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    世界史と日本史を融合した新しい近現代史を物語風に紹介します。

    <幕末の動乱と明治維新>第1回~ハリス・井伊直弼・吉田松陰

    外国語は「オランダ語」から「英語」に

    • ハリス
      ハリス

     駐日アメリカ総領事のタウンゼント・ハリス(1804~78年)は、1856年8月、通商条約締結のため、下田に来航しました。

     ハリスの「突然」の来日に下田奉行は大あわてです。

     ペリー提督と結んだ日米和親条約の第11条(和文)は、領事の設置は「両国政府の合議によって定める」旨が書かれていました。その合意がまだなされていない以上、ハリスの来日はありえない出来事だったのです。

     ところが、第11条の英文では「いずれか一方の政府が必要と認めた場合」に領事は置けるとあり、ハリスはそれに基づいてやってきたのでした。

     日本側が英語のeither(いずれか一方の)をboth(両方)の意味に取り違えて和訳したことによる誤訳トラブルでした。(高梨健吉『文明開化の英語』中公文庫)

     日本には英語のつかい手がわずかしかいませんでした。徳川幕府はさっそく蕃書調所(ばんしょしらべしょ)(洋学の教育研究機関)で英語を教え始めます。60年からは蘭学に代えて英学が正科になります。オランダ語から英語へ――「外国語はもっぱら英語」の時代の始まりです。

    ハリスと唐人お吉

    • ハリスが総領事館を置いた下田の玉泉寺
      ハリスが総領事館を置いた下田の玉泉寺

     ハリスはニューヨーク州で陶器商として働き、市の教育委員長などを務めたあと、貿易商に転じて東アジアを歴訪します。そこで外交官を志し、55年に下田駐在の初代アメリカ総領事に任命されました。

     ハリスは当時の日記に、「私は日本と、その将来の運命について書かれるところの歴史に名誉ある記載をのこすように、私の身を処したいと思う」と書いています。

     ハリスは、下田の玉泉寺に総領事館を置きました。江戸に出てピアース・アメリカ大統領の親書を将軍に渡し、真の開国と完全な通商を約束させようと考えていました。しかし、幕府の役人たちは面倒なことを避けて、ハリスの要請を拒み続けます。

     下田奉行との談判中の出来事として「唐人お吉」の物語があります。

     お吉が唐人(ハリス)の(めかけ)になるよう役人から懇請され、再三、断ったにもかかわらず、「御国のため」と説得され、恋人とも別れて唐人のもとにおもむく――といったお話です。外国人との接触がない時代のこと、お吉は世間から疎まれ、最後は投身自殺してしまいます。

     実際、持病のあるハリスは看護婦名目で「きち」という名の女性を雇っていました。ただ、きちは腫れ物を理由に3夜で解雇されたと言われており、今に受け継がれている下田情話は、<ナショナリズム感情にもとづいた後世のフィクションらしい>(松本健一『開国・維新』中公文庫)とみられています。

    自主的な判断だった

     ハリスは1857年、日米和親条約を補う下田条約を締結します。そして来日から1年以上待たされて、「江戸出府要求」がようやく実現しました。

     57年12月、ハリスは江戸城に入って13代将軍・徳川家定(いえさだ)(1824~58年)に謁見し、大統領親書を渡しました。

     数日後には、阿部正弘の後継として老中首座に就いていた堀田(ほった)正睦(まさよし)(下総国=千葉県北部=の佐倉藩主、1810~64年)と会見し、大演説をします。ハリスは、世界情勢やアヘン戦争を引きつつ、譲歩するなら時機を失わないように説き、通商条約の締結を求めました。

     これまで、幕府の条約締結の決断は、このハリスの要求と説得によるものとみられてきました。しかし、開明派として知られた堀田は、すでにこの年の4月、自らの判断で国交・通商開始の方針を固めていました(『大人のための近現代史』所収の三谷博「日本開国への決断」)。

