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    世界史と日本史を融合した新しい近現代史を物語風に紹介します。

    <維新政府、変革の序章>第1回~「万機公論に決すべし」

    明治維新はいつまで?

    • 西郷隆盛
      西郷隆盛

     <あたらしい「世界と日本」史>では、これまで、ペリーの来航(1853年)から徳川幕府の滅亡~維新政府の発足までの動きを追ってきました。この間わずか15年しかたっていません。

     ふつう「明治維新」というと、ペリー来航に始まるとされますが、それがいつ終わったのかとなると、諸説あるようです。

     歴史学者の田中彰・元北海道大学教授は、著書『明治維新』(講談社学術文庫)で七つの見解を列挙しています。

     第1は1871(明治4)年。全国の藩を廃止して府県を設置した「廃藩置県(はいはんちけん)」によって幕藩体制が一掃され、新政府による統一国家が成立し維新は終了したとする見方です。右大臣・岩倉具視を大使とする米欧回覧使節団が派遣されたのもこの年です。明治日本の富国強兵、文明開化が本格始動します。

     第2は73(明治6)年です。この年の前後、学制公布・国立銀行条例(72年)や徴兵令・地租改正条例(73年)などの諸改革令が出されます。さらに征韓論をきっかけに明治政府の内部に亀裂が入り、西郷隆盛、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣の5参議がいっせいに辞職する「明治六年の政変」が起きました。

     第3は77(明治10)年です。西郷隆盛ら鹿児島県士族が決起し、徴兵中心の政府軍を相手に「西南戦争」を戦いました。この「最大にして最後」と形容される士族の反乱は、政府軍の勝利に終わり、西郷は自刃します。西南戦争のさなか、木戸孝允は病死し、翌78年には大久保利通が暗殺され、いわゆる「維新の三傑(さんけつ)」(西郷・木戸・大久保)の時代が終焉(しゅうえん)を迎えます。

     第4は政府が「琉球処分」を完了した79(明治12)年です。日本政府は72年に琉球王国を琉球藩に、国王を藩王に改称したのち、79年、廃藩置県を宣言して琉球藩を廃し、沖縄県の設置を強行しました。 

     第5は「明治十四年政変」の81(明治14)年です。自由民権派の国会開設要求が高まるなかで、政府は、参議の大隈重信を罷免する一方、欽定(きんてい)(天皇が定める)憲法の制定と「90年国会開設」を公約しました。

     第6は「秩父事件」が起こった84(明治17)年です。埼玉県の秩父地方で貧しい農民たちが負債の返済緩和などを要求して立ちあがった大蜂起です。

     そして第7は、大日本帝国憲法(89年)と教育勅語(90年)がそれぞれ発布された89~90(明治22~23)年が挙げられています。それは、これによって「明治天皇制の法的な枠組みとイデオロギーの支柱が形づくられ」、ようやく維新にピリオドが打たれたという見方です。

    • 大日本帝国憲法の発布式の様子を描いた憲法発布略図(明治22年、橋本(楊洲)周延画)
      大日本帝国憲法の発布式の様子を描いた憲法発布略図(明治22年、橋本(楊洲)周延画)

     このどれを取るかは、明治維新をどう性格づけるかによって判断が分かれそうですが、いずれにしても「日本近代国家成立の出発点に明治維新をおき、その維新のプロセスこそが、その後の明治国家や近代天皇制の性格や構造を決定づけた、とみる点では共通している」(同書)ということです。

    「一世一元の制」

     では、この「明治」という元号は、どこから来ているのでしょうか。

     その出典は、「五経(ごきょう)」(儒教で尊重される5種の教典)の一つ、「易経(えききょう)」の中にある、「聖人南面して天下を聴き、明に(むか)いて治む」です。

     68(明治元)年10月23日(旧暦9月8日)、宮中の賢所(かしこどころ)で、儒者に選定させたいくつかの元号候補から、天皇が御籤(みくじ)をひいて「明治」と決まりました。この日に布告された「改元詔書」には、天皇一代の間は、ただ一つの元号を用いるという「一世一元(いっせいいちげん)、以て永式となせ」とあります。

     日本では645年に「大化」と号したのが最初で、元号が制度として確立するのは701年の「大宝」からです。その後は、天皇即位(代始め)や祥瑞(しょうずい)(吉兆)、災害・異変、干支60年にあたる辛酉(しんゆう)年と甲子(こうし)年に革命が起こるという説などを理由として、元号はしばしば改められてきました。

     徳川家康は1615年、禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)を制定して「改元の基準」を定め、幕府は改元についても干渉しました。しかし、18世紀末になると、天皇を尊ぶ水戸学の藤田幽谷(ゆうこく)らが「一世一元」論を提唱するようになります。そして明治の改元では、岩倉具視が、これまで改元の際に繰り返されてきた「難陳(なんちん)(互いに論難・陳弁しあうこと)」論議は煩わしいならわしなので、今後は簡略にして「一世一元」とするよう提案、明治天皇の裁可をえて導入されました。

