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    世界史と日本史を融合した新しい近現代史を物語風に紹介します。

    <維新政府、変革の序章>第2回~「万国公法」って何だ?

    「錦旗」と「宮さん」

    • 戊辰戦争の際に用いられた錦旗の図(浮田可成・画)
      戊辰戦争の際に用いられた錦旗の図(浮田可成・画)

     「鳥羽・伏見の戦い」(1868年1月)の硝煙とともにスタートした維新政府は、1月31日、将軍・慶喜の追討令を出します。

     大坂城から「敵前逃亡」した慶喜は、大坂湾から旧幕府軍艦「開陽丸」に乗って江戸(東京)に到着します。江戸城中は主戦派と恭順派に二分されていました。

     慶喜は、勝海舟を陸軍総裁に、大久保忠寛(一翁)を会計総裁にそれぞれ任命し、3月5日、謝罪・謹慎の意を示すため、江戸城を出て上野寛永寺・大慈院に移りました。

     これに対し、薩長両藩を主流とする維新政府は、東海道・東山道・北陸道の3道から江戸に向けて軍隊を進めます。兵力は両藩兵を中心に総計約5万。有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王が総裁在職のまま東征大総督に就き、「錦旗(きんき)」(錦の御旗(みはた))を押し立てての行軍です。

     錦旗は、鳥羽・伏見の戦いでも翻りましたが、赤地の錦の上部に日月を金銀の糸で刺しゅうしたものです。岩倉具視が大久保利通と長州藩士・品川弥二郎(1843~1900年)に依頼し、国学者の玉松操(たままつみさお)が作図しました。

     この「錦の御旗」が世間に広まったのは、俗謡「トコトンヤレ節」の流行が一つのきっかけだったようです。

     

     宮さん宮さん お馬の前に ちらちらするのは何じゃいな トコトンヤレ トンヤレナ
     あれは朝敵 征伐せよとの 錦の御旗を知らないか トコトンヤレ トンヤレナ

     

     『明治天皇紀』は、この歌は、品川弥二郎が作詞して官軍に歌わせ、速やかに広まったとしたうえで、「我が国における近世軍歌の嚆矢(こうし)」にして士気を鼓舞すること少なくなかった、と書いています。

     松下村塾に学び、尊皇攘夷の活動家だった品川は、薩長同盟締結では連絡役を務め、明治政府においては藩閥政治家として内務相などを歴任します。

    • 有栖川宮熾仁親王
      有栖川宮熾仁親王
    • 品川弥二郎
      品川弥二郎

    東京招魂社創建

    • 九段に創建された東京招魂社
      九段に創建された東京招魂社

     鳥羽・伏見の戦いでは、新政府軍(官軍)は60人、反政府軍(旧幕府軍)は279人が死亡したといわれます。

     そのうちの官軍の戦死者を弔うため、68年2月、薩摩、長州藩に各500両、芸州(広島)、因州(鳥取)、土佐藩に各300両が下賜(かし)されるとともに「招魂社(しょうこんしゃ)」の創建が命じられました。

     さらに戊辰(ぼしん)戦争が続いている同年6月末、新政府は維新前後の殉難者と戦死者に対して慰霊と顕彰をおこなう方針を打ち出し、とくに戦死者は「朝命を奉じ奮戦死亡」した者として「官軍」に限定しました。

     8月には最初の「招魂祭(しょうこんさい)」が京都の河東(かわひがし)操練場でおこなわれ、各地で戦死した官軍兵士32藩374人(『明治天皇紀』)の霊がまつられました。

     天皇が京都の東山に建立を希望したとされる「招魂社」は、東京遷都によって九段の地に建てられることになります。

     戊辰戦争終結後の69年8月、東京招魂社が創建され、この戦争での官軍側の死者3588人が合祀(ごうし)されました。79(明治12)年6月、同社は「靖国神社」と改称されます。

    列強の「局外中立」

     駿府(今の静岡市)に進出した大総督府は68年3月29日、江戸城を「4月7日」に総攻撃する旨を発令します。その日は五箇条(ごかじょう)御誓文(ごせいもん)発出の翌日にあたっていました。

     イギリス公使のパークスは2月18日、「万国公法」に基づいて「局外中立」を宣言します。外国側も、「ミカド(天皇)と大君(将軍)との戦争」によって日本市場や居留地が混乱することは避けたいと考えていました。また、日本側の兵員輸送のため、外国船がチャーターされると、内戦に巻き込まれる懸念もありました。

     他方、戦争当事者の新政府も旧幕府も、諸外国が武器・艦船などを敵方に売却しないよう各国公使に働きかけていました。

     このイギリスの「局外中立」にアメリカ、フランス、イタリア、オランダ、プロシアが追随します。これにより戊辰戦争は、国際法上の「内戦」と認定され、各国とも中立の立場をとることになります。

