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    世界史と日本史を融合した新しい近現代史を物語風に紹介します。

    <維新政府、変革の序章>第4回~「東京」が生まれるまで

    1年半の戊辰戦争

     江戸城は無血開城されたものの、内戦は収まりませんでした。新政府は、以下のように、戊辰戦争を戦いながら変革を推し進めますが、その一環として「東京遷都」が浮上します(年月は陽暦)。

    1868年  1月 王政復古の大号令。新政府発足。鳥羽・伏見の戦い
     2月 新政府、各国に王政復古と外国との和親方針を告知
    英米仏伊蘭普6か国が内戦に局外中立を宣言
     4月 西郷隆盛―勝海舟会談。五箇条の御誓文
     5月 新政府軍、江戸入城。徳川慶喜、水戸へ退去
     6月 新政府、政体書を出し、太政官制度発足
    奥羽越列藩同盟成立
     7月 新政府軍、上野の彰義隊を討伐
     9月 江戸を東京と改称
    10月 新政府軍、会津若松城を攻撃(11月、会津藩降伏)
    明治天皇、即位の大礼、明治と改元
    11月 天皇、京都出発(69年1月、京都に帰る)
    江戸城を皇居とし東京城と改称
      69年  1月 旧幕府海軍副総裁・榎本武揚ら蝦夷地を占領
     2月 米英蘭仏独伊の6か国、局外中立を解除
     3月 薩長土肥4藩主、版籍奉還を上奏
     5月 天皇、太政官を東京に移設(東京遷都)
     6月 箱館(函館)総攻撃、五稜郭開城。戊辰戦争終わる

    • 榎本武揚
      榎本武揚

     旧幕府の将兵は、1868年の江戸城明け渡しに伴う武器・艦船の引き渡しに反発し、大量脱走を図ります。開城当日の5月3日夜、旧幕府海軍副総裁の榎本(えのもと)武揚(たけあき)が、艦船ともども房州(千葉県)館山方面へ逃れます。一方、歩兵奉行・大鳥圭介(おおとりけいすけ)(1833~1911年)らは、兵を引き連れて、徳川宗廟(そうびょう)の地・日光をめざします。

     百姓一揆やゲリラ戦も各地で頻発(ひんぱつ)し、関東一帯は、騒然とした空気に包まれました。

    太政官に権力集中

     江戸開城後の6月11日、京都の新政府は「政体書(せいたいしょ)」を定め、政府組織の整備を図ります。

     それによると、「太政官(だじょうかん)」と称する中央政府に国家権力を集中させ、それを立法・行政・司法の三権に分け、それぞれ議政官・行政官・司法官という名の組織を置きました。

     この太政官制度は、五箇条の御誓文の趣旨に基づいて、米欧の三権分立を参考に、副島(そえじま)種臣(たねおみ)福岡(ふくおか)孝弟(たかちか)らが考案しました。

    • 大村益次郎
      大村益次郎

     議政官は、議定(ぎじょう)・参与からなる「上局」と、貢士(こうし)(諸藩からの出仕者)からなる「下局」で構成し、行政官には、神祇官(じんぎかん)、会計官、軍務官、外国官、刑法官が置かれて知事・判事らが任命されました。「官員の任期は4年で公選」(実際の実施は1度だけ)するとしていました。

     議定には、天皇を補佐する輔相(ほそう)の、三条実美・岩倉具視らが就きました。参与には、木戸孝允、大久保利通、広沢真臣(さねおみ)、後藤象二郎、福岡や副島、由利公正(きみまさ)、横井小楠(しょうなん)らが就任します。

     軍務官では大村益次郎(ますじろう)(1825~69年)、外国官では伊藤博文、井上(かおる)、大隈重信らが命じられ、彼らが維新政府の一線で政策を主導していくことになります。 

     ただし、明治初めの官制は、その後も目まぐるしく変わり、人事の動きもあわただしいものがあります。

    上野・彰義隊の戦い

    • 上野公園内に建てられた彰義隊墓所(東京都台東区)
      上野公園内に建てられた彰義隊墓所(東京都台東区)

