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    世界史と日本史を融合した新しい近現代史を物語風に紹介します。

    <維新政府、変革の序章>第5回~異彩を放つ「北方政権」

    「会津・庄内を討て」

     戊辰戦争の舞台は東北地方に移ります。

     官軍の照準はぴたり「朝敵・会津」です。新政府は1868年2月10日、仙台藩に対し「会津藩追討令」を出します。あわせて秋田、盛岡、米沢の各藩には、仙台藩を支援するよう命じました。

     会津を討つか、救うか、仙台藩内部の意見は分かれましたが、首席家老らは、「会津征討」に強い疑問を抱いていました。

     新政府側は、鳥羽・伏見の戦いで、幕府・会津側が先に発砲したことを「朝敵」の理由に挙げていました。ところが、徳川方は薩摩勢の発砲にやむを得ず応戦したと主張し、明確でなかったからです。

     それだけではありません。徳川慶喜は政権を返上し、朝廷に背く意図もない以上、追討の必要はない。そもそも、「禁門の変」で朝敵とされた長州藩には、「寛大な処置」がとられたではなかったか。加えて、再び内戦となれば、諸外国はいかなる動きに出るか計り知れず、国辱を万国にさらすことになる――。

     こうした維新政府への批判が「会津追討反対」の声を広げていきます。

     新政府の奥羽鎮撫(ちんぶ)総督府の九条道孝(みちたか)一行が4月中旬、京都から仙台入りし、仙台・米沢両藩に対して出兵を迫りました。次いで、仙台・天童・秋田各藩に対して、庄内藩(山形県北西部、酒田・鶴岡)追討を命じます。

     庄内藩は、戊辰戦争開始直前の江戸薩摩藩邸焼き打ち事件(68年1月)を主導したことで「朝敵」とされたようです。

    奥羽越列藩同盟

    • 奥羽越列藩同盟旗
      奥羽越列藩同盟旗

     もはや交戦は必至とみた会津藩と庄内藩は、同盟(会庄同盟)を締結します。

     仙台・米沢藩は、会津藩に「恭順」を勧めますが、同藩は抵抗し、会津藩主・松平(まつだいら)容保(かたもり)の城外謹慎、領地削減という条件でようやく折り合います。

     5月末、仙台・米沢両藩は、秋田、盛岡など奥羽諸藩に呼びかけ、仙台藩領・白石(しろいし)で列藩会議を開きます。席上、会津藩に寛大な処置を求める嘆願書に14藩が署名しました。各藩とも、政府軍の進撃を抑え、戦争を回避しようとしていたのです。

     しかし、九条総督は、仙台・米沢両藩主の嘆願を却下しました。強硬論者の総督府参謀・世良修蔵(せらしゅうぞう)(長州藩)の意見に押されたようです。

     殺気立つ仙台藩士らが、傍若無人で鳴る世良を暗殺します。これを機に諸藩と新政府との対立はエスカレートします。

     6月22日、各藩代表は、「大義を天下に」とうたった奥羽列藩盟約書と太政官建白書に署名しました。3日後には、長岡、新発田(しばた)など北越諸藩も同調し、ここに31藩からなる「奥羽越列藩同盟」が成立しました。

    奥羽政権の夢

     列藩同盟は、上野戦争から逃れ、会津入りした輪王寺宮(りんのうじのみや)公現法親王(こうげんほっしんのう)を「同盟の盟主」として担ぎます。

     総督には仙台、米沢の両藩主が就き、参謀には小笠原長行(おがさわらながみち)板倉勝静(いたくらかつきよ)の旧幕府重鎮を充てます。白石城には「公議所」が設置され、諸藩の重役たちが軍事・会計・民政などについて評議することになりました。

     列藩同盟は、こうして「盟主」を頂点に、権力の執行体制を整えました。その意味で、同盟は、「明らかに京都政権に対抗する、地方政権=奥羽政権としての意識と実態をもって」いたのです(佐々木克著『戊辰戦争』)。

     同盟の戦略立案にあたった一人に、仙台藩士の玉虫左太夫(たまむしさだゆう)がいました。玉虫は、1860年、日米修好通商条約の批准書交換のため、初訪米した幕府使節団の正使・新見(しんみ)正興(まさおき)の従者でした。アメリカで見聞を深めた国際派の玉虫は、アメリカの「共和政事」を最終目標に置いていたといわれます。

     攻守同盟の性格を強めた同盟は、戦闘態勢に入り、戦線は太平洋岸や会津国境、北越方面へと拡大していきます。

    河井継之助の戦い

    • 河井継之助
      河井継之助

     北越戦争の焦点は、長岡城の攻防でした。

     譜代の名門・長岡藩は、同盟に加わる以前は、中立的な立場をとっていました。しかし、鳥羽・伏見の戦いの後、家老・河井継之助(かわいつぐのすけ)(1827~68年)は、江戸藩邸などを売り払って数万両を得ると、外国商人から最新の銃砲・弾薬を購入しました。横浜で荷積みをし、箱館経由で新潟に送ります。

