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    世界史と日本史を融合した新しい近現代史を物語風に紹介します。

    <幕末の動乱と明治維新>第3回~咸臨丸、太平洋を渡る

    江戸―サンフランシスコ間、初の横断航海

    • 勝麟太郎(海舟)や福沢諭吉らが乗り込んだ「咸臨丸」
      勝麟太郎(海舟)や福沢諭吉らが乗り込んだ「咸臨丸」
    • ワシントン海軍工廠での遣米使節団の一行
      ワシントン海軍工廠での遣米使節団の一行

     攘夷の嵐の中でも、徳川幕府は積極的に大小の外交使節団を「夷狄(いてき)(野蛮人)の国」に派遣していました。

     その手始めがアメリカへの使節団です。正史には外国奉行の新見豊前守(しんみぶぜんのかみ)正興(まさおき)、副使には箱館奉行の村垣(むらがき)淡路守(あわじのかみ)範正(のりまさ)、目付に小栗(おぐり)豊後守(ぶんごのかみ)(のち上野介(こうずけのすけ)忠順(ただまさ)が選ばれました。目的は日米修好通商条約の批准書の交換で、目的地はサンフランシスコです。

     1860年2月13日(安政7=万延元年1月22日)、総勢77人の遣米使節団が、アメリカから差し向けられた軍艦ポーハタン号に乗り込み、横浜を出港しました。

     これに先立つ2月4日には、幕府の軍艦「咸臨丸(かんりんまる)」が品川沖を出帆しています。船将(艦長)は勝麟太郎(海舟)です。その上役に軍艦奉行・木村(きむら)摂津守(せっつのかみ)喜毅(よしたけ)、従者に中津藩士・福沢諭吉ら、通訳としてジョン(中浜)万次郎、瀬戸内海・塩飽(しあく)島の水夫ら総勢96人でした。

     咸臨丸は、幕府がオランダから10万ドルで購入した小型の蒸気軍艦で、船長49メートル、幅・深さともに約7メートル、排水量600~800トン。正使一行の護衛とともに、事故があったときの「身代わり」的な役割も期待されていました。

    • 勝海舟
      勝海舟
    • 福沢諭吉
      福沢諭吉

     日本人士官は、勝をはじめ幕府の長崎海軍伝習所の出身者で、航海術を学んでいました。ところが、幕府当局は技量に不安を感じたのか、日本近海で難破したアメリカの測量船の海軍士官・乗組員ら11人を同乗させました。

     航海は、勝がのちに書いているように「洋中にある37日、晴天日光を見る、わずかに5、6日」という悪天候ぶりで、木村や勝も苦闘の連続だったようです。他方、アメリカの海軍士官は日記で「日本人が無能で帆を十分にあげることができない」などと、その操船ぶりを手厳しく批判しています。

     ただ、福沢は『福翁自伝』で、測量をするにしても「けっしてアメリカ人に助けてもらうということはちょいとでもなかった」と指摘。咸臨丸による単独航海の決断と勇気と技量は、「日本国の名誉として世界に誇るに足る」と書いています。

     咸臨丸は3月18日、新見一行より一足早く、サンフランシスコに入港しました。幕府は54年、「白地日の丸」の日章旗を「日本国総船印」(国旗)と定めていましたが、この日、咸臨丸のマストには「日の丸」が翻っていました。地元紙は日本人による江戸―サンフランシスコ間を結ぶ、初の太平洋横断航海成功の壮挙をたたえています。

     その後、咸臨丸は、ワシントンに向かう新見一行と別れて5月、単独で帰国の途につきました。

    アメリカは「昼夜反対」

     遣米使節団の派遣は、通商条約交渉の際、日本側が提案し、米国側が快諾して決まりました。

     使節団の副使・村垣範正は、とても面白い『航海日記』を書き残しています。

     それによりますと、59年10月、使節入りが決まって家に帰ると、<家の女子等は打ちしおれた>様子です。というのも<むかし遣唐使といえど、わずか海路を隔てたる隣国>なのに、<米利堅(めりけん)(アメリカ)>となると、<皇国と昼夜反対にして一万里外>にあるというわけです。自分も副使に任命されて<男子に生まれ得し甲斐ありなどと言いて、すかしける>けれど、<君命をはづかしむれば、神州の恥辱となりなんことと思えば、胸苦しきこと限りなし>と、ドキドキがおさまりません。

     とはいえ、いざアメリカの旅が始まってしまうと、村垣もリラックスして外遊を楽しむようになります。ワシントン入りした新見正使らは60年5月、ブキャナン大統領と会見し、条約批准書を交わします。村垣は、大統領が商人と同じ服装で何の飾りもないのを見て、「こちらは盛装できたのに」と愚痴をこぼします。日本側は狩衣(かりぎぬ)を着ていたのです。

