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    世界史と日本史を融合した新しい近現代史を物語風に紹介します。

    <幕末の動乱と明治維新>第2回~「攘夷」とは何だったのか

    公武合体と皇女和宮

    • 和宮の肖像画
      和宮の肖像画

     桜田門外の変のあと、徳川幕府は、朝廷(公)と幕府(武)との融和を図るため、公武合体政策をとり、その象徴として孝明天皇の妹である和宮(かずのみや)(1846~77年)と将軍家茂(いえもち)との政略結婚を企てます。

     和宮には婚約者がいたのですが、幕府側は再三にわたって「降嫁(こうか)」を懇請し、孝明天皇の承諾を得るため、最後は「7、8年ないし10年以内」の破約攘夷(通商条約の解消)を誓約しました。しかし、幕府には何の成算もなく、空約束にすぎませんでした。

     皇女和宮は1861年11月に京都の御所を出発し、翌62年3月、江戸城で結婚式が行われます。

     その1か月ほど前、老中の安藤信正(のぶまさ)が登城途中、坂下門外で、2人の結婚に反対する水戸浪士らの襲撃を受けて負傷しました(坂下門外の変)。

     首脳に対するテロによって幕府の力が弱まるのに伴って、外様の長州、薩摩両藩が中央政局に乗り出します。

     長州藩は、直目付(じきめつけ)の長井雅楽(うた)が61年、「航海遠略策(こうかいえんりゃくさく)」という独自の開国論を唱えました。幕府と朝廷はわだかまりを捨て、外国の長所を取り入れることで国力をつけ、そのうえで「5大州(5大陸)」を制覇しよう、と主張しました。

     次いで薩摩藩が動きます。藩主の父、島津久光(ひさみつ)(1817~87年)は62年5月、藩兵1000人を率いて京都に到着。公武合体の態勢づくりのため、人事刷新を含む「幕政改革」を朝廷に上奏し、勅使とともに江戸にくだります。

    • 幕末に撮影されたとみられる江戸城(横浜開港史料館蔵)
      幕末に撮影されたとみられる江戸城(横浜開港史料館蔵)

     幕府は勅使らの圧力に押されて、言われるままに徳川慶喜(よしのぶ)を将軍後見職に、松平春嶽を政事総裁職にそれぞれ任命します。

     これまで天皇の権威は、幕府支配を正当化するためのものでした。ところが、幕府の凋落とともに天皇の権威が上昇し、朝廷は政治組織化して「勅命」が絶対的価値をもつようになります。

     政治の舞台は江戸から京都に移り、「朝廷」と「徳川幕府」と「外様雄藩」の3者が、複雑に絡みながら政局の主導権争いを展開します。

    「尊皇攘夷」の思想

     公武合体と並んで進行していたのが尊皇攘夷運動でした。

     当時は一般庶民も含めあげて「攘夷」でしたが、それはなぜなのでしょうか。

     第1は、「開国」による物価の騰貴で<欧米人に対する怨恨感情>が芽生えたことです。第2は、欧米商人の中に<日本人を未開の人種であるかのように軽んじる>者が少なくなかったためとみられています(中村彰彦『幕末入門』中公文庫)。

     日米修好通商条約を調印したハリスでさえも、日本を近代化の遅れた「半開の国」とみて、条約上、対等な扱いをしなかったことが想起されます。

     <尊皇攘夷運動>を『国史大辞典』(吉川弘文館)で引きますと、こうあります。

     <尊王論も攘夷論も、本来封建的な名分(めいぶん)思想で、前者は身分制の頂点にある天皇を尊崇(そんすう)する思想であり、後者は自国を中華とし他国を夷狄(いてき)として排撃する思想である>

     とくに江戸後期、尊王攘夷の熱風を吹かせたのは水戸藩でした。その(さきがけ)会沢(あいざわ)正志斎(せいしさい)藤田(ふじた)東湖(とうこ)です。

    • 光圀公が着手し、歴代藩主によって完成した「大日本史」
      光圀公が着手し、歴代藩主によって完成した「大日本史」

     水戸藩では、『大日本史』の編纂(へんさん)を命じた徳川光圀(1628~1700年)――「黄門」さま――の時代から「尊皇思想」が強く打ち出され、いわゆる「水戸学」が生まれます。

     会沢は『大日本史』の編纂に携わり、1824年、イギリスの捕鯨船員が藩領に大挙上陸した際には筆談役をつとめました。会沢が著書『新論』で、対外危機下の国防策や天皇を頂点とする国体論を提示したのは翌25年のことです。

