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    世界史と日本史を融合した新しい近現代史を物語風に紹介します。

    <幕末の動乱と明治維新>第6回~飛騰する志士・坂本龍馬

    龍馬、海舟、隆盛

    • 坂本龍馬
      坂本龍馬

     1864年、土佐脱藩の志士・坂本龍馬(1835~67年)は、幕臣・勝海舟(1823~99年)の紹介で、薩摩藩士・西郷隆盛(1827~77年)と会っています。

     そのあと龍馬は、勝に、西郷について「少しくたたけば少しく響き、大きくたたけば大きく響く、もしばかなら大きなばかで、利口なら大きな利口だろう」(『勝海舟語録 氷川(ひかわ)清話(せいわ)』(角川ソフィア文庫)と評したと言われます。

     龍馬が、福井藩主の松平春嶽(しゅんがく)から勝を紹介してもらい、その門下生になったのは62年の秋。後年、勝が「彼(龍馬)はおれを殺しにきた奴だが、なかなか人物さ」と語れば、龍馬は勝を「日本第一の人物」と(たた)え、弟子になったことを誇らしげに手紙に書いています。龍馬は、勝との出会いを契機に「攘夷(じょうい)」派から「開国」派に転じます。

     他方、征長総督参謀の西郷と軍艦奉行の勝が初めて相まみえたのは、64年10月のことです。勝は、「今や国内で争う時ではない。幕府はもはや天下を統一する力がないから、むしろ雄藩の尽力で国政を動かすべし」と言い、賢明な4、5人の大名が協議して政治運営にあたる「共和政治」に言及しました。

     西郷は、勝の弁舌に感服して「実に驚き入り(そうろう)人物」「どれ(だけ)か智略のあるやら知れぬ塩梅(あんばい)に見受け申し候」などとほれ込み、両雄のつきあいが始まります。

     龍馬と海舟と隆盛の3人は、それぞれ盟友関係を結びますが、この幕末史を彩る人物が、天下の形勢を一変させる「回天政局」を引っ張っていくことになります。

    「ニッポンを今一度せんたく」

    • 勝海舟(1860年、渡米時にサンフランシスコで撮影)
      勝海舟(1860年、渡米時にサンフランシスコで撮影)

     龍馬は土佐藩の郷士(ごうし)の次男として生まれました。郷士は、一般的には農村に住んでいる下級武士(下士)を指し、「上士」と比べて差別的な待遇を受けていました。ただ、龍馬の家は豪商であったため、お金には不自由しなかったといわれます。

     ペリーが来航した53年、龍馬は数え年19歳で、江戸の北辰(ほくしん)一刀流、千葉道場で剣術修行中の身でした。そのとき、土佐藩の黒船警備で臨時雇いに加えられましたが、国元への手紙には「その節は異国の首を打ち取り、帰国(つかまつ)るべく候」と記していました。

     この無邪気ともいえる攘夷主義者は、61年になると、武市(たけち)瑞山(ずいざん)(1829~65年)を首領とする「土佐勤王党」に、郷士・中岡慎太郎らとともに参加し、尊皇攘夷運動を始めます。

     武市は、漢詩で「肝胆元より雄大にして、奇機自ら湧出(ゆうしゅつ)す」と、龍馬の奔放さをうたっています。翌62年、龍馬は土佐藩を脱藩しますが、勤王党の同志はそれを「坂龍飛騰(ひとう)(飛びあがること)」と形容しました。

     龍馬は、勝の紹介で開明派の幕臣・大久保忠寛(ただひろ)(1817~88年、号は一翁)の知遇を得ます。勝が設立した神戸海軍操練所をめぐっては、政事総裁職・松平春嶽から資金引き出しに成功するなど、幕府中枢にも食い込みます。また、春嶽の政治ブレーンをしていた、熊本藩士で思想家の横井小楠(しょうなん)(1809~69年)とも知り合いになります。

     このあたり、幕末政治潮流の勘所をおさえ、キーパーソンをかぎ分け、大胆にアプローチして目的を達する龍馬の能力は、端倪(たんげい)すべからざるものがありました。

     63年、姉の乙女あての手紙(文久3年6月)は、龍馬の成長ぶりを示しています。

     龍馬はその中で、直前の下関攘夷戦争で、長州に報復攻撃した外国艦を幕府が修理していると憤り、「神州(日本)をたもつの大本(タイホン)をたて」、幕府の「姦吏(かんり)」(不正を働く役人)は打ち殺し、「日本(ニッポン)を今一度せんたく」するとの決意を明らかにしています。