     国会議事堂も訪ねますが、演説する議員の姿を<もも引掛け筒袖(つつそで)にて、大音に罵るさま、我が日本橋の魚市のさまによく似たり>と描き、国務長官招待の夜会で初めて見たダンスにはこんな感想を抱きます。

     <こま(ねずみ)(まわ)るが如く、女のすそには風をふくみ、いよいよひろがりてめぐるさま、いとおかし>

     一行は、ニューヨークのブロードウェーを馬車で行進し、市民から大歓迎を受けました。

    南北戦争の前夜

    • ワシントンのリンカーン記念堂にある坐像
      ワシントンのリンカーン記念堂にある坐像

     アメリカの奴隷制度に対する批判で知られる小説にストウ夫人の「アンクル・トムの小屋」(1852年)があります。黒人奴隷のトムが主人公で、その悲惨な境涯を通して奴隷制度の非人間性を訴えたものでした。

     ブキャナン大統領の任期中も奴隷をめぐる対立は変わらず、深刻な事件が続いていました。使節団が訪れたその年の秋には大統領選挙が予定されており、アメリカ国内は、穏やかならぬ政情にありました。

     当時、綿花輸出の拡大で潤う南部諸州は、自由貿易と奴隷制の存続を求めていました。これに対して、産業革命の恩恵を受ける北部では、イギリスとの競合製品に高関税をかける保護主義と奴隷制反対の意見が強まっていました。

     60年11月の大統領選挙では共和党のリンカーン(1809~65年)が、党分裂の憂き目にあった民主党候補を破って当選しました。リンカーンは、奴隷制廃止論者というより、これ以上の奴隷制の拡大を阻止するという立場でしたが、奴隷制存続派は、選挙結果を受け入れず、サウスカロライナ・ミシシッピ・フロリダ・ジョージアなどの南部諸州が連邦を脱退。61年2月に新国家「アメリカ連合国」の結成を宣言しました。

     3月、リンカーンは大統領就任演説を行い、「いかなる州も合法的に連邦から脱退することは出来ない」と、連邦統一を最優先に訴えましたが、4月には南北戦争(1861~65年)が勃発します。

    • 戦場だったゲティスバーグの平原に置かれた古い大砲
      戦場だったゲティスバーグの平原に置かれた古い大砲

     北部は、人口や工業力、資源、輸送力、食料生産などで南部にまさっていました。しかし北部軍は、リー将軍ら伝統的に優秀な軍人を抱える南部軍の「国土防衛戦」にてこずります。

     イギリス政府が南部独立承認に傾くなか、リンカーンは63年1月、南部占領地域の奴隷解放宣言を発して内外の世論の流れを変えます。北軍はゲティスバーグの戦いで勝利したあと優位に立ち、65年4月、南軍は降伏、アメリカ連合国は消滅しました。

     この間の63年11月、リンカーンは、両軍の戦死者が合計4万5000人とされるゲティスバーグの戦いの追悼式典で、「人民の人民による人民のための政治」という名演説を行います。

     南北戦争では北軍約36万、南軍約26万人の死者を出しました。日本の遣米使節団一行は、このような未曽有の内戦をとても予測できなかったことでしょう。

     日本開国の先鞭(せんべん)をつけたアメリカは、通商条約を批准してまもなく、対日貿易量が著しく低下し、幕末の日本で英仏のような存在感を示せなくなります。これは南北戦争のためにほかなりませんでした。

     日本の使節団は60年7月、アメリカ艦「ナイアガラ号」に乗ってインド洋経由で帰国の途につきます。訪米を命じた井伊大老の死(同年3月)を彼らが知るのは、10月に香港に寄港した時でした。使節団は日本人として初の世界一周を終え、11月、無事帰還します。

    ヨーロッパにも使節団

    • 遣欧使節団の主要メンバー
      遣欧使節団の主要メンバー

     幕府は1862年1月、今度はヨーロッパに初めて使節団を派遣しました。正使の竹内(たけのうち)下野守(しもつけのかみ)保徳(やすのり)以下、総勢36人。その使命は、日米通商条約で約束した兵庫・新潟・江戸・大坂の開市開港の最大限延期を、ヨーロッパ諸国に要請し、その承認を得ることでした。

     福地源一郎(桜痴(おうち))、松木弘安(寺島宗則)、福沢諭吉、森山多吉郎(ロンドンで合流)ら洋学者出身の通訳・翻訳官が参加しました。

     58年の通商条約の締結によって、59年から横浜(神奈川)・長崎・箱館の3港で貿易が始まりました。日本からは生糸、茶、蚕卵紙などを主に輸出し、綿・毛織物、砂糖、艦船、武器類が主な輸入品でした。

