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    世界史と日本史を融合した新しい近現代史を物語風に紹介します。

    <維新政府、変革の序章>第3回~江戸無血開城の裏側で

    「幕末の三舟」

    • 山岡鉄舟が建立した全生庵(東京都台東区谷中)
      山岡鉄舟が建立した全生庵(東京都台東区谷中)
    • 山岡鉄舟
      山岡鉄舟

     東海・東山(とうさん)・北陸の3道に分かれて進軍してきた新政府軍は、1868年4月7日(旧暦3月15日)に設定された「江戸城総攻撃」をにらんで、着々と準備を整えます。

     新政府軍にとって「最大の朝敵」である徳川慶喜は、静寛院宮(せいかんいんのみや)(もと和宮、故・徳川家茂夫人)、天璋院(てんしょういん)(故・徳川家定夫人)、輪王寺宮(りんのうじのみや)(輪王寺門主)、徳川茂栄(もちはる)(一橋家当主)らに「免罪」の周旋を頼み、上野・寛永寺に閉じこもります。

     幕臣では、山岡鉄太郎(鉄舟(てっしゅう)、1836~88年)、勝海舟、大久保一翁(いちおう)らが、慶喜救済のために動きます。

     鉄舟は、堂々たる体躯(たいく)の剣の達人で、慶喜の警固にあたる「精鋭隊」のリーダーでした。槍術(そうじゅつ)家で幕府「講武所(こうぶしょ)」教授・高橋泥舟(でいしゅう)の妹を妻にしており、鉄舟と泥舟と海舟は、「幕末の三舟」と称されました。

     慶喜はある日、鉄舟に対し、自分は「朝命に(そむ)かざる無二(むに)赤心(せきしん)があるだけ」と語りかけ、この真意を朝廷側にじかに伝えて、疑念の解消を図ることを鉄舟に託します。

     鉄舟は、初めて訪問した勝海舟に、捕縛・斬首を覚悟のうえで官軍との折衝に臨む考えを説明。勝も同意し、西郷隆盛あての書状をしたためます。

     鉄舟は3月29日、駿府(すんぷ)(静岡市)へと出発します。鉄舟には、薩摩藩邸焼き打ち事件で捕らえられ、勝が身柄を預かっていた薩摩藩士・益満休之助(ますみつきゅうのすけ)が同行しました。

     2人が六郷川(多摩川)を渡ると、官軍の先鋒(せんぽう)がすでに布陣しています。案内を請わずに宿営に入り、「朝敵・徳川慶喜の家来、山岡鉄太郎、大総督府に行く」と断ると、その迫力に気圧(けお)されてか、誰も何も言わず、警戒線を難なく突破します。

    「命もいらず、名もいらず」

    • 全生庵にある山岡鉄舟の墓
      全生庵にある山岡鉄舟の墓

     鉄舟は後年、駿府行の経緯を「大総督府ニ(おい)テ西郷隆盛氏ト談判筆記」と題する文書に残しています。

     それによりますと、東征大総督府参謀の西郷との面会が実現したのは4月1日でした。

     席上、西郷が示した慶喜処分案は、「徳川慶喜を備前(岡山)藩に御預け」、「城明け渡し」、「軍艦は残らず・軍器は一切を渡すこと」、「家臣は向島に移す」などからなっていました。

     これに対して、鉄舟は「慶喜の備前預かり」では徳川の家臣たちが承服せず、合戦が起きて数万の生命が失われると説き、撤回を求めました。しかし、西郷は「朝命です」とはねつけます。

     そこで、鉄舟はこう迫りました。

     「先生の主人の島津侯が間違って朝敵の汚名を着せられ、先生が今の私の任にあるならば、朝命を奉戴(ほうたい)し速やかに主君を差し出し、安閑としていられますか。君臣の情、先生の義からみてどうお考えか」

     しばらく黙っていた西郷は、「先生の説はもっともなことです。慶喜殿の件は私が引き受け、取りはからう」と述べました。先の東征軍出発前、慶喜厳罰論に立っていた西郷は、ここで大きく方向転換したわけです。

     芝居の一幕を見るようなこの会談で、西郷は鉄舟の無私の精神に心打たれたようです。

     <命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難(かんなん)を共にして国家の大業は成し得られぬなり>(『南洲翁遺訓』角川ソフィア文庫)

