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    世界史と日本史を融合した新しい近現代史を物語風に紹介します。

    <幕末の動乱と明治維新>第4回~俊秀たちの留学ラッシュ

    幕府使節団の外国派遣

     勢威は衰えたとはいえ、日本を対外的に代表していた徳川幕府は、外交案件処理のためにも海外派遣をつづけます。

     1回目のアメリカ、2回目のヨーロッパに次ぐ3回目は、池田筑後守(ちくごのかみ)長発(ながおき)をトップとする使節団でした。総勢34人が1864年2月、開港した横浜の「鎖港」を目的に、フランスに向かいました。

     「鎖港」とは、条約の破棄が難しい中で、せめて最大の貿易港である横浜の「閉鎖」を実現させるというアイデアでした。とはいえ、締結したばかりの条約の重大変更が簡単に認められるはずもありません。

     それでも幕府が一行を派遣したのは、鎖港を求める朝廷や尊攘派の圧力をかわすためでした。案の定、鎖港交渉は6月には決裂しました。フランス側と談判した池田は攘夷論者でしたが、帰国後、一転して大胆な開国論を建議して物議を醸します。

     65年、横須賀製鉄所の設立準備のため、外国奉行の柴田剛中(たけなか)らをフランスとイギリスに派遣。66年には、懸案の樺太国境画定交渉のため、ロシアに箱館(函館)奉行の小出大和守秀実らを送っています。67年には、パリ万国博覧会に第15代将軍慶喜の弟・昭武(あきたけ)一行をフランスに派遣します。

     これら幕府の使節団は、一様に羽織・(はかま)、腰に大小の太刀を差したサムライ姿で、欧米人の好奇の目にさらされつつ、「夷狄(いてき)」の地をめぐりました。彼らは異文化との接触を通じて、産業革命を経た欧米列強の先進技術はもとより、政治や資本主義経済・社会の仕組みも含めて「西洋」の実情を吸収してくるのです。

    福沢諭吉の『西洋事情』

    • アメリカで撮影された写真屋の少女と写る福沢諭吉(慶應義塾福澤研究センター提供)
      アメリカで撮影された写真屋の少女と写る福沢諭吉(慶應義塾福澤研究センター提供)

     こうした中、第1回、第2回の使節団のいずれにも参加したのが福沢諭吉(1834~1901年)です。

     福沢は、咸臨丸で訪問した1回目のアメリカでは、サンフランシスコとその周辺に50日余滞在しました。当時、捕鯨業が盛んな小都市は、にわかのゴールドラッシュでにぎわっていました。

     福沢は、あるアメリカ人に、初代大統領ワシントンの子孫は「どうなっているか」と尋ねてみました。すると「知らない」と、何とも素っ気ない返事です。福沢には、源頼朝や徳川家康など世襲の権力のことが頭にあるものですから、「これは不思議だ」と感じます。

     「私のために門閥制度は親の(かたき)でござる」(『福翁自伝』)と後に書く福沢は、この時、アメリカのデモクラシーを感得したのではないでしょうか。

     福沢の外国語修業の始まりはオランダ語でした。ところが、開港直後の横浜を見物した際、オランダ語が少しも通じず、店の看板すら読めないことに愕然(がくぜん)とします。彼はいち早く「英語」に転向し、蘭英対訳の辞書を頼りに独習を始めました。

     福沢は、アメリカで中浜(ジョン)万次郎と一緒にウェブスターの「英語辞書」を1冊ずつ購入し、「天地無上の宝を得たるが(ごと)し」と有頂天になります。また、写真屋の娘さんに声をかけ、一緒にカメラに収まった写真が今に伝えられています(冒頭、左上の写真)。

     2回目のヨーロッパ派遣では、福沢は「何でも見てやろう」精神を遺憾なく発揮します。パリで「懐中手帳」を購入し、見たこと聞いたことのすべてを記入することにしました。各国でさまざまな施設を訪ね、「百聞は一見にしかず」とばかり熱心に見学・取材を続けました。福沢は帰国後、これらの欧米諸国での見聞と、外遊中に手に入れた書籍をもとに、3年余りを費やして本にします。それが1866(慶応2)年から順次刊行された『西洋事情』(全10冊)でした。

    「文明の政治」の要点

    • 「独立自尊迎新世紀」と書かれた福沢諭吉の遺墨(慶應義塾福澤研究センター提供)
      「独立自尊迎新世紀」と書かれた福沢諭吉の遺墨(慶應義塾福澤研究センター提供)

