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    世界史と日本史を融合した新しい近現代史を物語風に紹介します。

    <幕末の動乱と明治維新>第9回~その頃、朝鮮半島では

    李氏朝鮮の時代

    • 14世紀末に倭寇の侵入を防ぐため土の城壁がめぐらされた集落(韓国・順天市で)
      14世紀末に倭寇の侵入を防ぐため土の城壁がめぐらされた集落(韓国・順天市で)

     日本に攘夷運動が吹き荒れていた1863年、朝鮮では国王が死去し、わずか12歳の高宗(こうそう)(1852~1919年)が即位しました。李氏(りし)朝鮮第26代の王です。

     李氏朝鮮(李朝)は1392年、李成桂(りせいけい)(1335~1408年)が高麗を倒して建てた王朝です。李朝と、当時日本の室町幕府との関係は、倭寇(わこう)(日本の海賊集団)の禁圧をめぐる交渉で始まり、15世紀初頭には国交が結ばれます。

     1419年、朝鮮が、倭寇の本拠地である対馬(つしま)に遠征軍を派遣して征討に出たため、活発化していた貿易も一時中断されます。

     その後、朝鮮は日本との交易のため、富山浦(ふざんほ)(釜山)など3港を開き、この3港と首都の漢城(かんじょう)(ソウル)に窓口機関として「倭館(わかん)」を設置しました。日本からは鉱産物(銅・硫黄・銀)や染料・香料、工芸品が輸出され、朝鮮からは木綿をはじめ仏具、青磁などが輸入されました。

     ところが、1510年、3港の在留日本人が貿易縮小などへの不満から暴動を起こし、日朝貿易は不振に陥ります。

    • 韓国・麗水市に立つ将軍・李舜臣の像
      韓国・麗水市に立つ将軍・李舜臣の像

     1592(文禄元)年、豊臣秀吉が15万余の兵力を動員して朝鮮侵略を開始します。小西行長が率いる第1軍が釜山に上陸したあと、加藤清正らの第2軍、黒田長政らの第3軍が続き、漢城を陥落させ、平壌(ピョンヤン)も占領、各地に侵入しました。

     これに対して、李舜臣(りしゅんしん)指揮下の朝鮮水軍や義兵が抵抗をみせ、中国・明軍の支援も受けて劣勢を盛り返し、休戦に持ち込みます。

     秀吉は1597(慶長2)年、ふたたび14万余りの軍隊を送りますが、朝鮮・明軍の反撃にあい、秀吉の病死を機に日本軍は撤兵しました。

     この「文禄・慶長の役」と呼ばれる朝鮮出兵は、朝鮮の人々に多大の被害をもたらし、日本に対する怨念(おんねん)や警戒心を植え付けるなど、大失敗に終わりました。

    朝鮮通信使との交流

     徳川幕府は、秀吉のような対外征服は考えませんでした。1607年、17年、24年には、「回答兼刷還使(かいとうけんさつかんし)」と呼ばれる朝鮮からの使節が来日しました。使節の名目は、徳川将軍からの国書に対する「回答」と、文禄・慶長の役の朝鮮人捕虜の帰還でした。

     徳川幕府が朝鮮との講和を成立させると、対馬(つしま)藩主・(そう)氏が、朝鮮外交の実務と貿易の独占を許されます。

     4回目の36年以降、使節は「通信使」と呼ばれ、将軍が代わる時の祝賀が主目的になります。李朝は36年、清軍の侵入を受け、降伏して属国になりますが、清からの圧力に抗するためにも、日本との関係改善をはかる必要があったとも言われています。

     使節一行は、釜山から対馬を経て瀬戸内海を東に向かって大坂に入り、京都から東海道を江戸に下りました。コースに当たる諸藩は、約500人にも上る一行をもてなしました。江戸城では使節から国書や進物が献上され、将軍が一行を慰労しました。また、朝鮮使節が、徳川家康をまつった日光東照宮を参詣することもありました。通信使の来日は計9回に及びました。

     対馬藩に仕え、対朝鮮外交を長らく担当した儒者に雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)(1668~1755)がいます。朝鮮語にも中国語にも通じた芳洲は、同藩の「朝鮮方」として最前線に立ち、釜山の倭館(在外公館)に再三滞在して外交折衝にあたる一方、1711年と19年の2度にわたり朝鮮通信使を応接しています。

     いずれの来日でも、日朝の学者や文人たちが交歓しあい、日本側は先進的な朝鮮文化を学び、中国の文物にも触れる機会をもちました。19年に来日した通信使のメンバーの1人は、李朝の代表的朱子学者である李退渓(りたいけい)の著作が、当時の日本でいかにもてはやされていたかを記録に残しています。