     西郷はこんな格言を残しましたが、これは鉄舟を評したものにほかならない、と勝が証言しています(安部正人編述『鉄舟随感録』秋田屋書房)。 

     江戸に戻った鉄舟から報告を受けた海舟は、鉄舟の「沈勇」と高い見識を評価しました。

     明治に入って、鉄舟は、静岡藩の権大参事(ごんだいさんじ)などを歴任したあと、10年間にわたり宮内省に出仕し、明治天皇の側近として宮内大書記官などをつとめました。

     剣と同じく禅や書にも通じた鉄舟は、東京・谷中に禅寺「全生庵(ぜんしょうあん)」を開基しました。「怪談牡丹燈籠(ぼたんどうろう)」など多くの名作を生んだ明治落語界の巨匠・三遊亭圓朝(えんちょう)も、鉄舟の弟子の一人でした。全生庵には鉄舟の墓がありますが、圓朝はそのすぐそばで眠っています。

    西郷「総攻撃を中止」

    • 「江戸開城談判」(結城素明画、聖徳記念絵画館蔵)
      「江戸開城談判」(結城素明画、聖徳記念絵画館蔵)

     さて68年4月5日、旧幕府の最高実力者である勝海舟は、江戸高輪の薩摩藩邸に西郷隆盛を訪問しました。事実上の両トップ会談です。

     勝は、1か月ほど前、西郷に書簡を送り、「徳川家は今なお12(せき)の軍艦を所有している」と、海軍力を誇示して官軍の動きを牽制(けんせい)し、兵力は箱根以西にとどめおくよう求めていました。もしも、政府軍が、徳川側の嘆願を聞かずに進撃してくるなら、先手を打って江戸市街を焼き払い、官軍の進軍を妨げて「一戦焦土を期す」作戦も考えていました。

     5日の会談は短時間に終わり、和戦の決定は、すべて翌6日に持ち越されます。

     6日の第2回会談で、勝は、鉄舟がもたらした徳川処分案について、大久保一翁らと協議してまとめた「嘆願書」(対案)を示し、「御寛典(寛大)の処置」を求めました。

     対案は、「慶喜の備前藩預かり」を「水戸での謹慎」とする、「城明け渡し」は、いったんその手続きをした後、徳川一門の田安家が保管する、軍艦・兵器の没収も、ひとまず全て政府が没収し、いずれ相当数を返還する、などとなっていました。新政府側の完全武装解除要求を押し戻す内容でした。

     会談の中で、勝はこのように力説しました。

     「インド、中国の(てつ)をふみ、天下の首府(江戸)で一戦を交えて国民を殺すようなことは、決して考えていない。ここで公平至当の処置がとられるならば、海外諸国はその正しさを見聞きし、国信一洗、和親ますます固まりましょう」

     これに対して、西郷は「一人で決めることはできない」と語り、直ちに大総督府へ言上すると表明。そのうえで、「明日侵撃(しんげき)の令あり」と述べて軍事担当を呼ぶや、その中止を命じました。

     勝の『断腸之記』によりますと、西郷は、少しも大事に臨むようなそぶりはみせず、「面色温和」で、「襟度(きんど)(度量)寛大」でした。

     一方、単騎(たんき)、会談先に赴いた勝は、その帰途、何者かの狙撃にあい、辛うじて命拾いしています。それだけ江戸市中は殺気立っていました。

     勝は、その日の『日記』に、「かれ(西郷)が傑出果決(けっしゅつかけつ)を見るに足れり」と記し、「薩藩一、二の小臣、(かみ)天子を(はさ)み、列藩に令して、出師(すいし)迅速、猛虎の群羊(ぐんよう)を駆るに類せり。何ぞ(それ)、雄なる(かな)」とも書いています。

     このあと、西郷は大総督宮に復命したあと、京都へと急ぎ、そこでの三職(総裁・議定・参与)会議は、勝の嘆願書をおおむね認めた処分を決めます。

     勝と西郷との政治折衝で、家名存続を許された慶喜は、5月3日、江戸城を官軍に明け渡し、水戸に向かって江戸を去ることになります。

    列強からの圧力

    • パークス
      パークス

     イギリスとフランスは当時、横浜に駐留軍を置いていました。イギリス海軍は当時、日本近海に日本の海軍力を上回る艦隊力をもち、フランスもアメリカも、日本海域で軍事プレゼンスを維持していました。その意味では、「戊辰戦争は列強の監視下」にありました。

     江戸城が開城されるまで、横浜港には不測の事態に備えて、イギリス、アメリカ、フランス、プロイセン、オランダの5か国、計14艦(砲211門)の軍艦が集結していました。(保谷徹『戊辰戦争』吉川弘文館)

