徐(りんそくじょ)(1785~1850年)を皇帝特命の「欽差(きんさ)大臣」に任命しました。1839年、広州に着いた林は、アヘン絶滅に向けて、イギリス商人たちが持っていたアヘンを大量に没収・廃棄処分にします。

     これに反発したイギリス政府は、同年10月に開戦を決定します。

     ただ、議会では、戦争の正当性をめぐって疑問も出て、40年4月、開戦賛成が271、反対が262の僅差でようやく軍の派遣が認められました。

     この時、野党議員として反対演説をしたのが、のちに首相になるグラッドストン(1809~98)です。彼は「異教徒で半文明的な野蛮人たる中国人側に正義があり、他方のわが啓蒙され文明的なクリスチャン側は、正義にも信仰にももとる目的を遂行しようとしている」などと述べて、「不義にして非道の戦争」を非難しました。(近藤和彦『イギリス史10講』岩波新書)

     同年6月、イギリスは艦隊を中国沿海部に集結させます。清の正規軍はイギリス艦隊の艦砲射撃と装備に圧倒され敗走を続けます。そうした中でイギリス軍を苦しめたのは農民や漁民からなるゲリラ軍でした。

     戦争は2年以上続き、イギリス軍は42年、インドからの増援軍を得て上海などを占領し、南京に迫って戦争は終結します。

    イギリスに香港割譲

    • 世界三大夜景の一つ、香港の夜景
      世界三大夜景の一つ、香港の夜景

     清は、42年8月に調印した南京条約で、イギリスの要求をほとんど受け入れます。

     一つは、戦争さなかの41年、イギリスが領有を宣言した香港島の割譲です。当時の香港は、人口数千人の一寒村にすぎませんでした。このあとイギリスの香港統治は20世紀の終わり近くまで続きます。1997年、中国に返還された香港島は、何と約630万人が住む、アジアきっての貿易・金融センターに変貌していました。

     第2に、清は上海、寧波(ニンポー)、福州、廈門(アモイ)、広州の5港の開港、賠償金2700万ドルの支払いを認めました。

     翌43年に清は、領事が本国の法律に基づいて在留自国民の裁判を行う領事裁判権や、最恵国待遇も容認。また、関税自主権も失い、税率は自主的に変更できなくなりました。

     他の国からも条約締結を求められ、アメリカとは望厦(ぼうか)条約、フランスとは黄埔(こうほ)条約を結びました。

     開港後の上海には、イギリスをはじめフランス、アメリカが「租界」(外国が行政権をもつ区域)を開設しました。租界は漢口や天津、広州などにも設けられます。

    英仏米露で利権争奪

    • 北京条約により、ロシアはウラジオストクを得て、太平洋への出口として港を建設した
      北京条約により、ロシアはウラジオストクを得て、太平洋への出口として港を建設した

     アヘン戦争は1度で終わりませんでした。

     イギリスは、南京条約によっても貿易量が伸びず、不満を募らせていました。1856年10月、英国旗を掲げて停泊中の貨物船「アロー」号で、中国人船員が清の官憲に海賊容疑で逮捕されました。

     イギリスは、これを口実にナポレオン3世のフランスと共同出兵し、アロー戦争(第2次アヘン戦争、56~60年)が勃発します。英仏両軍は57年末に広東を占領し、天津まで進撃。清朝は降伏して58年6月、イギリス、フランスだけでなくアメリカ、ロシアとも条約(天津条約)を結びました。

     ロシアを代表して調印したのは、日本にも来たプチャーチンでした。ロシアはその直前には、東シベリア総督のムラビヨフが清に圧力をかけてアイグン条約を締結し、黒竜江北岸を領有しました。

     59年、天津条約の批准を前に再び戦端が開かれ、清軍はイギリス・フランス軍を破りますが、翌60年に再び来襲した英仏軍によって首都・北京は占領されます。その際、兵士たちは、清朝の離宮「円明園(えんめいえん)」(バロック洋式の西洋建築を含む壮大な庭園)を焼き払って、略奪・破壊の限りを尽くしました。