     通信使は、日朝両国の財政悪化などにより、1811年をもって終わりますが、対馬藩による貿易は継続されます。

    大院君の政治

    • 大院君
      大院君

     西洋から遠く離れた日本と朝鮮は、ともに国を閉ざしてきました。しかし、すでにインドを植民地化し、中国の半植民地化を図る欧米列強によって、いよいよ開国を迫られます。

     日本が1792年、ロシア使節・ラクスマンから初めて通商を求められたのに対して、朝鮮の場合は1831年、イギリス商船が黄海沿岸に来航したのが、そのさきがけのようです。その後、46年にはフランス軍艦、54年には日本に再来航したロシアのプチャーチンが、朝鮮半島南端の巨文島(コムンド)にやってきます。

     とくに清国が60年、満州の沿海部をロシアに譲った結果、朝鮮とロシアは国境を接することになり、ロシア側の通商要求が強まります。

     こうした中、国王高宗の実父・大院君(たいいんくん)(1820~98)が摂政として、朝鮮の国防強化をはかります。同時に、王妃の一族などが政権を独占する「勢道(せいどう)政治」で弱体化した王権を立て直すため、国内改革にも乗り出します。

    • 復元された朝鮮王朝の景福宮の正門(2010年撮影)
      復元された朝鮮王朝の景福宮の正門(2010年撮影)

     大院君は10年間にわたり国政の実権を握り、李朝の王宮として創建され、豊臣秀吉の侵略の際に焼失した「景福宮」を再建します。さらに両班(ヤンバン)と呼ばれる特権的な支配層の不正をただし、経済的な特権を廃止して税収増をはかりました。

     なお、景福宮の正門は韓国併合(1910年)後、朝鮮総督府を建てるため移築され、50年からの朝鮮戦争では木造部分を焼失するなど曲折を経て、2010年、当初の位置に復元されました。

    攘夷戦争の勝利

     大院君の対外政策をみると、「攘夷(じょうい)」そのものでした。

     キリスト教の布教を警戒した大院君は66年初め、朝鮮に潜入していたフランス人の宣教師9人を殺害し、国内のキリスト教徒を大弾圧します。北京駐在のフランス代理公使は、その知らせを受けると、朝鮮に宣戦を布告。フランス艦隊7隻が陸戦隊を乗せて朝鮮に出動しました。

     フランス軍は、宣教師殺害に対する補償や処罰・通商条約の締結を要求して、漢江の河口にある「江華島(こうかとう)」に上陸。武器や金銀、書籍などを強奪しました。陸戦隊はソウルに侵攻しようとしましたが、朝鮮軍の防備と反撃の前に果たせず、撤退しました。

     同年7月、大砲を装備したアメリカ商船が大同江をさかのぼって平壌近くまで侵入し、通商を要求しました。その乱暴な態度に憤った群衆によって商船は焼き払われます。また68年、ドイツ商人が、フランス宣教師とアメリカ人らと組んで大院君の父の墓を盗掘しようとして失敗、大院君を怒らせました。

     アメリカは71年、5隻の軍艦に大砲を装備して朝鮮遠征艦隊を派遣しました。その上陸部隊は、江華島への水路を北上し砲台を占拠しますが、朝鮮軍は頑強に抵抗し、清国駐在のロー公使による通商条約締結要求も受け入れませんでした。

     当時、朝鮮の全国各地には、「洋夷侵犯 非戦則和 主和売国(洋夷侵犯するに、戦いを非とするは(すなわち)ち和なり、和を主とするは売国なり)」と刻んだ<斥和碑(せきわひ)>が建てられました。

     日本を開国させたアメリカも、朝鮮では成功しませんでした。ロー公使は「朝鮮はペリー提督出向前の日本よりも、いっそう厳鎖したる国土である」と、朝鮮の厳しい鎖国攘夷の実情を本国に報告しています。

    日朝で対照的な選択

     朝鮮の排外主義は、「衛正斥邪(えいせいせきじゃ)」と呼ばれます。朱子学の解釈に基づいて、「正を(まも)り、邪を(しりぞ)ける」という思想です。

     政治学者の佐藤誠三郎・元東大教授は、「近代化への分岐――李朝朝鮮と徳川日本」と題した論考で、西欧列強への対応をめぐる朝鮮と日本の類似性を挙げていました。

     それによりますと、日本では「尊皇攘夷」、朝鮮では「衛正斥邪」という名の排外主義は、「自国の道徳的優越性を強調し、世界情勢を戦国時代との類比で理解し、西洋列強にたいしてはげしい敵意と警戒心をいだき、内政改革として人材登用・人心の一致・軍備の強化・経費節減などを主張する点で、きわめてよく似て」いました。