     幕府のように諸外国の武力行使と干渉を許せば、長州にとどまらず日本存立の危機を招来する、というわけです。

    「天下のため」薩長同盟

    • 亀山社中の跡地に立つ記念館(長崎市)
      亀山社中の跡地に立つ記念館(長崎市)

     65年、龍馬は長崎に「亀山社中」をつくり、海運業を興します。のちの「海援隊」の前身ですが、長州藩が薩摩藩名義で武器を購入した際の仲介役として、この社中はうってつけの存在でした。

     龍馬は中岡慎太郎とともに薩長提携に向け、各地を奔走します。龍馬は薩摩藩に、中岡は長州藩にそれぞれ親近感をもっていました。 

     66年1月、薩摩藩士の黒田清隆が下関を訪問し、長州藩の木戸孝允の上京を求める薩摩藩首脳の意向を伝えました。しかし、木戸は反目してきた薩摩へのわだかまりが消えていません。それを長州藩の高杉晋作、井上(かおる)、そして龍馬が説得にあたりました。

     木戸もようやく重い腰を上げ、2月、京都の薩摩藩邸で、薩摩の小松帯刀(たてわき)、西郷、大久保利通と、薩長首脳会談に臨みました。しかし、一向に話し合いは進まず、木戸は山口に帰ると言い出します。龍馬は「自分が両藩のために努力しているのは薩長のためではない、天下のためだ」と木戸を説き伏せました。

     66年3月7日に密約された「薩長同盟」(薩長盟約)は6か条からなっています。

     「幕府と長州との戦争」を想定したもので、例えば、開戦の時は「薩摩藩兵2000人ほどを急ぎ東上させ、現在京の兵と合わせ、大阪にも1000人ほどおいて京阪両所を固めること」(第1条)や、長州藩の勝利・敗北・非開戦の場合について、それぞれ主に薩摩藩の役割を定めていました。

     とくに第5条は、一橋・会津・桑名が薩摩の正義の主張を拒むときは決戦するとし、第6条は、長州の冤罪(えんざい)がとけたときは、薩長両藩は「皇国」のために身を砕いて尽力すると明記しています。

     この盟約は、従来、武力倒幕を確認したものと言われてきました。しかし、幕末維新史に詳しい家近良樹氏は著書『江戸幕府崩壊』(講談社学術文庫)で、盟約に言う薩長の「戦う相手」は、「一会桑」を想定しており、幕府本体ではなかったと指摘。薩長両藩ともに、藩内に多数の反対論があり、「藩の軍事力をあげて、幕府本体の打倒に向けて立ち上がることは、絶対にできなかった」と強調しています。

     薩長の盟約は口頭での約束だったため、桂が文書化して龍馬に確認を求め、龍馬が「この内容で間違いない」と裏書きすることによって成立しました。中岡は同盟成立後、「自今以後、天下を(おこ)さん者は必ず薩長両藩なるべし」と、的確な見通しを示していました。

    アーネスト・サトウ

    • アーネスト・サトウ
      アーネスト・サトウ

     薩長同盟は、政局はともより各方面に多大な影響を与えます。

     まず、龍馬の身の上です。薩長同盟成立翌々日未明、京都・伏見の寺田屋に帰った龍馬は、伏見奉行配下の者に襲撃されます。のちに妻となる「お(りょう)」の機転によってピストルで応戦、負傷しながらも裏口から(かろ)うじて逃げました。

     薩長同盟成立の数か月後、英公使・パークスの下にいた通訳官のアーネスト・サトウ(1843~1929年)が、横浜の英字週刊紙に書いた「英国策論」が、小冊子になって大阪や京都の書店で売られます。

     それによりますと、日本の政治体制をみると、これまで「大君(タイクーン)(将軍)」が日本の君主と言ってきたのは「偽」であり、いま、大君が日本の主宰者と言っているものはいないと言い切っています。サトウは後年、回想録で「大君を本来の地位に引き下げて、これを大領主の一人となし、天皇(ミカド)を元首とする諸大名の連合体が大君に代わって支配的勢力となるべきである」(アーネスト・サトウ著『一外交官の見た明治維新』(坂田精一訳、岩波文庫)というのが私の提案だったと説明しています。