     同年10月に締結された北京条約は、天津、漢口、南京など11港の開港や外国使節の北京常駐、外国人の内地旅行権などを認めました。イギリスには九竜半島が割譲され、ロシアは沿海州を獲得して、ウラジオストク港を建設、太平洋への出口とします。

     アヘン戦争後もアヘンの輸入は続いていました。清朝政府はこれを黙認していたのですが、そのアヘンも北京条約によって合法化されてしまいます。

     中国にとって余りにも屈辱的な不平等条約は、この先、欧米列強が中国での権益を正当化するための根拠となっていきます。

     こうしてアジアの大帝国の一つ、インドがイギリスによって支配されたのに続いて、中国も、欧米列強に侵食され半植民地状態に置かれることになります。

    佐久間象山らの警鐘

    • 『戊戌夢物語』で幕府の対外政策を批判した高野長英
      『戊戌夢物語』で幕府の対外政策を批判した高野長英

     徳川幕府が日本人漂流民を送還してきた「モリソン号」を大砲で追い払ったのは、アヘン戦争勃発3年前の1837年のことでした。

     この無法の行為を知った渡辺崋山(わたなべかざん)が『慎機論(しんきろん)』を著す一方、高野長英(ちょうえい)は『戊戌(ぼじゅつ)夢物語』を書いて、幕府の対外政策を批判しました。高野は日本に「後来如何(いか)なる患害出来(しゅったい)し候や、実に恐るべき」と警告しました。

     ところが、幕府内の頑迷な守旧派が、この蘭学の先覚者で海外事情に通じた2人を捕らえて厳しく罰します。いわゆる「蛮社(ばんしゃ)(ごく)」です。

     他方、幕府は、アヘン戦争に関してオランダと清国から続々と情報を入手し、イギリスの圧倒的優勢をキャッチします。幕府が「打払令」をやめ、今後は必要な物資は与えるという「天保薪水(しんすい)令」を布告したのは、中英間で南京条約が結ばれる直前のことでした。

     清の敗北は、中国をモデル国家として畏敬していた徳川の幕僚や知識人たちを打ちのめしました。

     松代藩士で朱子学者の佐久間象山(さくましょうざん)(1811~64)は、アヘン戦争を「容易ならぬ事態」と受け止め、幕府の海防(がかり)になっていた藩主・真田幸貫(ゆきつら)に大船・大砲の充実など海防策の緊急性を説きます。象山はオランダ語を学ぶとともに、江戸・木挽(こびき)町で塾を開いて弟子たちに砲術と儒学を教えます。門下には勝海舟・吉田松陰・加藤弘之らがいました。

     アヘン戦争は、日本人の中国への見方を変えると同時に、対外危機意識を目覚めさせました。幕府はアヘン戦争を機に「前者の(てつ)を踏むまい」と考えるようになります。そして第1次アヘン戦争終結から10年余り後のペリー来航時、鎖国から開国へと180度の方針転換を図ります。さらに日本と他国との通商に道を開く日米修好通商条約の締結に踏み切る際は、第2次アヘン戦争に関する情報が大きな決め手となるのです。

    太平天国と高杉晋作

    • 中国・広東省広州市の故郷に建てられた洪秀全の像
      中国・広東省広州市の故郷に建てられた洪秀全の像

     清朝は、イギリスとの戦争のみならず、太平天国軍はじめ内乱にも対処しなければなりませんでした。

     1851年にはキリスト教の影響を受けた洪秀全(こうしゅうぜん)(1813年~64年)が清朝打倒を唱えて中国南部の広西で挙兵し、信徒らとともに太平天国(51~64年)の建国を宣言しました。彼らは清の強制した「辮髪(べんぱつ)」をやめ「長髪」にしたため、長髪族と呼ばれました。

     洪秀全率いる軍団は湖南、湖北を転戦するうちに肥大化し、53年3月南京を占領して首都と定めます。これに対して、清朝は、彼らを討伐するため、軍隊を派遣します。

     60年の北京条約でアヘン戦争が幕を閉じるころ、内戦にも変化が生じます。鎮圧に苦しむ清軍に代わって、漢族の高官で著名な朱子学者の曽国藩(そうこくはん)が、地主階級を中心に農民らを募って義勇軍を編成し、太平天国軍に立ちはだかったのです。

