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    世界史と日本史を融合した新しい近現代史を物語風に紹介します。

    <幕末の動乱と明治維新>第8回~クーデターで政権樹立

    倒幕の密勅

    • 徳川慶喜
      徳川慶喜

     徳川慶喜が大政奉還を朝廷に申し出た1867年11月9日、「倒幕の密勅」が出されていました。これは公家の岩倉具視(ともみ)らが画策した、「賊臣慶喜」を「殄戮(てんりく )」(殺害)せよと命じる詔書です。朝廷の会議も天皇の裁可も得ていない「偽勅」でした。

     天皇側近である議奏(ぎそう)(宮中の業務を統括する職務)の正親町(おおぎまち)三条(さんじょう)実愛(さねなる)から、長州藩の広沢真臣(さねおみ)と薩摩藩の大久保利通に手渡されました。京都出兵をためらっていた薩摩藩主と重臣たちに出兵を促す狙いがあったとされます。

     朝廷は大政奉還を受けながら、これまで通り、慶喜に「庶政を一切委任」します。慶喜は、19日には征夷大将軍の辞表も提出しました。しかし、混乱をきたした朝廷は、諸侯が上京するまで待つよう指示するだけです。諸侯会議はなかなか開かれず、政権に空白が生じます。

     一方、幕府内では「政権返上」の取り消し要求が噴出し、会津・桑名など佐幕諸藩は、薩摩藩への反感を募らせます。

    読み誤った薩摩藩

     薩摩藩は、慶喜の出方を読み誤りました。

     坂本龍馬は、慶喜の大政奉還に「よくも断じ(たま)へるものかな。余は誓って(この)公の為に一命を捨てん」(渋沢栄一著『徳川慶喜公伝』東洋文庫)と語ったと伝えられています。慶喜に対する見方が好転し、諸侯会議で指導力を回復する可能性も出てきました。龍馬は、新政府のために八か条からなる「新政府綱領案」をまとめあげます。

     ところが12月10日、龍馬は、中岡慎太郎とともに京都河原町の近江屋にいたところを襲撃されて絶命。中岡も2日後に死亡します。龍馬数え年33歳、中岡30歳。犯人たちは「ええじゃないか」の踊りに紛れて逃走しました。

     当初は新選組の犯行とみられましたが、京都守護職配下の見廻組(みまわりぐみ)の仕業であることがわかりました。明治維新後、新政府に捕まった今井信郎によると、その理由は「伏見において同心3名を銃撃し、逃走したる問罪(もんざい)のため」ということでした。

     その5日前の龍馬の手紙がつい最近、見つかりました。越前藩重臣の中根雪江に宛てたもので、同藩士・三岡(みつおか)八郎(由利公正(ゆりきみまさ))を新政府の財政担当者として出仕させてほしい、と求める内容です。三岡の上京が1日先になれば「新国家」の財政成立も1日先になってしまう、といった懇請ぶりで、龍馬は新政府に「国内有能の人士」を招くため、力を尽くしていたのです。

    • 暗殺の5日前に書かれた龍馬の手紙
      暗殺の5日前に書かれた龍馬の手紙

    「辞官納地」を命令

    • 「王政復古」(島田墨仙、聖徳記念絵画館所蔵)
      「王政復古」(島田墨仙、聖徳記念絵画館所蔵)

     逆風にさらされた薩長両藩は、倒幕へ態勢の立て直しを急ぎます。

     西郷と大久保は、長州藩の品川弥二郎らと協議し、68年1月2日にクーデターによって政権を転覆させることを決定します。

     土佐藩の後藤の抱き込みをはかり、クーデターの手順・段取りを整えます。慶喜はその動きを事前に知らされましたが、反撃に出ようとはしませんでした。

     2日夜、岩倉は自邸に薩摩、芸州、土佐、越前、尾張の計5藩の重臣を招き、政変によって新政府を発足させる計画を告げ、協力を求めました。同日深夜の朝議で、長州藩主父子や公家の三条実美らの官位復活・入京許可、岩倉具視らの蟄居(ちっきょ)解除などが決まりました。

     翌3日午前、西郷隆盛指揮のもと、5藩の兵士が御所のすべての門を固めます。朝廷に復帰を許されたばかりの岩倉が、「王政復古の大号令」案をもって参内します。岩倉は、中山忠能(ただやす)(明治天皇の外祖父)、正親町三条、中御門(なかみかど)経之(つねゆき)とともに明治天皇に上奏。天皇は小御所に集まった重臣や公家を前に、王政復古を宣しました。大きな混乱はなく、ここに新政府が樹立されました。

     同日夜、小御所で開かれた新政府初の会議では、土佐の山内容堂が、この会議に慶喜を参加させるべきだと主張し、「二三の公卿、幼沖(ようちゅう)の天子を擁し、陰険の挙を行はんとし、全く慶喜の功を没せんとするは何ぞや」と大声で抗議しました。