     江戸城下では、68年3月16日、慶喜を支持する旧幕臣らが「薩賊討滅」を合言葉に「彰義隊(しょうぎたい)」を結成します。

     その後、江戸開城に憤る兵たちが続々と参集し、慶喜守衛を目的に上野寛永寺(徳川家の菩提寺)に屯所を設置。隊員数は2000人以上に膨れあがります。

    彼らは、輪王寺(りんのうじ)門主の公現法親王(こうげんほうしんのう)(輪王寺宮)に接近します。同寺執当の覚王院義観(かくおういんぎかん)が彰義隊の熱心な支援者でした。彰義隊は、市中を巡回し、官軍と小競り合いを繰り返します。慶喜は懸念を示し、山岡鉄舟や勝海舟らが隊員の暴走を(いさ)めますが、聞き入れません。

     これに対し、新政府側は5月、長州藩の洋式兵学者で軍防事務局判事・大村益次郎を東京に派遣し、軍を指揮するよう命じました。大村は、上野包囲作戦を立て、梅雨の季節の7月4日、彰義隊攻撃に踏み切ります。

     寛永寺正面の黒門口に薩摩藩兵を配していた大村の計画書をみて、西郷隆盛は、「薩兵を皆殺しにする朝意でごわすか」と問うたといわれます。当日、大村が江戸城から戦場を観望していたのに対し、西郷は黒門口に出動して戦闘を指揮しました。

     肥前(佐賀)藩がイギリスから輸入したアームストロング砲などが威力を発揮し、戦いは夕刻までに終結します。

     戦いに勝利した新政府軍の死者は34人、反政府軍は260人と言われています。政府軍の死傷者は薩摩に多く、彰義隊は半数が死傷したとされます。敗走した生存者の多くは、このあと会津や函館での戦争に加わります。

    大阪遷都構想

     新政府の内国事務掛(じむがかり)(内務相)・大久保利通は68年2月、朝廷に「大阪遷都の建白書(けんぱくしょ)」を提出しました。

     そこには、<数百年来の因循(いんじゅん)腐臭を一新し、官武の別なく天下万人が感動涕泣(ていきゅう)する(涙を流して泣く)ほどのことを実行することが急務>であり、<わずかな公卿しか拝顔できない存在だった天皇の、民の父母たる天賦(てんぷ)の役割を踏まえると、大変革すべきは京都からの遷都の典>であると書かれていました。

     旧態依然の京都を去るべきだと言う大久保は、あわせて、今後、天皇は表の御座所に出て政務を行うこと、その際は女官の出入りを厳禁すること、天皇は内外情勢について学び乗馬の訓練をすることなどを柱とする天皇・宮中改革案を岩倉具視に提言しました。

     しかし、この遷都論は公家たちの抵抗にあって否決されてしまいます。そこで大久保は、今度は大阪への「行幸(ぎょうこう)(天皇の外出)」を企画します。官軍の最高司令官としての「親征(天皇自らの征伐)」という位置づけでした。

     天皇は4月半ば、「葱華輦(そうかれん)」(天皇の乗物の一種)に乗って京都を出発、大阪に約50日間滞在し、その間、天保山(てんぽうざん)沖で艦隊演習を天覧しました。
     天皇の大阪滞在中、大久保と木戸孝允は、それぞれ初めて天皇と会見の機会を得ます。二人とも、天皇との面会を「未曽有(みぞう)の事」ととらえ、「余一身の仕合(しあわせ)、感涙の(ほか)これなく(そうろう)」などと日記に書いています。

    東京遷都を実現

    • 前島密
      前島密

     大阪遷都が進まない中、大久保に宛てて江戸への遷都を提言したのが、近代郵便制度の創設者としても知られる、旧幕臣の前島密(まえじまひそか)(1835~1919年)でした。

     江戸遷都の理由として前島は、東京は大阪と違って、官庁、学校、藩邸、住宅などのインフラがある、宮城も江戸城を修築すれば足りるので国費が節約できる、江戸を首都にしないと市民は四散してしまい、世界の大都市(江戸)が荒涼とした「大寒市」に変じてしまう――ことを挙げていました。

     ちなみに東京の町人人口は、徳川家の駿河移封後の69年4月調査で、50万3703人という数字が残っています。

    • 江藤新平
      江藤新平

     ついで大総督府軍監・江藤新平らが5月、「東西2京設置案」を岩倉に提出します。「(みやこ)は京都」にこだわる公家や京都周辺の世論に配慮した案でした。

     これと前後して、木戸孝允が「京都をもって帝都となし、大阪を西京、江戸を東京として時宜(じぎ)にしたがって東西巡幸する」という案を出します。大阪遷都論の大久保も、徳川氏を駿府に移し「江戸を東京とすることが良策」であると、東京遷都を支持します(東京都発行『東京百年史』第2巻)。