     いずれの国も戦争当事者に軍艦を用意したり、兵器・弾薬を輸送したりすることが禁止され、旧幕府は、アメリカから購入を予定していた甲鉄艦「ストーン・ウォール号」を入手できなくなりました。この強力艦が封じられたことは、新政府側に有利に働きました。

    パークス襲撃事件

     3月23日、天皇に謁見する予定だったイギリスのパークスが京都で攘夷論者に襲われ、負傷する事件が起こりました。

     パークスは事件について、妻への手紙でこのように書いています。

     「一人の日本人が狂気のようにあたりかまわず斬りかかりながら、私たちのそばを駆け去った。私は大声で、犯人を斬り倒せと部下に命じた。襲撃があった時、(同行の日本の高官)後藤象二郎は直ちに馬から飛び降りて駆け出し、刀を抜いて町角を曲がった。すぐ後をついてゆくと、彼は、一人を斬り倒していた」

     日本研究の先駆者であるイギリスのG・B・サンソムは自著で、徳川幕府を倒壊した強藩で鍛えられた「旧封建官吏」の存在を論じるなかで、この時の後藤に触れています。サンソムは、後藤の「離れ業」は、「ふだんの修練と尚武の気質なしにはできるものではない。そして新政府の閣僚と役人の大半は、いくらでも似たような武勲をあげうるひとたちだった」と書いています。

     この事件に衝撃を受けた新政府は4月7日、再発防止のため、「五榜(ごぼう)の掲示」(太政官から民衆向けに出された5枚の立札)で、「万国公法」の順守や条約の履行、外国人殺傷の禁止などを広く周知します。

    知らなかった国際法

    • グロティウス
      グロティウス

     この「五榜の掲示」で言う「万国公法」とは、近代国際法のことです。

     1864年にアメリカ人宣教師ウィリアム・マーチンがアメリカの国際法学者ヘンリー・ホイートンの国際法のテキストを漢文に訳し、その<万国公法>が日本に輸入されて知られるようになりました。

     その後、法学者の箕作麟祥(みつくりりんしょう)が「万国公法」にかえて「国際法」という名称を使い始め、81(明治14)年に東京大学の学科目に「国際法」の言葉が使われて以降、「国際法」が次第に一般化します。

     そもそも国際法は、ドイツを舞台にした30年戦争(1618~48年)を終結させたウェストファリア条約や、「国際法の父」といわれるグロティウスの著作『戦争と平和の法』(1625年)などが源流とされています。

     18世紀まで、国際法は、もっぱら欧州だけにしかあてはまりませんでした。しかし、欧州諸国がアメリカ、アジア、オセアニア、アフリカ大陸に進出するにつれて、世界に広まっていきます。

     17世紀から鎖国を続けてきた日本人が、国際法を知らないのは無理もないことでした。

     幕末に来日した駐日アメリカ総領事・ハリスは、箱根の関所通過の際、「国際法上の特権(外交官特権)」を申し立てて検査を受けることを拒んで、日本の役人を困惑させました。

     また、日米修好通商条約の幕府側の担当者は、ハリスに対して、万国公法に関し「全く無知識なることは小児と同じなので、貴使が忍耐して私らに教えられることを望む」と、率直に教えを請うたというエピソードも残されています。

    「万国公法」の使われ方

    • 西周
      西周

     幕末の大政変は、外交問題に端を発しており、国際法と密接にかかわっていました。

     そして幕末から明治にかけての指導層は、列強との接触を通じて、今後、日本が国際社会で生きていくには、欧米諸国間で作られた基本的なルールを受け入れるほかはないと考えました。

     ロシア軍艦が対馬を不法占拠した事件(1861年)処理などで外交経験を積んだ幕臣・勝海舟は、マーチン訳の<万国公法>を私費で重版し、各藩諸侯や弟子たちにも配布していました。

     中でも勝の弟子であった坂本龍馬は、この<万国公法>に強い関心を示した一人でした。とくに海難事件や貿易取引のトラブルを近代法によって解決すべきだと考え、「いろは丸事件」でこれを適用したのです。

     これは1867年、龍馬の「海援隊」が伊予大洲(おおず)藩から借用していた「いろは丸」が、武器弾薬類を長崎から大坂へ運ぶ途中、紀州藩の船に衝突されて沈没してしまった事故です。

     事件処理にあたって、徳川御三家のひとつ、紀州藩が幕府の長崎奉行を使って圧力をかけてきたのに対して、龍馬は事実審理に基づき「公法」によって判定を下そうと考えました(池田敬正著『坂本龍馬』中公新書)。