     「尊皇」と「攘夷」が一体化する契機は、58年の日米修好通商条約の締結でした。

     天皇の希望を()まず勅命をたがえたことは「尊皇」にもとる、通商条約も不平等である、幕府は「破約攘夷」を行動に移さない――これらを背景に「尊皇攘夷」は政治運動のスローガンとなり、やがて、幕府を激しく揺さぶり、幕府を倒壊させるための「口実」と化していくのです。

     先に「航海遠略策」を唱えていた長州藩は62年8月、一転して破約攘夷に藩論を統一します。ペリー来航以来、外国への対抗心に燃え、安政の大獄による吉田松陰の処刑に反発を抱く同藩は、攘夷運動の先頭に立ちます。

    吹き荒れる攘夷の嵐

    • 生麦事件のあった現場付近(横浜開港史料館蔵)
      生麦事件のあった現場付近(横浜開港史料館蔵)

     攘夷運動は、「異人()り」(外国人殺害事件)を続発させました。

     1861年1月、ハリスの通訳を務めていたアメリカ公使館のヒュースケンが、江戸市中で攘夷派の浪士に殺されました。この事件で幕府は、ヒュースケンの母親に対して賠償金1万ドルを支払いました。また7月には水戸浪士らが、イギリス公使館が置かれていた高輪・東禅寺を襲撃し、館員を負傷させました。

     1862年9月、有名な「生麦事件」が発生します。

     島津久光の行列が横浜の生麦村にさしかかった際、乗馬したまますれ違おうとしたイギリス商人らを薩摩藩士が「無礼討ち」したのです。

     イギリス側は犯人の引き渡しや賠償金を幕府と薩摩藩に要求しました。幕府の外交方(外交部)でイギリスの賠償要求の公文書を翻訳していた1人に福沢諭吉がいました。その著『福翁自伝』によりますと、賠償支払いの可否をめぐって事態が切迫し、<江戸市中そりゃモウ今に戦争が始まるに違いない>という騒ぎになります。

     翌63年1月、長州藩の久坂玄瑞、高杉晋作らが、品川御殿山に建設中のイギリス公使館を焼き打ちしました。

     一方、京都では、尊攘派の志士や浪人たちが跳梁(ちょうりょう)し、公武合体派や開国派の公卿、幕府役人らを相次いで斬殺しました。公武合体で動いた岩倉具視すら「天誅(天に代わって罰すること)」を予告されたため宮中を去り、隠棲(いんせい)を余儀なくされました。

     長州藩や朝廷内の強硬派は、幕府に勅使を派遣して「攘夷断行」を強く要求するに至ります。将軍の家茂も異例の上洛を決意します。上洛は3代将軍・家光以来、229年ぶりのことでした。

     63年4月、天皇から「攘夷成功のために尽力せよ」と命じられた家茂は、「攘夷安民」祈願のために挙行された天皇の賀茂社行幸に随従(ずいじゅう)しました。

     家茂は、63(文久3)年6月25日を期して「破約攘夷」を約束せざるをえなくなります。幕府は生麦事件の賠償金44万ドルをイギリスに支払うとともに、各国公使に対して条約の解消を通告しました。

     この「破約攘夷」をめぐる主張や行動は一様ではありませんでした。

     歴史学者の佐々木克氏の『幕末史』(ちくま新書)によりますと、それは<武力対決も辞さないとする強い姿勢で不平等条約の破棄を要求する>強硬論と、<武力対決は避け、あくまで外交交渉で破棄を要求し、全面廃棄は難しいから天皇が望む「横浜鎖港」を実現するよう努力する>穏健論に分かれます。前者は長州や一部の公家が代表し、後者は松平春嶽、山内容堂、島津久光らの立場でした。

    下関攘夷戦争と薩英戦争

     幕府が攘夷期限としていた6月25日、長州藩はいきなり下関海峡を通過中のアメリカ商船を砲撃します。2週間後にはフランスの軍艦、次いでオランダの軍艦にも砲弾を浴びせました。

     これに対して7月16日、アメリカの軍艦ワイオミング号が下関の砲台と長州の軍艦に報復攻撃し、戦闘の末、長州藩所有の3隻を撃沈・大破させます。

     当時、アメリカは南北戦争(1861~65年)のさなかでした。リンカンが奴隷解放宣言を出し、ゲティスバーグの戦いで北軍が勝利した時期にあたります。ワイオミングは北軍の軍艦で、南軍の軍艦を捕えるためアジアに来ていました。日本国内の険悪な情勢を知って駆けつけてきたようです。(古川薫『幕末長州藩の攘夷戦争』(中公新書)