     これに対して、岩倉が「今日の挙は一に皆、聖断に()でざるはなし、何ぞ、その言を慎まざるや」と反駁(はんばく)。さらに「(慶喜に)反省自責の念があらば、速やかに官位を辞退し、土地人民を還納」すべきなのに、「今や政権の空名をのみ奉還し、土地人民の実権は擁し」たままである、と責めたてました(宮内庁編『明治天皇紀(第一)』(吉川弘文館)

     会議では、容堂と春嶽のいわゆる公議政体論者と、慶喜追放を譲らない岩倉、大久保の倒幕派が対立しました。休憩に入ると、会議には出ていなかった西郷は、「(ただ)、これあるのみ」と短刀を示し、強行突破の姿勢を示したと言われています。

     結局、会議は、慶喜に対し、内大臣の辞職と領地・領民の返還という「辞官納地」を命ずることに決しました。

    王政復古の大号令

    • 岩倉具視
      岩倉具視

     「王政復古の大号令」には何が書かれていたのでしょうか。難しい文章ですが、全文を読んでみましょう。

     <徳川内府(内大臣慶喜)、前より御委任せし大政返上、将軍職辞退の両条、今般、断然、聞こしめされ(そうろう)(そもそも)癸丑(きちゅう)(1853年・嘉永6年の黒船来航)以来、未曾有(みぞう)の国難、先帝(孝明天皇)頻年(ひんねん)(毎年)宸襟(しんきん)(天子の心)を悩ませられ候御次第、衆庶(しゅうしょ)(庶民)の知るところに候

     これにより叡慮(えいりょ)(天子のお考え)を決せられ、王政復古、国威挽回(こくいばんかい)御基(おんもとい)立てさせられ候(あいだ)自今(じこん)(今後)、摂関幕府等廃絶、即今(そっこん)(ただいま)()ず仮に総裁、議定(ぎじょう)、参与の三職を置かれ、万機(天下の政治)行わせらるべく、諸事、神武(じんむ)創業の(はじめ)(もと)づき、縉紳(しんしん)(公家)、武弁(ぶべん)(武家)、堂上(とうしょう)(昇殿を許された五位以上の人)、地下(じげ)(六位以下の人)の別なく、至当の公議を(つく)し、天下と休戚(きゅうせき)(喜びと悲しみ)を同じく遊ばさるべき叡念に付き、(おのおの)勉励、旧来驕惰(きょうだ)(おごりおこたる)の汚習を洗い、尽忠報国(じんちゅうほうこく)(忠義を尽くし国に報いること)の誠をもって奉公致すべく候事>

    摂関・幕府の廃絶

     このように王政復古の大号令は、まず、慶喜による大政奉還を受け入れたうえで、ペリー来航以来の「国難」解決のため、摂関も幕府も廃絶すると明言しています。これにより「摂政」「関白」「征夷大将軍」「議奏」「武家伝奏」(朝廷と幕府の交渉にあたる役職)「国事御用掛」「京都守護職」「京都所司代」などの官職もすべて廃止されることになりました。

     それは、900年以上続いていた摂関制度や、徳川だけでも260年以上にわたる幕府の政治組織を解体するという、徹底的かつ過激な組織改革でした。

     そして新たに「総裁」「議定」「参与」の三職を設置し、ここで「万機」を決するとしました。さらに、朝廷や幕府以前の「神武創業の始」、つまり天皇統治の原点に戻るとし、ここに新政府の正統性を求めて、すべてを一新すると強調したのでした。

     人事も驚くべきものでした。

     総裁には皇族の有栖川宮(ありすがわのみや)熾仁(たるひと)親王、議定には2人の皇族と、公家の中山、正親町三条、中御門と、武家の徳川慶勝(よしかつ)(尾張)、松平春嶽(越前)、浅野茂勲(もちこと)(芸州)、山内容堂(土佐)、島津茂久(もちひさ)(薩摩)ら計10人が就任。参与には大原重徳(しげとみ)、岩倉具視ら5人の公家がつきました。参与はのちに西郷、大久保、木戸、後藤らが任命されます。いわゆる佐幕派は、公家・武家ともに、いっさい排除されていました。

    天皇の位置上昇

    • 孝明天皇
      孝明天皇

     幕末政治の流動化は、ペリー来航に始まりました。幕府はこれを「国家の一大事」ととらえて天皇・朝廷に報告して協力を求めました。

     幕府は日米修好通商条約の調印でも、事前に朝廷の裁可を得ようと、老中の堀田正睦(まさよし)を上京させました。本来、天皇から政治・軍事・外交の権限は幕府に委任されているという「大政委任論」に立てば、幕府は自らの責任で決めたあと、朝廷に事後報告すれば済むことでした。

     にもかかわらず、幕府が天皇の同意を得る必要があるとして勅許を求めたことは、天皇を政治決定の場に呼び込むことになりました。

     63年1月、第14代将軍家茂は、孝明天皇の勅使を上座に迎えて勅書を受領し、これに続いて決行した、第3代家光以来の将軍上洛も、朝廷の権威を高めました。

     そして4月に孝明天皇が「攘夷成功」祈願のため賀茂社に行幸した際には、各藩の藩主らが先陣をつとめ、将軍が後陣をつとめました。これまで「近世社会の常識では、天皇・朝廷は、幕府の政治的支配下」にありましたが、この行幸の光景は「天皇は将軍と大名を従えて、日本国家の最上位に位置する存在であることを、無言のうちに誇示」することになったのです(佐々木克『幕末史』ちくま新書)。