     イギリス公使のパークスは、西郷の意を受けた東海道先鋒総督参謀の木梨精一郎と4月5日(あるいは6日)、横浜で会見します。そこで木梨が江戸攻撃に伴う負傷者用の病院の確保を求めたのに対し、パークスは怒り出し、このような厳しい意見を口にします。

     「恭順の意を表して謹慎している相手に戦争を仕掛け、慶喜を死に陥れる道理はない。助命されたい」

     「戦端を開くならば、居留地をもつ外国の領事に通知がなければならない。それが一つもない。仕方がないので、我が海軍兵を上陸させている。今日、貴国に政府はない」

     さらに木梨が「慶喜の亡命」について(ただ)すと、パークスは「亡命を受け入れるのが万国公法」と答えました。

     この一連のパークス発言は西郷に報告されます。それは、西郷―勝の第2回会談以前のことで、西郷はこの「パークスの圧力」を受けて総攻撃を取りやめた、という説があります。これに対して、パークス発言が西郷に伝えられたのは会談後のことであり、それを否定する論者もいます。

     ただ、いずれにせよ、木梨の報告を受けた西郷は、パークスの忠告に愕然(がくぜん)としながらも、「かえって幸い」と言ったそうです。

     総攻撃中止にいきりたつ将兵らに対して、「パークスがそう言う以上、仕方がない」と言えば説得しやすくなる、というしたたかな計算からです。実際、東山道先鋒総督参謀・板垣退助も、そう聞かされて引き下がったといわれます。

    ロシアの政略

    • 西郷と勝が会談したとされる場所
      西郷と勝が会談したとされる場所

     勝海舟の回顧談『氷川清話(ひかわせいわ)』(江藤淳・松浦玲編、講談社学術文庫)は、よく知られています。

     その中で勝は、官軍が江戸に攻め上ってくる当時を思い起こして、「オロシヤ(ロシア)などが、是非金を貸すから、それで存分戦争をして内国の始末をつけなさい、その間は我々も黙って箱館でみていましょうと言って、(ロシア公使が)しきりに迫ってくる」という話を明かしています。

     その時、勝は「一時しのぎに外国から金を借りるということは、たとえ死んでもやるまいと決心」して、「借金政略」は拒み通した、と強調しています。

     勝も、その弟子の坂本龍馬も、そして西郷も、外国勢力の介入にはかなり神経を使っていました。

     また、木戸孝允にしても、幕長戦争の際、ロッシュ仏公使とパークスに対して「私は外国の援助を求めなかったし、今後も外国の介入が全く差し控えられることを信頼するのみだ」と語っています。

     幕末から明治初期の激動期、イギリス、フランス、ロシアが日本の植民地化をねらって侵略する可能性は、当時の国際情勢から、そう大きくはなかったとみられています。

     とはいっても、旧幕府、雄藩のリーダーらが、列強の対日干渉に敏感だったことが、日本の植民地化回避に役立ったことは事実のようです。

     

    【主な参考・引用文献】

    ▽萩原延壽『遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄7 江戸開城』(朝日文庫)▽松浦玲『勝海舟』(中公新書)▽圭室諦成『西郷隆盛』(岩波新書)▽石井孝『増訂 明治維新の国際的環境』(吉川弘文館)▽同『勝海舟』(同)▽同『明治維新の舞台裏 第二版』(岩波新書)▽上垣外憲一『勝海舟と幕末外交―イギリス・ロシアの脅威に抗して』(中公新書)▽田中彰『明治維新』(講談社学術文庫)▽『勝海舟全集 幕末日記』(講談社)▽松本三之介編集・解説『現代日本思想体系1―近代思想の萌芽』(筑摩書房)▽絲屋寿雄『大村益次郎』(中公新書)▽井上勝生(『幕末・維新』(岩波新書)▽圓山牧田・平井正修編『最後のサムライ 山岡鐵舟』教育評論社

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    2017年05月17日 05時20分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
    プロフィル
    浅海 伸夫 (あさうみ・のぶお
    1982年から18年間、読売新聞の政治部記者。その間に政治コラム「まつりごと考」連載。世論調査部長、解説部長を経て論説副委員長。読売新聞戦争責任検証委員会の責任者、長期連載「昭和時代」プロジェクトチームの代表をつとめた。現在は調査研究本部主任研究員。
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