     貿易は大幅な輸出超過になり、そのために国内の供給不足を招いて物価が騰貴。武士や庶民は生活難に陥り、それが攘夷運動やテロの引き金になっていました。さらに4か所の開市開港の時期も切迫し、関係国からは約束履行のプレッシャーがかかっていました。

     そこで幕府は、開市開港の「延期」によって貿易量を抑え、攘夷テロにもブレーキをかけようとしたのです。

     イギリス公使のオールコックは、アメリカと同じくヨーロッパの締約国にも日本が全権使節を派遣するように勧めました。「幕府をアメリカ依存から全面的にイギリス依存に転じさせようという深謀遠慮も働いていた」(芳賀徹『大君の使節――幕末日本人の西欧体験』(中公新書)とされます。

     竹内使節団に対しては、西欧各国の近代的諸制度の調査とともに、樺太における日露国境の画定という任務も与えられました。

     一行は、イギリスから提供されたフリゲート艦で、江戸から香港―シンガポール―セイロン島―アデン―スエズをたどります。つづいて汽車でカイロ経由アレキサンドリアに出たあと、イギリス艦でマルタ島からマルセーユに向かい、最初の訪問国・フランスに入ります。

    ナポレオン3世のフランス

    • ナポレオン3世
      ナポレオン3世

     フランスのナポレオン3世の在位は1852~70年ですから、使節団の訪問は在位半ばの頃にあたります。ナポレオン3世は、産業振興やパリの都市改造に力を入れていて、62年4月、パリ入りした一行は、壮麗な装いのパリの町並みに圧倒されます。

     使節団は、皇帝のナポレオン3世に拝謁(はいえつ)しました。竹内らは狩衣、烏帽子(えぼし)の古式にのっとった装いで馬車に乗り込み、ホテル前の広場には、東洋からの珍客見たさに数万の人々が集まりました。

     ナポレオン3世には、英雄ナポレオン1世のイメージも手伝って、使節団一同、圧倒されたようです。ですからその8年後に帝政が崩壊しようとは、誰も想像できませんでした。

     ナポレオン3世は、資本家と労働者、農民の各勢力のバランスの上に乗って政権を運営していました。そして国民の人気を維持するため、ロシアとのクリミア戦争、清国との第2次アヘン戦争など対外戦争を繰り返していました。

     彼は59年、クリミア戦争をともに戦ったサルデーニャ王国の首相と会談。王国によるイタリア統一戦争を支援する代わりに、ニースなどの割譲を受けるとの密約を交わし、オーストリアと開戦しました。戦いはフランス・サルデーニャ連合軍が勝利しますが、イタリア統一を警戒した彼は、オーストリアと単独講和します。

     しかし60年、イタリア統一をめざしで結成された「青年イタリア」のガリバルディ率いる義勇兵が、シチリア島に上陸してイタリア半島南部を占領。ガルバルディから占領地を譲り受け、イタリアの大部分を支配下に置いたサルデーニャ国王は61年3月、イタリア王国の成立を宣言しました。

     他方、58年、ナポレオン3世は、ベトナムにも侵攻し、フランス領インドシナ(現在のベトナム、ラオス、カンボジア)成立への端緒をつくり、61年にはメキシコに出兵しますが、これは失敗します。

     また、極東市場にも目をつけ、64年、公使・ロッシュを日本に送り込みます。ロッシュは、薩摩藩などとの提携に動くイギリスに対抗して幕府に接近、軍の近代化や製鉄所の建設などに協力して親密な関係を築くようになります。

    日本料理のおもてなし

    • オランダ滞在中の遣欧使節のメンバー
      オランダ滞在中の遣欧使節のメンバー

     さて、開港延期をめぐる遣欧団の対仏交渉は進まず、一行は62年4月、イギリスに渡ります。ロンドンでは第4回万国博覧会が開かれていました。

     オールコック公使が日本からイギリス本国に帰国して交渉にあたり、その努力もあって62年6月、兵庫・新潟の開港、江戸・大坂の開市を63年1月から5年間延期することで合意し、「ロンドン覚書」が調印されました。最強国であるイギリスとの交渉妥結を突破口に、他国との開港延期交渉の締結が可能になります。

     このあと、一行はオランダ、プロイセン、ロシア、ポルトガルの順で各国を訪問します。

     プロイセンでは61年にヴィルヘルム1世が即位してドイツ統一に乗り出していました。62年9月にはビスマルク(1815~98年)が首相に就任し、軍備拡張政策(鉄血政策)を宣言しています。使節一行がベルリン入りしたのは、その直前の62年7月のことで、同月20日にはヴィルヘルム1世に謁見しました。