     戊辰戦争の舞台が関東から東北、そして北海道へと移行するにつれ、新政府の管轄地域も拡大し、国内統一が急がれるようになります。とくに東京が政治的にも軍事的にも重要性を増してきていたことが、東京遷都論に弾みをつけたとみられています。

     9月3日、天皇は江戸を東京と定める「東京奠都(てんと)」の詔書を出します。

     東京府庁が置かれ、天皇の東京への行幸が発表されました。これには再び、京都の側が、「東京遷都につながる」として激しく反発します。

     政府内にも慎重論が出ましたが、江藤や大久保らは「戊辰戦争とそれによって()き起こされた国内の人心の動揺をおさめ、国内統一を実現するためには、ぜひとも天皇を中心としたネーション・ステイト(国民国家)をつくるべきだ」として、反対論を押し切ったといわれます(松本健一『開国・維新』)。

    新しい天皇像

    • 東京入城東京府京橋之図(月岡芳年画、明治大学博物館蔵)
      東京入城東京府京橋之図(月岡芳年画、明治大学博物館蔵)

     10月12日、天皇は日本古来の儀式にのっとり、即位の大礼を挙げます。その前日には天皇誕生日(旧暦9月22日)を国民の休日(「天長節(てんちょうせつ)」)と定め、23日には「明治」と改元されました。

     明治元年の11月4日、天皇は「鳳輦(ほうれん)」に乗って京都を出発し、東京に向かいました。天皇の行列には、衣冠(いかん)狩衣(かりぎぬ)姿の公家らが従い、(とも)は約2300人に達し、長州・土佐など6藩兵が警固にあたりました。途中、熱田神宮に参詣し、農民の稲刈りを見物し、大磯の海岸では地引き網を見て楽しみました。

     東京市民は天皇行幸を歓迎しました。東京府は名主らに対し、火元に注意すること、道筋の掃除を入念に行うこと、羽織袴(はおりはかま)を着用して迎えることなど種々の準備を指示しました。

     明治天皇の父である孝明天皇が63年に賀茂社に行幸するまで、歴代天皇は200年以上、京都御所の外に出なかったといわれます。

     大久保利通らは、これからの天皇はヨーロッパの帝王のように国内を歩いて民衆と積極的に接することが必要と考えていました。その意味で、東京行幸は「見えない天皇から見える天皇」への「劇的な変貌」でした(佐々木克『幕末の天皇・明治の天皇』講談社学術文庫)。

     新政府の威光を印象づけ、国民統合のシンボルとしての役割を期待された明治天皇は、その後、72(明治5)年から大かがりな巡幸を6回行って全国を回ります。

     それは終戦直後の1946(昭和21)年から「地方巡幸」を始め、「象徴天皇」として全国各地を訪れた昭和天皇の姿と重なるところがあります。

     明治天皇は1868年11月26日、東京に到着すると、江戸城を東京城と改め、皇居にすることを布告しました。

     69年1月20日、天皇は東京を出発し、京都に還幸(行幸先から戻ること)します。2月3日に京都入りし、孝明天皇の三回聖忌を行ったあと、天皇の花嫁である一条美子(はるこ)入内(じゅだい)(皇后に決まった女性が正式に宮中に入ること)しました。

     天皇は4月18日、再度東京へ向かい、5月9日東京城に到着します。東京城の呼称を「皇城」と改め、太政官を皇城内に設置しました。これが事実上の東京遷都となります。新しい都の誕生は、平安京遷都(794年)以来のことでした。

    【主な参考・引用文献】

    ▽ドナルド・キーン『明治天皇(一)』(角地幸男訳、新潮文庫)▽絲屋寿雄『大村益次郎―幕末維新の兵制改革』(中公新書)▽金子常規『図解詳説 幕末・戊辰戦争』(中公文庫)▽佐々木克『戊辰戦争』(中公新書)▽奥田晴樹『維新と開化』(吉川弘文館)▽笠原英彦『明治天皇―苦悩する「理想的君主」』(中公新書)▽竹内誠ら『東京都の歴史』(山川出版社)

    2017年05月31日 05時20分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
    プロフィル
    浅海 伸夫 (あさうみ・のぶお
    1982年から18年間、読売新聞の政治部記者。その間に政治コラム「まつりごと考」連載。世論調査部長、解説部長を経て論説副委員長。読売新聞戦争責任検証委員会の責任者、長期連載「昭和時代」プロジェクトチームの代表をつとめた。現在は調査研究本部主任研究員。
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