     幕府は、10月にはオランダ、ロシアと通商条約を結びます。そうした準備のあと、堀田は、目付の岩瀬忠震(ただなり)らにハリスとの交渉にあたらせ、58年2月、妥結させたのです。

     条約案は鎖国という「祖法」の完全放棄につながる内容でした。事は重大であり、朝廷と天皇の了解が必要と考えた幕府は、調印の2か月延期をハリスに求めました。

     堀田は3月、自ら京都入りして参内し、勅許(天皇の許可)を要請します。しかし4月、岩倉(いわくら)具視(ともみ)(1825~83)をはじめとする中・下級の公家88人が、条約拒否を訴えて「列参」(強訴)に及ぶなど、抵抗勢力の動きが表面化します。

    通商条約で大政変

    • 井伊直弼の肖像画
      井伊直弼の肖像画

     この動きと並行して、幕府内では将軍・家定の継嗣(けいし)(後継ぎ)をめぐって、すさまじい権力闘争が展開されていました。外交政策と国内政局が深く絡み合っていたのです。

     水戸藩の徳川斉昭の子で一橋家を継いでいた徳川慶喜(よしのぶ)(1837~1913年)を推す「一橋派」と、紀州藩主・徳川慶福(よしとみ)(1846~66年)をかつぐ「南紀派」とが真っ向から対立しました。

     一橋派は、親藩・外様雄藩で形成され、越前藩主の松永慶永(よしなが)、薩摩藩主の島津斉彬(なりあきら)らがいました。これに対して、南紀派は譜代諸侯のグループで、彦根藩主の井伊直弼(なおすけ)(1815~60年)が中心でした。

     彦根藩主の14男として生まれた直弼は、長兄の藩主からわずか300俵を与えられただけという恵まれぬ身ながら、居合術、禅、茶道など文武諸芸に精進しました。長兄の嗣子(しし)が病死したため、棚ぼた式に藩主の跡継ぎとなってからチャンスをつかみ、1850年に彦根藩主に就きました。

     ペリー来航に際しての意見書では開国を唱え、攘夷(じょうい)強硬派の徳川斉昭、すなわち慶喜の父と対立し、政敵の関係にありました。

     58年5月、朝廷側は、通商条約について「改めて諸大名の意見を聞くように」と差し戻しの勅諚(ちょくじょう)(天皇の言葉)を出します。堀田の工作は不首尾に終わりました。

     この直後、将軍の継嗣は、家定の意向もあり、南紀派の推す慶福(14代将軍家茂(いえもち))に内定します。6月4日には、南紀派の井伊が大老(幕府の職制で臨時の最高職)の座につきました。

     井伊は7月29日、勅許を待たず、日米修好通商条約調印を断行します。

     下田に入港したアメリカ船ミシシッピ号がもたらした情報がきっかけでした。第2次アヘン戦争が英・仏軍の勝利に終わり、6月に天津条約が結ばれたというものです。

     ハリスは、言葉巧みに「このあと、英仏両国が日本にやってきたなら、日本は過酷な要求に苦しむだろう」と揺さぶり、調印を急がせました。

     井伊家に伝わる史料には、調印に踏み切った直弼の心境について、「大政は幕府に委任されており、政治は機に臨んで権道をとる必要もある。勅許を得ない重罪は、甘んじて直弼1人が受ける決意」とあります。ただ、直弼は最後の最後までひとり煩悶(はんもん)していたことも確かなようです。

    安政の大獄と桜田門外の変

    • 吉田松陰像(山口文書館蔵)
      吉田松陰像(山口文書館蔵)

     日米修好通商条約には、公使の江戸駐在、神奈川(横浜)・長崎・新潟・兵庫の開港と江戸・大阪の開市(かいし)、自由貿易の原則などが盛り込まれました。

     問題なのは、領事裁判権を認め、和親条約の際の最恵国待遇の規定を引き継いだこと、相互協定で税率を決める「協定関税」方式により日本の関税自主権が認められなかったことです。