     サトウの非公式な論文とされますが、幕府の権威失墜を強く印象づけるものでした。パークス英公使は7月下旬、薩摩藩を訪問して西郷らと懇談し、天皇の下での雄藩連合体制づくりの必要性で一致したといわれています。

     サトウは10月、大坂で西郷と会談した際、フランスと幕府との提携に言及しながら、イギリスとして薩摩を支援する意向を示しました。しかし、西郷は「日本の政体変革は、我々日本人が力を尽くすべきことだ」と答え、外国勢力とは一線を画す態度を示しました。

    長州に幕府が敗北

    • 街中にそびえる小倉城(北九州市小倉北区で)
      街中にそびえる小倉城(北九州市小倉北区で)

     66年7月18日、幕府連合軍は長州の周防(すおう)大島(おおしま)を砲撃し、戦争が始まりました。薩摩、越前、宇和島、佐賀など有力藩は出兵を拒否し、戦いはたった2か月で、長州の勝利に終わりました。

     勝因は、龍馬と薩摩藩の尽力によって入手した新式銃などの威力と、大村益次郎の戦術と、よく訓練された軍の士気の高さなどが指摘されています。この戦争で龍馬は長州の軍艦に乗って幕府攻撃に参加しました。

     高杉は最大の激戦地の九州・小倉城攻撃の勝利を目前にして喀血(かっけつ)し、67年5月に死亡します。数え年29歳でした。

     晋作は、臨終の床で筆をとり<おもしろきこともなき世をおもしろく>とまで書きました。傍らで歌人の野村望東尼(ぼうとうに)が、その下の句を<すみなすものは心なりけり>と続けると、「面白いのう」と言って、息を引き取ったと伝えられます。

     龍馬もこの年12月に暗殺されてしまいますが、晋作と龍馬の2人が今日なお、幕末のスターであり続けるのは、彗星(すいせい)のように現れ、独創的な発想で大業達成と自己実現に努めて早世してしまう、そんな「革命児」的な生き方のゆえかもしれません。

    将軍・天皇の死去

     少し時計の針を戻して、66年8月、大阪城中で将軍家茂が病死します。将軍在職8年余、和宮(かずのみや)と結婚してからわずか4年半、享年21歳でした。

     将軍の後継には、内政・外交にも通じた実力者である徳川慶喜(1837~1913年)のほかに適格者は見あたりませんでした。ところが、慶喜は1か月後、徳川宗家は相続したものの、将軍職には就こうとしませんでした。

     慶喜は後年、この頃すでに「政権奉還の志をもっていた」と語っていますが、実際のところ、悪評が残る徳川斉昭(前水戸藩主)の息子であることへの幕府内の反発や、かつて自分を将軍に推してくれた有力諸侯の「慶喜離れ」も気になっていたのではないか、と指摘されています。

     それでも、慶喜は、天皇の命を受け、自ら長州征討に(げき)を飛ばします。しかし、幕府の拠点である小倉城落城を知ると あっさりと出陣を取りやめます。幕府は休戦交渉に勝海舟を派遣して交戦を中止します。この慶喜の変わり身のはやさに朝廷は強い不満を示す一方、「一会桑」にもヒビが入ることになりました。

     将軍の死と幕長戦争の敗北で痛手を受けた幕府の足元を見透かすように、反幕府勢力は、政局転換をねらって活動を活発化させます。大久保や西郷らは、実力将軍・慶喜の出現を阻止したいと考え、大久保は、京都郊外に隠棲(いんせい)していた岩倉具視(ともみ)(1825~83年)との関係を緊密化させます。これ以降、岩倉は朝廷内に支持勢力を広げ、幕末政局に頭角を現すことになります。

     慶喜は67年1月10日、征夷大将軍の座につき、大久保ら幕府壊滅派を失望させます。その20日後、孝明天皇が崩御しました。攘夷論者でしたが、倒幕論者ではなかった天皇の死は、政局を揺さぶります。これには毒殺説があって、岩倉具視がかかわっていたという説がかつては有力でした。しかし、今日では痘瘡(とうそう)による病死であるとみられています。