     もっとも「一世一元」は、これが初めてでではなく、平安前期には少なからずありました。

     その後、「一世一元」は1889年制定の旧皇室典範に明文化され、大正、昭和改元に適用されました。現在の元号法(1979年施行)でも「一世一元」は存続し、「平成」は同法に基づいて政府が政令で決めました。

     なお平成は、大化から数えて247番目の元号です。

     ちなみに、「維新」の出典ですが、これは「詩経」の「周は旧邦と(いえど)も、其の命()れ新たなり」とされ、あらゆるものを一新する、という意味です。

     当時の人々は、政府が次々に繰り出す政治の変革や時流の変化を「一新」と呼びましたが、これを「詩経」中の洗練された言葉に置き換えたものが「維新」だとされています。

    鳥羽・伏見の戦い

    • 鳥羽伏見の戦いを描いた絵巻
      鳥羽伏見の戦いを描いた絵巻

     さて、明治新政府は、68年1月3日(旧暦12月9日)に発足しました。しかし、これに旧幕府勢が立ちふさがります。

     徳川慶喜が同月25日に発した文書「討薩(薩摩藩征討)の表」は、薩摩の「奸臣(かんしん)」(主君に対して悪事をたくらむ家臣)どもを「誅戮(ちゅうりく)」(罪をただして殺害)しなければならない、という荒々しいもので、宣戦布告にひとしいものでした。

     薩摩側の江戸での挑発行動に乗った形でしたか、この「表」で旧幕府主戦派は勢いづきました。これに対して、慶喜をつぶしたい薩摩・長州両藩は、ここで雌雄を決しようと京都郊外で火ぶたを切ります。これが「鳥羽・伏見の戦い」でした。

     京都から大阪城に退いた慶喜のもとに集結した旧幕府軍はおよそ1万5000でした。これに対して薩長軍は5000人程度にすぎず、兵の数では旧幕府側がはるかに勝っていました。

     1月27日、鳥羽・伏見街道を北上した旧幕府軍は、緒戦から手痛い敗北を喫します。戦いの2日目、新政府議定の仁和寺宮(にんなじのみや)嘉彰(よしあきら)親王が征討大将軍に就任し、天皇から「錦旗(きんき)」(錦の御旗(みはた))が渡されました。これによって新政府軍は「官軍」となり、旧幕府軍を「賊軍」の立場に追い込みます。

     戦闘は4日間に及び、旧幕府軍は敗北しました。

     戦いの3日目、慶喜は大阪城で「この城、たとい焦土になるとも死をもって守るべし」と大演説を行い、将兵を奮い立たせました。ところが、開戦から4日目の夜、会津藩主・松平容保(かたもり)、桑名藩主・松平定敬(さだあき)、老中・板倉勝静らを引き連れて大阪城を脱出、船で江戸に向かってしまいます。

     最高指揮官の「逃亡」でした。

     これは慶喜にとって、後世まで語り継がれる大失態でした。なぜ、家臣たちをだましてまで不名誉な遁走(とんそう)をはかったのか。

     『会津戊辰戦史』(山川健次郎監修)は、「例の変節病」として、慶喜が急に臆病風に吹かれたのではないかとみています。また、慶喜は、「逆賊」「朝敵」になることをとくに恐れていたという見方もありますし、この内戦が収束できなくなるのを恐れたという分析もあります。

     大政奉還した時と同様、その真意をはかりかねるところがあって、慶喜の政治的人格の不可思議さを思います。

     旧幕府軍の敗因は、はじめ戦闘態勢をとっていなかったこと、幕府陣営の淀藩、津藩が寝返ったこと、装備や士気、指揮官が劣っていたことが指摘されています。

     鳥羽・伏見の戦いにおける旧幕府軍の敗北は、1600年、「関ヶ原の戦い」で覇権を握った徳川幕府の事実上の滅亡を意味しました。

     ただ、この戦争のあとも上野戦争、北越・東北戦争、そして箱館(函館)戦争――これを総称して「戊辰(ぼしん)戦争」という――が続くことになります。

    五箇条の御誓文

    • 五箇条の御誓文の原案を作成したとされる由利公正
      五箇条の御誓文の原案を作成したとされる由利公正

     さて、維新政府の成立宣言と言うべきものが、有名な<五箇条(ごかじょう)御誓文(ごせいもん)>です。

     68年4月6日、御所の紫宸殿(ししんでん)に「天神地祇(てんじんちぎ)」(日本国土の固有の神々)がまつられ、天皇が、公家と諸侯とともに<御誓文>の趣旨を誓約する儀式が行われました。