     通商条約はオランダ、ロシア、イギリス、フランスとも締結されます(安政の5か国条約)。

     これは清国が欧米諸国と結んだ条約に似ていました。その不平等性は、明治日本の指導者たちをして改正交渉に向かわせることになります。

     井伊直弼の強硬策は、朝廷や攘夷派との間で深刻な亀裂を生み、一橋派の徳川斉昭らは、突然、登城して井伊をなじります。しかし、井伊は「不時(無断)登城」というルール違反を逆手にとって、斉昭を謹慎処分にするなど一橋派を封じ込めます。

     孝明天皇は、朝廷をないがしろにされたことに怒ります。水戸藩に対し、井伊排斥を含みとする幕政批判の勅書「戊午(ぼご)の密勅(内々に下される勅命)」が出されます。

     これに対して井伊は、「密勅」にかかわったとして水戸藩の家老ら藩士4人を切腹等に処して反撃し、尊攘派志士ら多数を処罰します。世界情勢に通じていた越前藩士・橋本左内(さない)や長州藩士・吉田松陰(しょういん)(1830~59)も死罪になりました。

     また、追手(おって)がかかった京都・清水寺の勤王僧・月照(げっしょう)が、保護を求めた西郷吉之助(隆盛)と鹿児島湾に入水し、月照は死亡し西郷ひとり生き残ったのは、この時のことです。

     この「安政の大獄」といわれる流血の大弾圧のあと、直弼に対する暗殺計画が始動します。

     1860年3月24日、春の大雪が降る中、水戸と薩摩の脱藩浪士ら18人が、江戸城桜田門外で、登城する井伊の行列を襲い、直弼を殺害しました。直弼の遺骸は、東京・世田谷区の豪徳寺に埋葬されました。

     大老の暗殺は、幕府の権威を大きく失墜させたあげく、激烈な尊皇攘夷運動を引き起こすことになります。

    松陰と大和魂

    • 松陰が主宰した私塾「松下村塾」
      松陰が主宰した私塾「松下村塾」

     安政の大獄で死罪の判決を受けた吉田松陰は、「老中・間部(まなべ)詮勝(あきかつ)の襲撃計画」が直接の罪状になりました。

     松陰は諸国遊学中、ペリー来航を知り、師の佐久間象山とともに浦賀に駆けつけています。当初、アメリカの要求を拒否して開戦を覚悟していたという松陰は、和親条約が締結されると、密航を企てます。外国に対抗するには、何よりもまず外国を知らなければならない。「()をもって()(ふせ)ぐ」信念から出たことです。

     松陰は54年4月24日未明、下田に停泊中のペリー艦隊に、金子重輔(しげのすけ)とともに小舟で接近しました。乗艦を許されると「アメリカに連れて行ってほしい」と懇願しました。

     ペリーは、これにどうこたえたのでしょうか。

     <彼らは教養ある人物で、中国語を流暢(りゅうちょう)かつ端麗に書き、物腰も丁重で非常に洗練されていた。提督は、自分としても何人かの日本人をアメリカに連れて行きたいのはやまやまだが、残念ながら二人を迎え入れることは出来ないと、答えさせた>(『ペリー提督日本遠征記』)

     ただ、ペリーは<死の危険を冒すことも辞さなかった二人>に好意を抱いたようで、彼らの身を案じて幕府側に使者を出したりしています。

    • 松陰が処刑される前、したためた辞世の句。「此程に思定(おもいさだ)めし出立(いでたち)をけふきく古曽嬉(こそうれ)しかりける」(山口文書館蔵)
      松陰が処刑される前、したためた辞世の句。「此程に思定(おもいさだ)めし出立(いでたち)をけふきく古曽嬉(こそうれ)しかりける」(山口文書館蔵)

     松陰は江戸に護送される道すがら、高輪(たかなわ)・泉岳寺のあたりで歌を詠みます。

     <かくすればかくなるものと知りながら()むに已まれぬ大和魂>

     思想家の松陰は、教育者でもありました。長州・萩で私塾「松下村塾(しょうかそんじゅく)」を主宰し、高杉晋作、久坂(くさか)玄瑞(げんずい)、伊藤博文、山県有朋、前原一誠、品川弥二郎などの人材を育てました。