     2月13日、睦仁(むつひと)親王の践祚(せんそ)の儀がおこなわれ、新天皇が誕生します。のちの明治天皇です。満14歳の幼い帝でした。

    「ええじゃないか」の乱舞

    • 「ええじゃないか」の騒動を描いた絵画
      「ええじゃないか」の騒動を描いた絵画

     日本国内は58年に開港してから10年間、猛烈なインフレーションに見舞われました。

     その原因としては、外国との金銀比価の違いから金貨が流出し、改鋳(かいちゅう)によって安っぽい小判が増えてしまったこと、各藩が財政難から藩札を増し刷りしたこと、農産物価格の上昇などがありました。このため、実質賃金が目減りした職人や労働者たちが米屋などを襲う「打ち(こわ)し」や、凶作で小作料に苦しみ、食べられなくなった百姓たちの一揆が続発しました。(中村隆英『明治大正史(上)』(東京大学出版会)

     大坂では、幕府の長州征討に動員された兵士たちの食糧需要の高まりから、米不足が生じて米価が急騰、打ち毀しが発生します。まもなく江戸でも打ち毀しが起き、その後、川越や秩父地方にも波及し、男たちは「世直し」を叫びました。そして、朝敵の長州征討の終わりが伝えられると、大坂では、多数の民衆が「ええじゃないか」と声を出して踊り始めました。

     この「ええじゃないか」は、お陰参り(伊勢神宮への集団参拝)の流行と関連があり、伊勢神宮などの神々のお札が降ったとされたことをきっかけに、人々が各地で踊り狂いました。まず東海地方に始まり四国や東北にまで広がりましたが、幕府に対する民心の離反を象徴する現象でした。

    【主な参考・引用文献】

    ▽マリアス・ジャンセン『坂本龍馬と明治維新』(時事通信社)▽飛鳥井雅道『坂本龍馬』(講談社学術文庫)▽池田敬正『坂本龍馬』(中公新書)▽佐々木克『幕末史』(ちくま新書)▽宮地佐一郎『龍馬の手紙』(講談社学術文庫)▽磯田道史『龍馬史』(文春文庫)▽小西四郎『開国と攘夷』(中公文庫)▽石井孝『明治維新の舞台裏』岩波新書)▽奈良本辰也『高杉晋作』(中公新書)▽芳賀徹『明治維新と日本人』(講談社学術文庫)▽『近代日本総合年表』(岩波書店)

     筆者の浅海伸夫氏による講座「もう一度学ぶ『昭和時代』」は、次のテーマを「敗戦まで その検証」とし、1月から3月まで計5回にわたり、よみうりカルチャー荻窪(東京都杉並区)で開かれる(途中受講も可能)。読売新聞の連載「昭和時代」の紙面をテキストに「昭和戦争」を振り返る。詳しくはこちら

    • 『昭和時代 一九八〇年代』(読売新聞昭和時代プロジェクト、中央公論新社)
      『昭和時代 一九八〇年代』(読売新聞昭和時代プロジェクト、中央公論新社)


    • 『昭和時代 敗戦・占領・独立』(読売新聞昭和時代プロジェクト、中央公論新社)
      『昭和時代 敗戦・占領・独立』(読売新聞昭和時代プロジェクト、中央公論新社)


    • 『昭和時代 戦前・戦中期』(読売新聞昭和時代プロジェクト、中央公論新社)
      『昭和時代 戦前・戦中期』(読売新聞昭和時代プロジェクト、中央公論新社)


    • 『昭和時代 戦後転換期』(読売新聞昭和時代プロジェクト、中央公論新社)
      『昭和時代 戦後転換期』(読売新聞昭和時代プロジェクト、中央公論新社)


    • 『昭和時代 三十年代』(読売新聞昭和時代プロジェクト、中央公論新社)
      『昭和時代 三十年代』(読売新聞昭和時代プロジェクト、中央公論新社)


    2017年02月15日 05時20分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
    プロフィル
    浅海 伸夫 (あさうみ・のぶお
    1982年から18年間、読売新聞の政治部記者。その間に政治コラム「まつりごと考」連載。世論調査部長、解説部長を経て論説副委員長。読売新聞戦争責任検証委員会の責任者、長期連載「昭和時代」プロジェクトチームの代表をつとめた。現在は調査研究本部主任研究員。
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