     これとは別に、天皇・朝廷の権威を高める役割を果たしたのが、日本古来の道を説く「国学(こくがく)」の賀茂(かもの)真淵(まぶち)本居(もとおり)宣長(のりなが)らの思想でした。また、万世一系の天皇を日本の象徴と位置づける「水戸学」は、「尊皇攘夷」に大きな影響を与えました。

     大政奉還や王政復古の政変は、こうした幕府と朝廷の力関係の変化、天皇の位置の上昇という流れの中で起きたのでした。

     一方、倒幕派の間で、天皇は隠語で「玉」(ギョクあるいはタマ)と表現されていたそうです。クーデター直前、木戸孝允は手紙に「うまく『玉』をわがほうへだきこむことが、何にもましてもっともたいじなこと」と書いていました。幕末の権力闘争は、まさに天皇の奪い合いであったといえ、それだけ中核に位置する天皇の政治的価値は大きかったといえます。

    慶喜、大阪城入り

    • 幕末の大坂城(本丸東側諸櫓、大阪城天守閣提供)
      幕末の大坂城(本丸東側諸櫓、大阪城天守閣提供)

     クーデターによっても政局はおさまりませんでした。

     慶喜の「辞官納地」に、二条城にいた旧幕府の将兵はいきり立ちます。暴発を恐れた慶喜は、約1万人に上る旗本兵・会津兵・桑名兵らの外出禁止措置をとります。

     68年1月初め、慶喜は二条城を去って、大阪城に入ります。

     慶喜は大阪でイギリス、フランス、オランダ、アメリカ、プロシア、イタリア6か国の代表と会見し、「政体が定まるまでは、私が責任をもって条約を履行する」旨を述べて、外交権が自らにあることを宣言しました。

     こうした動きと並行して、新政府内で議定の松平春嶽、参与の後藤象二郎ら土佐、越前藩などの公議政体派によって、慶喜の処分を見直し、慶喜を議定職に充てるという妥協案がまとまります。加えて、経済的、軍事的に要所である大阪の町に、旧幕府勢が続々と結集してきます。

     この公議政体派の逆襲に薩摩・大久保や長州・木戸らは焦りの色を濃くし、徳川幕府打倒の決意を固めます。

     そんなとき、江戸で一騒動が持ちあがりました。旧幕府側が1月19日、薩摩藩邸を焼き打ちしたのです。実は、鹿児島藩邸の浪士たちが前年の12月中旬から市中で御用金強盗を働いたり放火したりと、攪乱(かくらん)工作を展開していました。西郷が薩摩藩士の益満(ますみつ)休之助(きゅうのすけ)らに指示していたといわれます。

     薩摩藩邸焼き打ちは、当時、江戸市中の取り締まりにあたっていた庄内藩の屯所(とんしょ)が襲撃されたことに対する報復行動でした。薩摩の挑発に乗ったとも言え、西郷は「これで倒幕の名目がたちもうした」と言ったといわれます。そしてこの薩摩の攪乱戦術は、旧幕府の主戦論を刺激し、憤激した将兵が慶喜を突き上げます。

     このころ、慶喜は老中の板倉勝静(かつきよ)を相手にこのようなやりとりをしています。

     「徳川の譜代・旗本の中に西郷隆盛や大久保利通に匹敵すべき人材ありや」

     慶喜の問いかけに、板倉が「さる人は候わず」と答えると、慶喜は「薩州と開戦すとも、最後には勝てぬ」と言いました。

     慶喜には、このまま戦争は避け、新政府の議定の1人になる道もありました。しかし、68年1月25日、慶喜は薩摩藩征討の文書を朝廷に提出します。旧幕府軍の主戦派は隊列を組んで武力上洛へと進みます。

    【主な参考・引用文献】

    ▽坂本多加雄『日本の近代2 明治国家の建設』(中公文庫)▽田中彰『明治維新』(講談社学術文庫)▽井上勝生『幕末・維新』(岩波新書)▽佐々木克『幕末の天皇・明治の天皇』(講談社学術文庫)▽野口武彦『鳥羽伏見の戦い』(中公新書)▽家近良樹『江戸幕府崩壊』(講談社学術文庫)▽笠原英彦『明治天皇』(中公新書)▽司馬遼太郎『最後の将軍』(文春文庫)

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    2017年03月15日 05時20分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
    プロフィル
    浅海 伸夫 (あさうみ・のぶお
    1982年から18年間、読売新聞の政治部記者。その間に政治コラム「まつりごと考」連載。世論調査部長、解説部長を経て論説副委員長。読売新聞戦争責任検証委員会の責任者、長期連載「昭和時代」プロジェクトチームの代表をつとめた。現在は調査研究本部主任研究員。
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