     曽は幕僚の李鴻章(りこうしょう)に新たに義勇軍を編成させます。洋式装備で強化された義勇軍にイギリス、フランス両軍が加勢します。追いつめられた太平天国は64年7月、滅亡しました。

     当時、上海に渡航し、太平天国の運動をみていた日本人がいました。

     長州藩士の高杉晋作(1839~67)です。

     徳川幕府は1862年、貿易調査のため、蒸気船「千歳(せんざい)丸」を上海に派遣しました。高杉はその一行に加わり、上海に2か月滞在しました。

     その渡航日記『遊清五録』には、<払暁、小銃の声陸上に響く>とあり、高杉は早朝から長髪族と官軍が戦う小銃の音を聞きます。

     別の日に上海の町を歩くと、中国人はイギリス人やフランス人をみると、こそこそと道をよけ、ほとんど外国人の「便役」(使用人)になってしまっていると感じます。

     これでは、上海の地は中国に属するといっても、イギリスやフランスの「属地」(植民地)ではないか、注意しておかないと日本も同じ運命に見舞われかねない、と高杉は実感します。

     高杉は帰国直後、長崎でオランダ軍艦を注文し、まもなく品川のイギリス公使館焼き打ちに参加します。さらに、士農工商の身分階層をこえた「奇兵隊」の結成へと動くのは、この“上海体験”が物を言ったとみられます。

    【主な参考・引用文献】
    ▽吉澤誠一郎『清朝と近代世界 19世紀』(岩波新書)▽三谷博ら編『大人のための近現代史 19世紀編』(東京大学出版会)▽加藤祐三・川北稔『世界の歴史25 アジアと欧米世界』(中公文庫)▽秋田茂『イギリス帝国の歴史』(中公新書)▽奈良本辰也『高杉晋作』(同)▽小島晋治・丸山松幸『中国近現代史』(岩波新書)▽芳賀徹『明治維新と日本人』(講談社学術文庫)▽高校歴史教科書『詳説 世界史B』『詳説 日本史B』(山川出版社)

     筆者の浅海伸夫氏による講座「もう一度学ぶ『昭和時代』」は、次のテーマを「敗戦まで その検証」とし、1月から3月まで計5回にわたり、よみうりカルチャー荻窪(東京都杉並区)で開かれる(途中受講も可能)。読売新聞の連載「昭和時代」の紙面をテキストに「昭和戦争」を振り返る。詳しくはこちら

    • 「昭和時代 一九八〇年代」(読売新聞昭和時代プロジェクト、中央公論新社)
      「昭和時代 一九八〇年代」(読売新聞昭和時代プロジェクト、中央公論新社)


    • 「昭和時代 敗戦・占領・独立」(読売新聞昭和時代プロジェクト、中央公論新社)
      「昭和時代 敗戦・占領・独立」(読売新聞昭和時代プロジェクト、中央公論新社)


    • 「昭和時代 戦前・戦中期」(読売新聞昭和時代プロジェクト、中央公論新社)
      「昭和時代 戦前・戦中期」(読売新聞昭和時代プロジェクト、中央公論新社)


    • 「昭和時代 戦後転換期」(読売新聞昭和時代プロジェクト、中央公論新社)
      「昭和時代 戦後転換期」(読売新聞昭和時代プロジェクト、中央公論新社)


    • 「昭和時代 三十年代」(読売新聞昭和時代プロジェクト、中央公論新社)
      「昭和時代 三十年代」(読売新聞昭和時代プロジェクト、中央公論新社)


    2016年11月02日 05時20分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
    プロフィル
    浅海 伸夫 (あさうみ・のぶお
    1982年から18年間、読売新聞の政治部記者。その間に政治コラム「まつりごと考」連載。世論調査部長、解説部長を経て論説副委員長。読売新聞戦争責任検証委員会の責任者、長期連載「昭和時代」プロジェクトチームの代表をつとめた。現在は調査研究本部主任研究員。
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