     4日後、フランス東洋艦隊の軍艦2隻が報復のためやって来ました。砲弾で長州の砲台を沈黙させると、陸戦隊70人のほか水兵180人が敵前上陸、村落に火を放ちました。

     攘夷戦に惨敗した同藩では、藩士の高杉晋作が、外国軍隊迎撃を名目に、民兵組織としての「奇兵隊」編成に着手します。

     一方、8月15日、薩摩藩士による生麦事件の報復のため、イギリス軍艦7隻が鹿児島湾に侵入しました。薩摩藩は、イギリス側が求めた殺害者の逮捕と処刑、賠償金の支払いを拒否し、戦闘が始まります。

     薩摩側は、イギリスの砲撃で鹿児島の市街地を消失したうえ、全砲台が大破。他方、イギリス側も旗艦の艦長が即死し、死傷者は60人を超えるなど大きな被害が出ます。薩摩藩は講和交渉に入り、幕府から借金して賠償金を支払います。

     この戦争は薩摩藩にとって大きな転機になりました。イギリスとの関係を親密化させ「開国」へとかじを切っていくことになるのです。

    新選組の近藤勇

    • 新選組の近藤勇、土方歳三らが稽古に励んだ道場があった日野宿本陣(東京都日野市)
      新選組の近藤勇、土方歳三らが稽古に励んだ道場があった日野宿本陣(東京都日野市)

     薩英戦争の1か月半後、京都では長州藩急進派の暴走を阻止する動きが表面化します。63年9月30日(旧暦文久3年8月18日)、会津藩と薩摩藩の「会薩同盟」(公武合体派)が、朝廷内の急進尊攘派公卿の失脚をはかるクーデターを実行したのです。

     薩摩と会津の兵で御所の門をすべて固め、急進派を締め出し、長州藩は門の警衛を解任され追い出されました。

     三条実美(さねとみ)(1837~91年)ら7人は、「長州藩と結んで天皇の意思とは異なる偽勅を発した」として長州へと追放されました。「七卿(しちきょう)落ち」と言われます。

     他方、テロの烈風が吹く63年、幕府の実力部隊として結成された「新選組」が京都守護職の会津藩主・松平容保(かたもり)(1835~93年)の監督下に入ります。彼らは、袖口が白の「山道つなぎ(キザギザ模様)」で縁取られた羽織姿で京都市中を闊歩(かっぽ)します。

     局長の近藤(いさみ)(1834~68年)は武州多摩郡(現在の東京都調布市)の出身。江戸牛込で天然理心流(てんねんりしんりゅう)の道場を開いていました。将軍家茂の上洛の警護のため、幕府が浪士を募集した際、師範代の土方歳三、塾頭の沖田総司らとともに参加します。

     もともと江戸に拠点があり、将軍家に親近感を抱く<佐幕攘夷>の剣客集団・新選組に参集した浪士は剣客ぞろいで、長州藩や勤王の志士らを震えあがらせます。

     翌64年7月、近藤らが京都三条の旅館「池田屋」を襲い、尊攘派の志士らを殺傷しました。この池田屋事件は、長州藩を激高させ、幕末史の展開に大きな影響を与えます。この時、長州藩京都留守居役の桂小五郎(かつらこごろう)(のち木戸孝允(こういん))はあやうく難を逃れました。

    4国連合艦隊の来襲

    • 連合艦隊によって占拠された砲台(下関市立歴史博物館蔵)
      連合艦隊によって占拠された砲台(下関市立歴史博物館蔵)

     全国各地で尊攘派の反乱が続きます。

     63年11月、元福岡藩士の平野国臣らが但馬(たじま)の生野代官所を襲撃しました(生野の変)。これは、土佐藩士らが大和五条の代官所を襲った「天誅組の変」に呼応したものでしたが、たちまち鎮圧されました。また、水戸藩尊攘派の藤田小四郎らが率いる天狗党が64年5月、筑波山で倒幕の挙兵をし、越前まで進軍した末、降伏します。

     また、文久3年8月の政変や池田屋事件にいきり立つ長州藩は8月、藩兵を京都に向かわせ、御所に進撃します。しかし会津、桑名、薩摩藩兵と激戦のあげく敗退し、久坂らが戦死しました(「禁門(きんもん)の変」または「蛤御門(はまぐりごもん)の変」)。