     他方、違いもありました。

     日本では、中国のアヘン戦争に大きなショックを受けたのに対し、朝鮮は、中国に毎年朝貢使を送りながら関心が希薄でした。1860年の英仏軍による北京占領こそ、さすがに衝撃を受けていますが、それによって採られた政策は排外主義の強化でした。

     朝鮮の攘夷戦争は、日本のように「雄藩対列国」ではなく、国家同士の戦争になります。さらに日本は短期間で終戦し、薩摩・長州の雄藩でも、幕府に続いて開国路線が強まります。これに対して、朝鮮は、戦争の勝利によって日本とは対照的な道を選択したのでした。

    西太后の登場

    • 西太后
      西太后

     さて、アジアの大国・中国に目を転じますと、清を苦しめた第2次アヘン戦争の際、清朝の咸豊帝(かんぽうてい)は、北京を脱出して熱河(ねっか)の離宮に逃げ込みました。

     残された弟の恭親王(きょうしんのう)が、和平交渉にあたりますが、イギリス、フランスの要求を受け入れざるを得ず、屈辱的な北京条約(60年9~10月)を結びました。このため、恭親王は国内から売国奴を意味する「鬼子六(グイズリユウ)」の汚名を着せられました。

     咸豊帝は61年8月、熱河で病死し、6歳の息子が帝位に就きます。同治帝(どうちてい)です。

     咸豊帝に仕えていた粛順(しゅくじゅん)の一派が新帝の後見にあたろうとしますが、11月、新帝の生母である西太后(せいたいこう)(1835~1908年)と恭親王が協力してクーデターを起こし、政権を掌握しました。粛順一派は追放され、粛順自身は処刑されます。

     西太后は満州人エホナラ氏の出身で、27歳の若さでしたが、「垂簾聴政(すいれんちょうせい)」(すだれを垂らして姿を隠し、幼帝にかわって政治を行うこと)によって、国政の中枢に入ります。

     内乱の平定や外交は、もっぱら漢人官僚らにゆだね、恭親王を上回る政治的手腕を発揮した西太后は、以後、(おい)光緒帝(こうしょてい)の治世も含めて、半世紀にわたって独裁的にこの国を支配することになります。

    清朝の洋務運動

     清朝は61年1月、外務省にあたる「総理衙門(そうりがもん)」を新設します。対外交渉で欺かれないために、との思いを込め、外国語教育や洋書の翻訳などに熱を入れます。さらに「西洋人にならうことは恥ではない」として科学技術の導入が唱えられました。

     一方、太平天国鎮圧などで西洋武器の優秀さを知った曾国藩(そうこくはん)は、西洋の軍事・科学技術に着目しました。曾国藩とともに太平軍と戦った李鴻章は、上海に兵器工場や中国で初めての汽船会社を発足させたり、紡織工場を作ったりします。また、同じく反乱の鎮圧にあたった左宗棠(さそうとう)は66年7月、福建省に船政局を設立し、軍艦の製造を進めます。

     これらの一連の中国の動きは「洋務運動」と言われています。

     

    【主な参考・引用文献】

    ▽姜在彦『朝鮮近代史』(平凡社ライブラリー)▽金達寿『朝鮮』(岩波新書)▽三谷博ら編『大人のための近現代史 19世紀編』(東京大学出版会)▽上垣外憲一『雨森芳洲―元禄亨保の国際人』(中公新書)▽佐藤誠三郎『「死の跳躍』を越えて 西洋の衝撃と日本』(千倉書房)▽吉澤誠一郎『シリーズ中国近代史1 清朝と近代世界19世紀』(岩波新書)▽加藤徹『西太后―大清帝国最後の光芒』(中公新書)▽三谷博『ペリー来航』(吉川弘文館)▽『国史大辞典』(同)▽高校教科書『詳説日本史B』(山川出版社)▽同『詳説世界史B』(同)

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    2017年03月29日 05時20分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
    プロフィル
    浅海 伸夫 (あさうみ・のぶお
    1982年から18年間、読売新聞の政治部記者。その間に政治コラム「まつりごと考」連載。世論調査部長、解説部長を経て論説副委員長。読売新聞戦争責任検証委員会の責任者、長期連載「昭和時代」プロジェクトチームの代表をつとめた。現在は調査研究本部主任研究員。
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