     19世紀後半、松陰に対して関心を示した外国人がいたことも忘れてはなりません。

     イギリスの小説家で『宝島』や『ジキル博士とハイド氏』などを著したスチーブンソンです。松下村塾出身の留学生から話を聞いて松陰の小伝をまとめ、「祖国改革の殉教者」としての松陰をたたえました。(平川祐弘『西欧の衝撃と日本』(講談社学術文庫)

     吉田松陰と井伊直弼については、さまざまな見方や評価があります。

     たとえば、松陰は昭和戦争のさなか<「大東亜戦争」における「忠君愛国」の理想的人間像として鼓吹され>ました。とりわけ<児童・生徒に対して「少松陰たれ」と、イデオロギー教育がなされた>のです。これに対し、違勅条約を結び、松陰を捕縛した井伊直弼は、足利(あしかが)尊氏(たかうじ)同様「逆臣」とされていました。

     ところが戦後、価値観が一変し、一時期、松陰の伝記は姿を消します。逆に直弼は日米協力関係の先駆者として評価されるに至ります(田中彰『吉田松陰―変転する人物像』(中公新書)。

     歴史に名を残した人物の評価が時代とともに、かくも変わるものなのか、その格好の例として覚えておいていいことです。

    【主な参考・引用文献】

    ▽佐々木克『幕末史』ちくま新書)▽小西四郎『日本の歴史19 開国と攘夷』(中公文庫)▽吉田常吉・佐藤誠三郎校注『幕末政治論集』(岩波書店)▽井上勝生『幕末・維新』(岩波新書)▽芳賀徹『明治維新と日本人』(講談社学術文庫)▽吉田常吉『唐人お吉』(中公新書)▽『ペリー提督日本遠征記』(角川ソフィア文庫)▽古川薫『松下村塾』(新潮選書)▽G・B・サンソム『西欧世界と日本』(ちくま学芸文庫)▽野口武彦『幕末気分』(講談社)

     筆者の浅海伸夫氏による講座「もう一度学ぶ『昭和時代』」は、次のテーマを「敗戦まで その検証」とし、1月から3月まで計5回にわたり、よみうりカルチャー荻窪(東京都杉並区)で開かれる(途中受講も可能)。読売新聞の連載「昭和時代」の紙面をテキストに「昭和戦争」を振り返る。詳しくはこちら

    • 『昭和時代 一九八〇年代』(読売新聞昭和時代プロジェクト、中央公論新社)
      『昭和時代 一九八〇年代』(読売新聞昭和時代プロジェクト、中央公論新社)


    • 『昭和時代 敗戦・占領・独立』(読売新聞昭和時代プロジェクト、中央公論新社)
      『昭和時代 敗戦・占領・独立』(読売新聞昭和時代プロジェクト、中央公論新社)


    • 『昭和時代 戦前・戦中期』(読売新聞昭和時代プロジェクト、中央公論新社)
      『昭和時代 戦前・戦中期』(読売新聞昭和時代プロジェクト、中央公論新社)


    • 『昭和時代 戦後転換期』(読売新聞昭和時代プロジェクト、中央公論新社)
      『昭和時代 戦後転換期』(読売新聞昭和時代プロジェクト、中央公論新社)


    • 『昭和時代 三十年代』(読売新聞昭和時代プロジェクト、中央公論新社)
      『昭和時代 三十年代』(読売新聞昭和時代プロジェクト、中央公論新社)


    2016年11月16日 05時20分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
    プロフィル
    浅海 伸夫 (あさうみ・のぶお
    1982年から18年間、読売新聞の政治部記者。その間に政治コラム「まつりごと考」連載。世論調査部長、解説部長を経て論説副委員長。読売新聞戦争責任検証委員会の責任者、長期連載「昭和時代」プロジェクトチームの代表をつとめた。現在は調査研究本部主任研究員。
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