     他方、西(あまね)や津田真道(まみち)がオランダでの留学から帰国後、万国公法について翻訳書を出したり講義をしたりしたことは、以前、<俊秀たちの留学ラッシュ>の項で触れましたが、これが日本国内における国際法の認識を広めることになりました。

    ”手のひら返し”の釈明

    • 幕府(開成所)が中国から取り寄せたものをもとに出版した「万国公法」(国立公文書館蔵)
      幕府(開成所)が中国から取り寄せたものをもとに出版した「万国公法」(国立公文書館蔵)

     万国公法の使われ方は、それに限りませんでした。

     司法官で歴史学者の尾佐竹猛(おさたけたけき)(1880~1946年)は、こんなことを書いています。

     「在野党時代に盛んに無責任なる鎖港攘夷説をもって幕府を攻撃したる西南諸藩が、一度政権に有りつくや、翻然(ほんぜん)としてその持論を捨てて開港を宣し、その理由として、これ万国の公法に拠ると声明したのである」

     つまり、新政府は、攘夷から開国へと手のひらを返したことへの釈明に、なんと万国公法を使ったというわけです。

     尾佐竹と同時代の政治学者で民本主義を唱えた吉野作造(よしのさくぞう)(1878~1933年)も、同じようなことを言っています。

     吉野によれば、京都(新)政府は、自分たちの態度豹変(ひょうへん)を天下に何と説明したらよいものか、はたと当惑してこう考えたというのです。

     「われわれは外人を夷狄禽獣(いてききんじゅう)と思っていた、だから交わるのを快しとしなかったのだ、しかるによく聞いてみると、彼らは天地の公道をもって交わろうと言っているそうで、われわれもまた公法をもってすべきではないか、みだりにこれを排斥するは、古来の仁義の道にそむくのみならず、またおそらくは彼らの侮りを受くるだろう」

     新政府の要人は、「公道」の観念を使って態度豹変を弁解したわけですが、ここに言う「公道」とは万国公法のことです。しかし、世間ではそうは受け取らず、「人間交際の道というくらいに理解」していたと吉野は書いています。(「わが国近代史における政治意識の発生」)

     当時は、「公法」や「公論」、「公道」という文字が大変、流行したのでした。

    「半未開国」の日本

     マーチン訳の<万国公法>には、国家の基本権や平等権、国際儀礼、外交特権のほか、領海の範囲や公海自由の原則、条約批准手続き、宣戦布告や捕虜交換、停戦と休戦、局外中立などが盛り込まれていました。ただ、現代の国際法とは異なり、征服や発見、移民などによる領有を正当と認めていました。

     井上勝生氏の著作『幕末・維新』(岩波新書)によりますと、近代の欧米では、世界の民族と国家を「三つの群」――文明国(欧米諸国)、半未開国(トルコ、ペルシャ、タイ、中国、朝鮮、日本など)、未開(それ以外の諸民族)――に分けていました。

     このうち、「『未開』は国と認められず、近代国際法のまったくの妥当範囲外」でした。日本などの半未開国は、国法の存在は認められましたが、「欧米であれば認められる外国人への国法の適用が認められず、領事裁判権など各種の特例が設けられた」のでした。

     

    【主な参考・引用文献】
    ▽尾佐竹猛『国際法より観たる幕末外交物語』(文化生活研究会)▽奥田晴樹『日本近代の歴史1 維新と開化』(吉川弘文館)▽佐々木克『戊辰戦争』(中公新書)▽田中彰校注『日本近代思想体系1 開国』(岩波書店)▽F・V・ディキンズ『パークス伝』(高梨健吉訳、東洋文庫)▽G・B・サンソム『西欧世界と日本(下)』(ちくま学芸文庫)▽石井孝『明治維新の舞台裏』(岩波新書)▽田中彰『明治維新』(講談社学術文庫)▽『日本の名著48 吉野作造』(中央公論社)▽絲屋寿雄『大村益次郎』(中公新書)▽秦郁彦『靖国神社の祭神たち』(新潮選書)▽松本健一『開国・維新』(中公文庫)▽西沢爽『日本近代歌謡史 (上)』(桜楓社)

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    2017年04月26日 05時20分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
    プロフィル
    浅海 伸夫 (あさうみ・のぶお
    1982年から18年間、読売新聞の政治部記者。その間に政治コラム「まつりごと考」連載。世論調査部長、解説部長を経て論説副委員長。読売新聞戦争責任検証委員会の責任者、長期連載「昭和時代」プロジェクトチームの代表をつとめた。現在は調査研究本部主任研究員。
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