     8月24日、朝敵となった「長州征討」(第1次)の勅命がくだり、幕府は諸藩の兵士の出動を命じます。

     きびすを接するように9月5日、イギリスをはじめフランス、アメリカ、オランダの4か国、計17隻の連合艦隊が、長州・下関の砲台を攻撃しました。目的は長州による関門海峡封鎖を解除させることでした。イギリス公使・オールコックが他の3か国によびかけました。

     このころ、留学のため、イギリスに密航していた長州藩士の伊藤俊輔(のち博文)、井上聞太(のち馨)は、列強による長州藩への武力行使を回避するため、急ぎ帰国し、藩側とイギリス公使館との間に立って避戦工作にあたりましたが、うまくいきませんでした。

     敗れた長州藩は9月8日、連合艦隊側と講和交渉を開始します。

     藩側の代表は高杉で、伊藤が通訳をつとめました。連合艦隊側の通訳だったアーネスト・サトウの『一外交官の見た明治維新』(岩波文庫)によれば、高杉は「悪魔のように傲然(ごうぜん)として」いました。交渉はオールコックが主導し、賠償金として300万ドルを要求しました。長州藩にはとても払えない法外な額であり、高杉らは頑強に拒みます。結局、オールコックはこれを幕府に押しつけることで、開港交渉で新たなカードを得ようとしていました。

     長州藩と薩摩藩による対外戦争は、攘夷派に「刀と(やり)」の時代の終わりと、攘夷が現実には不可能なことを悟らせます。攘夷断行のためにも、積極的に開国することで富国強大化をめざし、そして世界に対峙すべきだという<開国攘夷>の考え方が生まれます。

     他方、幕府の長州征伐では、薩摩藩側役(そばやく)の西郷隆盛が交渉にあたり、長州藩は12月、京都出兵(禁門の変)の責任をとらせて3家老を切腹させます。これにより交戦は避けられました。

    【主な参考・引用文献】

    ▽芳賀徹『明治維新と日本人』(講談社学術文庫)▽中村隆英『明治大正史』(東大出版会)▽松本健一『開国・維新』(中央公論社)▽半藤一利『幕末史』(新潮文庫)▽古川薫『幕末長州藩の攘夷戦争』(中公新書)▽福沢諭吉『福翁自伝』(講談社学術文庫)▽小西四郎『日本の歴史19 開国と攘夷』(中公文庫)▽角川書店編『日本史探訪』(角川文庫)▽高校歴史教科書『詳説日本史』(山川出版社)

     筆者の浅海伸夫氏による講座「もう一度学ぶ『昭和時代』」は、次のテーマを「敗戦まで その検証」とし、1月から3月まで計5回にわたり、よみうりカルチャー荻窪(東京都杉並区)で開かれる(途中受講も可能)。読売新聞の連載「昭和時代」の紙面をテキストに「昭和戦争」を振り返る。詳しくはこちら

    • 「昭和時代 一九八〇年代」(読売新聞昭和時代プロジェクト、中央公論新社)
      「昭和時代 一九八〇年代」(読売新聞昭和時代プロジェクト、中央公論新社)


    • 「昭和時代 敗戦・占領・独立」(読売新聞昭和時代プロジェクト、中央公論新社)
      「昭和時代 敗戦・占領・独立」(読売新聞昭和時代プロジェクト、中央公論新社)


    • 「昭和時代 戦前・戦中期」(読売新聞昭和時代プロジェクト、中央公論新社)
      「昭和時代 戦前・戦中期」(読売新聞昭和時代プロジェクト、中央公論新社)


    • 「昭和時代 戦後転換期」(読売新聞昭和時代プロジェクト、中央公論新社)
      「昭和時代 戦後転換期」(読売新聞昭和時代プロジェクト、中央公論新社)


    • 「昭和時代 三十年代」(読売新聞昭和時代プロジェクト、中央公論新社)
      「昭和時代 三十年代」(読売新聞昭和時代プロジェクト、中央公論新社)
    2016年11月30日 05時30分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
    プロフィル
    浅海 伸夫 (あさうみ・のぶお
    1982年から18年間、読売新聞の政治部記者。その間に政治コラム「まつりごと考」連載。世論調査部長、解説部長を経て論説副委員長。読売新聞戦争責任検証委員会の責任者、長期連載「昭和時代」プロジェクトチームの代表をつとめた。現在は調査研究本部主任研究員。
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