     新潟港は当時、武器補給港の様相をみせ、プロイセンの武器商人であるスネル兄弟らが暗躍していました。河井が帰藩した船には、兄の会津藩主・容保とともに「朝敵」とされた桑名藩主、松平定敬(さだあき)一行も同乗していました。

     北陸制圧をめざす政府軍が、会津藩の飛び地だった小千谷(おぢや)を占領します。6月21日、河井は、東山道軍軍監・岩村精一郎(土佐藩士)と会談し、政府軍の進撃阻止を要請しますが、岩村がはねつけました。

     談判決裂を受け、会津、桑名、長岡の連合軍と政府軍との戦闘が開始されます。北陸道鎮撫(ちんぶ)総督兼会津征討総督参謀・山県有朋(やまがたありとも)らは7月8日、信濃川の渡河作戦を敢行して長岡城を占領しました。

     これに対して、河井が率いる同盟軍は9月10日、2か月ぶりに長岡城を奪回しますが、河井は銃弾を受けて負傷し、5日後には敗退します。ついで新潟も政府軍に占領され、越後平野は平定されました。

    「白虎隊」の悲劇

     東北の諸勢力を結集した列藩同盟にも、ほころびが出ます。

     秋田藩の同盟離脱です。仙台を脱出した九条総督一行が8月中旬、盛岡から秋田に到着し、政府軍兵士も総結集すると、その圧力の前に、秋田藩は藩論を転換したのです。

     秋田藩と政府の連合軍は、庄内藩へ進撃しました。しかし、庄内藩は、領内侵攻を食い止めただけでなく、逆に秋田藩を追いつめるなど奮戦しました。

     会津藩主・松平容保は、江戸から会津に帰った68年3月以降、軍制改革に取り組みました。同藩の総兵力は7000余でしたが、部隊を年齢別・身分ごとに再編成し、この中で16、17歳を対象にした部隊が「白虎隊(びゃっこたい)」でした。

    • 白虎隊自刃の地
      白虎隊自刃の地

     政府軍に立ち向かう会津藩に衝撃の報が伝わります。長岡城陥落の日(9月15日)、列藩同盟の二本松が政府軍の急襲を受けて落城しました。そして同盟の盟主・仙台藩が戦線を離脱したのです。

     板垣退助(土佐藩)、伊地知正治(いじちまさはる)(薩摩藩)両参謀を司令官とする政府軍にとって戦機到来です。10月8日早朝、政府軍は若松城(通称・鶴ヶ城)下に侵攻します。

     激しい戦闘に疲れ果て、飯盛山(いいもりやま)にたどり着いた白虎隊士20人は、火に包まれ砲煙をあげる市内を見下ろし、もはや落城とみるや、お互い差し違えるなどして、うち19人が悲劇的な最期を遂げます。

     市中では、籠城戦の足手まといになることへの懸念や、会津滅亡への絶望感から、女性や子供たちの自害が相次ぎました。家老・西郷(さいごう)頼母(たのも)の家では、母、妻、妹2人、娘5人の計9人が自刃しています。

    • 「中野姉妹 柳橋出陣の図」渡部雅堂画
      「中野姉妹 柳橋出陣の図」渡部雅堂画

     逆に登城して戦う女性もいました。砲術師範役・山本覚馬(かくま)の妹八重は男装して7連発銃をかつぎ、軍事総督・山川大蔵(おおくら)の母、妻、妹たちも薙刀(なぎなた)を手に城に入ります。藩士の娘・中野竹子、妹の優子らの「娘子軍(じょうしぐん)」も、弾丸が飛び交う中、奮闘しました。

     山川は、幕府外国奉行・小出秀実のロシア使節団に随行した経験をもつ、若きリーダーでした。実弟の山川健次郎は、白虎隊に編入されましたが、幼すぎるなどとして除隊させられました。彼は後年、東京帝大総長になります。

    • 戊辰戦争直後の若松城(鶴ヶ城)天守東面(福島県会津若松市教育委員会蔵)
      戊辰戦争直後の若松城(鶴ヶ城)天守東面(福島県会津若松市教育委員会蔵)

     若松城を包囲した政府軍は、50門の大砲からすさまじい砲撃を繰り返し、天守閣にも命中します。一昼夜に2700発の弾丸が撃ち込まれたとも言われています。

     1か月にわたる籠城戦の末、11月5日、弾薬も食糧も尽きた会津側は、「降参」と大書した白旗を立てます。万国公法に基づく白旗は、包帯などで白布を使い尽くしたため、女性たちが白い小片(こぎれ)を縫い合わせてつくりました。