     その初編は、ヨーロッパの政治、税財政(収税法、国債、紙幣)、外交、兵制、教育と学校制度、新聞紙、図書館、病院、身体障害者施設、博物館、博覧会、さらに蒸気機関、汽車、汽船、電信、ガス灯など多岐にわたって書かれています。さらに後続のシリーズではアメリカとイギリスを中心に訪問国の歴史や政治制度、陸海軍などについて詳述しています。 

     初編のなかで福沢は、「文明の政治」について<6か条の要訣(ようけつ)(最も肝心なところ)>を挙げています。

     その第1条は<自主任意>で、「士農工商の区別を立てず、門閥を論ずることなく、上下貴賤(きせん)おのおのその所を得て、(ごう)も他人の自由を妨げず」とあります。第2条は<信教>で、「人々の帰依する宗旨を奉じて政府よりその妨げをなさざる」ことです。

     第3条は科学振興、第4条は学校教育、そして第5条は<保任安穏(あんのん)>で、これは「政治一定して、号令必ず信にして欺偽(ぎぎ)なく、人々国法を頼み安んじて産業を営む」ことだとしています。第6条は「人民飢寒の(うれ)いなからしむること」。今で言う医療・福祉の充実ということでしょう。

     『西洋事情』は20~25万部も売れるベストセラーになりました。それだけ欧米への関心が高かったことの証左でしょう。幕府の要人、とくに時の将軍・徳川慶喜もこれを読んでいたといわれます。

     とはいっても、福沢も良いことばかりではありませんでした。洋学者・洋行者として攘夷の標的にされてしまったのです。福沢は、用心に用心を重ね、<およそ文久年間から明治五、六年まで十三、四年の間というものは、夜分外出したことがない>(『福翁自伝』)という生活を余儀なくされました。

    「天はみずから助くるものを助く」

    • 中村正直
      中村正直
    • サミュエル・スマイルズ
      サミュエル・スマイルズ

     徳川幕府は、使節団とは別に、優秀な人材を留学生として海外に派遣しました。

     1862年、オランダに留学したのが西(あまね)、津田真道(まみち)、榎本武揚(たけあき)ら5人でした。

     西と津田は、ライデン大学で自然法・万国公法・国法・経済学・統計学を学び、帰国すると、開成所(幕府設立の洋学研究・教育機関)教授として多くの書物を著します。西は68(明治元)年、訳本『万国公法』を刊行しました。2人は73年、福沢諭吉や加藤弘之らとともに「明六社(めいろくしゃ)」を結成し、「明六雑誌」を発行。哲学・政治などの論考を通じて近代思想の普及に努めることになります。

     長崎の海軍伝習所の2期生だった榎本は、ハーグで航海術・砲術・造船術などを学び、幕府がオランダに注文した軍艦「開陽丸」の竣工(しゅんこう)をまって67年、同艦に乗って帰国しました。同時に「海律全書」という海事国際法の本も持ち帰ります。

     榎本が帰国して半年後、大政奉還―王政復古のクーデターにより徳川幕府が滅亡します。海軍副総裁だった榎本は、「開陽丸」など旧幕府軍艦を率いて北に進路をとり、箱館の五稜郭(ごりょうかく)にたてこもって箱館戦争を戦うことになります。

     65年に幕府は市川文吉ら6人の青年をロシアに派遣しました。翌66年には、イギリスに外山正一(とやままさかず)(のち東大総長)ら14人が派遣されます。その中で少年たちの監督者として同行を命じられたのが、中村正直(まさなお)(1832~91年)でした。

     中村は帰国すると、友人のイギリス人から贈られた、著述家サミュエル・スマイルズ(1812~1904年)の『セルフ・ヘルプ(自助論)』を翻訳し、71年に『西国立志編(さいごくりっしへん)』として刊行しました。欧米で立志伝中の300人以上の人物を紹介したものです。

     同書第1編はこんなキーワードで始まります。

    <天はみずから助くるものを助く>

     この自助の精神の大切さを知る人が多ければ、その国は元気充実する、と説いた同書は、100万部以上と言われるベストセラーになり、福沢諭吉の『学問のすゝめ』と並んで明治の青年たちを鼓舞しました。

    反幕雄藩も留学生

    • 森有礼
      森有礼

     いわゆる幕臣だけでなく、反幕雄藩の藩士たちも次々と海を渡りました。

     薩摩藩は65年、グラバー商会所有の蒸汽帆船で19人をひそかにイギリスに派遣しました。メンバーは13歳から33歳までと幅広く、松木弘安(のち寺島宗則)、五代友厚(ごだいともあつ)森有礼(もりありのり)らが含まれていました。