     それは以下の5か条です。

     一、広く会議を(おこ)し、万機(ばんき)(あらゆる重要な政治課題)公論に決すべし

     一、上下(しょうか)心を(いつ)にして、(さかん)経綸(けいりん)(国を治めること)を行うべし

     一、官武(かんぶ)(公卿と武家)一途(いっと)庶民に至る(まで)(おのおの)(その)志を()げ、人心をして()まざらしめん事を要す

     一、旧来の陋習(ろうしゅう)を破り、天地の公道に(もとづ)くべし

     一、智識を世界に求め、(おおい)皇基(こうき)振起(しんき)(ふるいおこす)すべし

     

     この<御誓文>の原案は、越前藩士の由利公正(ゆりきみまさ)(1829~1909年)が作り、土佐藩士の福岡孝弟(たかちか)(1835~1919年)の手で修正されたといわれています。

     徳川慶喜は大政奉還で、天皇親政(しんせい)と公議輿論(よろん)の両立をうたっていました。これを受けて朝廷が宣言した王政復古の大号令では、天皇親政とともに「公議をつくす」ことが盛り込まれました。そしてこの五箇条の御誓文でも、第1条に公議輿論を施政の基本とすることが打ち出されたのでした。

     当初、福岡案では「列侯会議を興し」とありました。しかし、木戸孝允によって「広く会議を興し」と修正されました。「列侯会議」という表現では、公議政体派の諸侯会議と受け止められる可能性があるうえ、公家も排除されてしまうことに配慮したためといわれます。

    御誓文の読み方

    • 明治天皇の勅命によって有栖川宮幟仁親王が揮毫した五箇条の御誓文の原本
      明治天皇の勅命によって有栖川宮幟仁親王が揮毫した五箇条の御誓文の原本

     ところで、天皇が政治を行う「天皇親政」と「公議輿論」は矛盾することはないのでしょうか。

     それにはこんな答があります。

     この御誓文の第1条は「公議の尊重」うたっていますが、これは天皇親政を前提に、「天皇自らが『公論に決する』旨を誓っているのであり、言いかえれば、天皇が『公論』を自らの意思すなわち『宸断(しんだん)』(天皇の裁断)とするという宣言にほかならない」(坂本多加雄『明治国家の建設』)というのです。つまり、天皇が衆議を尽くしてのちの結論に基づいて裁断し、結論が出ない場合にのみ「聖断」するというのであれば、天皇親政と公議輿論の両立は可能だということでしょう。

     また、第2・3条は、身分の上下にかかわらず、心を通わせて一致協力し、人材の登用もはかって国民の心が離れないようにすべし、としています。これは議会制度の設置につながる公約とも言え、のちに自由民権派の人々が民撰議院設立要求の根拠とします。

     第4条の「旧来の陋習」とは、封建社会の悪習という意味ですが、幕末に吹き荒れた攘夷の活動もその一つとされます。今後は「天地の公道」、すなわち「万国公法」(国際法)に基づいて諸外国との和親に努めるというわけです。

     第5条は、積極的な開国で富強化する「開国攘夷」によって、「皇基」(天皇の国家統治の基礎)を、いわば天皇中心の国家をもり立てていくという意味です。

     <誓文>と同時に、木戸孝允起草の「国威宣揚(こくいせんよう)宸翰(しんかん)(天皇直筆の文書)」も告示されました。

     この中で天皇は、武家政権の長きにわたり、敬して遠ざけられてきた朝廷は、「億兆(万民)の父母として赤子の情(民の心)」を知ることができなかったと述べています。そのうえで、「今後は、億兆を安撫(あんぶ)し、萬里(ばんり)波濤(はとう)を拓開し、国威を四方(世界)に宣布したい(あまねく行き渡らせたい)」と強調し、この私の志をしっかりと体得して共に進もうではないか、と国民に訴えています。

     

    【主な参考・引用文献】

    ▽宮内庁『明治天皇紀 第一』(吉川弘文館)▽坂本多加雄『日本の近代2 明治国家の建設』(中公文庫)▽野口武彦『鳥羽伏見の戦い―幕府の命運を決した四日間』(中公新書)▽松本健一『日本の近代1 開国・維新』(中公文庫)▽笠原英彦『天皇親政』中公新書)▽佐々木克『幕末史』(ちくま新書)▽芳賀徹『明治維新と日本人』(講談社学術文庫)▽家近良樹『その後の慶喜』(ちくま文庫)▽司馬遼太郎『最後の将軍』(文春文庫)▽ドナルド・キーン『明治天皇』(角地幸男訳、新潮文庫)▽読売新聞朝刊1989年1月8日付▽日本史広辞典(山川出版社)▽所功『日本の年号』(雄山閣出版)

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    2017年04月12日 05時20分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
    プロフィル
    浅海 伸夫 (あさうみ・のぶお
    1982年から18年間、読売新聞の政治部記者。その間に政治コラム「まつりごと考」連載。世論調査部長、解説部長を経て論説副委員長。読売新聞戦争責任検証委員会の責任者、長期連載「昭和時代」プロジェクトチームの代表をつとめた。現在は調査研究本部主任研究員。
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