     翌8月、使節団は、ロシア帝国の首都ペテルブルクに到着しました。ロシアはアレクサンドル2世の治世でした。

    • 長くロシア帝国の首都だったペテルブルク
      長くロシア帝国の首都だったペテルブルク

     「罪と罰」などの作品で知られる作家のドストエフスキーは、この年62年6月からベルリン、ロンドン、パリなどを旅行し、8月末にペテルブルクに帰っていますが、同じ時期に歴訪中の日本の使節団について書き残したものはないそうです。

     日露関係では、59年8月に東シベリア総督のムラビヨフが軍艦を率いて来航した際、ロシア士官・水夫が攘夷派によって襲われ、2人が死亡する事件がありました。

     また、61年3月には、ロシア軍艦が海軍基地の設置を目的に、日本海要衝の地・対馬に来航し、土地の租借を要求しました。幕府は、ロシアの行動に反発するイギリスのオールコック公使らと協議し、イギリス東洋艦隊の協力を得て退去を要求。ロシア艦は9月、対馬を去りました(対馬事件)。

     遣欧使節団の仕事は、日露和親条約やムラビヨフ来航時にも決着のつかなかった樺太の国境画定問題でした。日本側は「北緯50度」を日露の境界とするよう要求しましたが、結局、折り合うことはできませんでした。

     ロシア滞在中、一行を驚かせる出来事がありました。宿泊した迎賓館で何と箱枕、白木のハシで日本料理というすべて日本流の「おもてなし」を受けたのです。プチャーチン来日の際に知り合ったロシア人通訳の手引きで密出国した橘耕斎――ロシア名はウラジミール・ヤマートフ――といわれる日本人が準備したものでした。だが、ヤマートフは一行の前にはまったく姿を現しませんでした。その後、彼は明治になってペテルブルグ大学の日本語講師などを務めたあと、帰国したということです。

     使節団はベルリン、パリなどを再訪したあと、ポルトガルのリスボア(リスボン)を訪問して国王に拝謁。62年10月にフランス軍艦でポルトガルを離れ、63年1月、1年ぶりに横浜に帰りました。

    ※次回は来月18日の予定です。

    【主な参考・引用文献】

    ▽宮永孝『幕末遣欧使節団』(講談社学術文庫)▽同『万延元年の遣米使節団』(同)▽小西四郎『開国と攘夷』(中公文庫)▽高梨健吉『文明開化の英語』(同)▽池田清『日本の海軍』(朝日ソノラマ)▽『日本の名著33 福沢諭吉』(中央公論社)▽小泉信三『福沢諭吉』(岩波新書)▽清水博編『アメリカ史』(山川出版社)▽ビーアド『新版アメリカ合衆国史』(松本重治ら訳、岩波書店)▽出口治明『「全世界史」講義』(新潮社)▽高校歴史教科書『詳説世界史B』(山川出版社)

     筆者の浅海伸夫氏による講座「もう一度学ぶ『昭和時代』」は、次のテーマを「敗戦まで その検証」とし、1月から3月まで計5回にわたり、よみうりカルチャー荻窪(東京都杉並区)で開かれる(途中受講も可能)。読売新聞の連載「昭和時代」の紙面をテキストに「昭和戦争」を振り返る。詳しくはこちら

    • 『昭和時代 一九八〇年代』(読売新聞昭和時代プロジェクト、中央公論新社)
      『昭和時代 一九八〇年代』(読売新聞昭和時代プロジェクト、中央公論新社)


    • 『昭和時代 敗戦・占領・独立』(読売新聞昭和時代プロジェクト、中央公論新社)
      『昭和時代 敗戦・占領・独立』(読売新聞昭和時代プロジェクト、中央公論新社)


    • 『昭和時代 戦前・戦中期』(読売新聞昭和時代プロジェクト、中央公論新社)
      『昭和時代 戦前・戦中期』(読売新聞昭和時代プロジェクト、中央公論新社)


    • 『昭和時代 戦後転換期』(読売新聞昭和時代プロジェクト、中央公論新社)
      『昭和時代 戦後転換期』(読売新聞昭和時代プロジェクト、中央公論新社)


    • 『昭和時代 三十年代』(読売新聞昭和時代プロジェクト、中央公論新社)
      『昭和時代 三十年代』(読売新聞昭和時代プロジェクト、中央公論新社)


    2016年12月14日 05時20分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
    プロフィル
    浅海 伸夫 (あさうみ・のぶお
    1982年から18年間、読売新聞の政治部記者。その間に政治コラム「まつりごと考」連載。世論調査部長、解説部長を経て論説副委員長。読売新聞戦争責任検証委員会の責任者、長期連載「昭和時代」プロジェクトチームの代表をつとめた。現在は調査研究本部主任研究員。
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