     松木と五代は63年の薩英戦争のあと、あえて自発的に捕虜になってイギリスを知ろうとしました。人材育成をねらいとした留学生の英国派遣計画は、64年に五代が藩主に提案し、採用されたものでした。

     留学生たちは全員、「変名」を使ってロンドン入りし、同じように密航留学中の長州藩士・野村弥吉ら3人に会います(同じ長州藩留学組の伊藤俊輔と井上聞多は、英仏米蘭4国艦隊下関砲撃事件のため、すでに帰国していました)。

     この野村は、後年、「日本の鉄道の父」とよばれる井上勝その人です。ロンドン大学で5年間、鉱山と鉄道を学び、帰国後、明治政府有数の技術官僚として東海道線(新橋―神戸間)の全線開通を推進しました。

     また、薩摩藩から送り出された森有礼(1847~89年)が、ロンドンに到着して3か月後、兄に宛てた手紙は、彼が西洋文明から受けた衝撃の大きさをあらわしています。

     <人間一度は宇宙を遊観(ゆうかん)せずんば、十分の大業()(がた)し……このたび渡海以来、魂魄(こんぱく)大いに変化して、自分ながら驚くくらいに御座候。……始終心を用い汚魂(おこん)を洗濯(つかまつ)り居り申し候>  

     森の「汚魂の洗濯」は徹底した自己変革という意味でしょうか。それは土佐藩の坂本龍馬の言葉、「日本を今一度、せんたく」するという国家改造への志向と響き合うものがあります。

    たった1人の冒険

    • 新島襄
      新島襄

     幕府が66年、海外渡航の禁止を解くまで、日本人の外国行きは命がけでした。それが単独行となるとなおさらです。

     新島襄(にいじまじょう)(1843~90年)の日本脱出は、文字通りのアドベンチャーでした。上州(群馬県)安中藩の江戸屋敷で生まれた新島は、蘭学や英語、航海術などを学ぶとともに、漢訳聖書に接してキリスト教に強くひかれました。

     渡航熱に駆られた新島は、まず箱館に出て、ロシア領事館付司祭のニコライを知り、英語やキリスト教を学びます。64年、アメリカ船で箱館を出発し、上海に着くと別の船に乗り換えます。渡米の願いを聞き入れてくれた船長らに助けられ、新島は香港~マニラ~ケープタウンを経て、1年がかりで米東海岸のボストンに着きました。

     新島はキリスト教の洗礼を受け、67年、マサチューセッツ州の名門・アマースト大学に入学し、日本人として初の学士号をとり、神学校にも進みます。

     新島が帰国したのは、密出国から10年を経た74年のことでした。翌75年には、京都府顧問・山本覚馬(会津藩出身)らの協力をえて京都に同志社英学校(同志社大学の前身)を創設し、翌年、覚馬の妹の八重と結婚することになります。

    【主な参考・引用文献】

    ▽尾佐竹猛『幕末遣外使節物語』(岩波文庫)▽飯田鼎『福沢諭吉―国民国家論の創始者』(中公新書)▽小泉信三『福沢諭吉』(岩波新書)▽『日本の名著33―福沢諭吉』(中央公論社)▽会田倉吉『福沢諭吉』(吉川弘文館)▽角川書店編『日本史探訪22』(角川文庫)▽芳賀徹『大君の使節』(中公新書)▽大淀昇一『技術官僚の政治参画』(同)▽サミュエル・スマイルズ『西国立志編』(講談社学術文庫)▽芳賀徹『明治維新と日本人』(同)▽平川祐弘『西欧の衝撃と日本』(同)▽八木一文『新世界と日本人』(現代教養文庫)

     筆者の浅海伸夫氏による講座「もう一度学ぶ『昭和時代』」は、次のテーマを「敗戦まで その検証」とし、1月から3月まで計5回にわたり、よみうりカルチャー荻窪(東京都杉並区)で開かれる(途中受講も可能)。読売新聞の連載「昭和時代」の紙面をテキストに「昭和戦争」を振り返る。詳しくはこちら






    2017年01月18日 05時20分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
    プロフィル
    浅海 伸夫 (あさうみ・のぶお
    1982年から18年間、読売新聞の政治部記者。その間に政治コラム「まつりごと考」連載。世論調査部長、解説部長を経て論説副委員長。読売新聞戦争責任検証委員会の責任者、長期連載「昭和時代」プロジェクトチームの代表をつとめた。現在は調査研究本部主任研究員。
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