     会津攻防戦で死亡した兵士は、反政府軍2557人(うち女性194人)、政府軍は395人といわれます。会津藩の奮戦ぶりは、「会津士魂(あいづしこん)」や「婦人の(かがみ)」などと(たた)えられ、胸打つものがあります。

     ただし、白虎隊や娘子軍、民間の老若男女を多数巻き込んだあげくの敗戦は、人事や作戦、用兵の誤りが指摘されており、当時の会津藩首脳陣の責任は免れがたいようです。

    五稜郭の「榎本政権」

    • 五稜郭
      五稜郭

     北海道・函館に「五稜郭(ごりょうかく)」という名の洋式城郭があります。

     江戸幕府が北辺防備のため、箱館奉行所として1857年に着工し、7年かがりで64年に完成させました。蘭学者の武田斐三郎(あやさぶろう)がフランスの築城書などを参考にして設計したものでした。

     ここが戊辰戦争の最後の舞台になります。主役は旧幕府海軍副総裁の榎本武揚です。

     68年10月4日、榎本は、勝海舟らの再三の自重要請を振り切って、艦隊とともに品川沖から北方へ向かいます。艦隊は「開陽」「回天」「咸臨(かんりん)」など計8艦で、フランス軍人10人が参加していました。

     新政府に対して送った文書は、「今の王政は天下の輿論(よろん)を尽くしていない、一、二の強藩の私意に基づくものだ」と批判し、「徳川家の遺臣」の生計維持のため、「蝦夷(えぞ)(北海道)開拓」を認めるよう求めていました。

    • 土方歳三(国立国会図書館ウェブサイトより)
      土方歳三(国立国会図書館ウェブサイトより)

     榎本軍は、12月はじめ箱館から40キロの地点に上陸しました。東北で戦って敗れた旧幕府の松平太郎(陸軍奉行)や大鳥圭介(歩兵奉行)、竹中重固(たけなかしげかた)(陸軍奉行)、板倉勝静(備中松山藩主)、小笠原長行(唐津藩世子)、土方歳三(ひじかたとしぞう)(新選組副隊長)らを仙台で乗せており、総勢は2500人を超えていました。

     箱館府の政府軍を圧倒し、五稜郭と箱館を手中に収めた榎本軍は69年1月、各国領事に対して蝦夷地の領有を宣言しました。

     この「榎本政権」は、首脳陣の人事を陸海軍士官の投票で決めました。総裁には榎本武揚が圧倒的多数の票を得て選ばれました。

     政府勢力を打ち破って誕生した榎本政権は「サムライの共和国」とも称されますが、天皇の新政府に敵対する意図はなく、新政府の下で徳川家臣団の生き残りを図ることが真意だったようです。

     箱館に派遣されたイギリス、フランスの軍艦の両艦長は、いったん榎本政権を「事実上の権力」と認めましたが、イギリス公使のパークスは、すでに「内戦は終結した」との判断を示し、2月9日、米英蘭仏独伊の6か国公使は、そろって局外中立解除を布告、榎本軍は反乱軍となってしまいます。

     政府側はこれにより、アメリカの甲鉄艦「ストーン・ウォール号」を手に入れます。これは、日本の最強艦「開陽」が荒天で沈没してしまい、海上優位を失った榎本軍を打倒するための切り札になります。

     政府軍は春5月、反撃に移って松前を攻略し、6月20日、箱館総攻撃に出ます。榎本政権の海軍奉行並に就いていた土方は戦死し、甲鉄艦の艦砲射撃が容赦なく五稜郭を襲います。

     22日、政府軍参謀の黒田清隆が榎本らに降伏を勧告しました。榎本は、オランダ留学から持ち帰った海事国際法『海律全書』を黒田に託し、黒田は酒5(たる)を榎本陣営に贈ったというエピソードが残っています。5日後、戊辰戦争は終わりました。

     

    【主な参考・引用文献】

    ▽佐々木克『戊辰戦争』(中公新書)▽星亮一『会津落城』(中公新書)▽星亮一『奥羽越列藩同盟』(中公新書)▽保谷徹『戦争の日本史18 戊辰戦争』(吉川弘文館)▽金子常規『図説詳説 幕末・戊辰戦争』(中公文庫)

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    2017年06月14日 05時20分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
    プロフィル
    浅海 伸夫 (あさうみ・のぶお
    1982年から18年間、読売新聞の政治部記者。その間に政治コラム「まつりごと考」連載。世論調査部長、解説部長を経て論説副委員長。読売新聞戦争責任検証委員会の責任者、長期連載「昭和時代」プロジェクトチームの代表をつとめた。現在は調査研究本部主任研究員。
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