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    世界史と日本史を融合した新しい近現代史を物語風に紹介します。

    <維新政府、変革の序章>第7回~「明治国家」誕生のとき

    藩支配に限界

     1869(明治2)年6月に終わった戊辰戦争は、日本社会に何を残したでしょうか。

     第1は、巨額の戦費負担によって、各藩の財政を急速に悪化させました。各藩とも、出兵費用や、軍艦・武器・弾薬購入に充てるため、有力商人や外国から多額の借金を重ねました。

     第2は、戦乱の被害を受け、軍役にもかり出された農民たちの一揆が、全国的に頻発(ひんぱつ)しました。北会津地方でも、会津攻防戦終結後の68年11月、農民たちが蜂起して名主らを襲撃する事件が起きています。

     つまり、戦争は、藩財政の行き詰まりだけでなく、藩による治安維持でも弱点を露呈させ、藩支配の瓦解を促すことになりました。 

     こんな「藩解体」を尻目に、維新政府は68年6月、自らへの権力集中を図るため、政府組織の整備に乗り出します。そこで出された「政体書」で、地方は、府・藩・県の三つに区分されました(府藩県三治(ふはんけんさんち)体制)。旧幕府などから接収した直轄地に「府」(東京・京都・大阪など)と「県」を設置。そのほかの大名領は旧来の「藩」のままとし、府には「知府事」、藩には「諸侯」、県には「知県事」を置きました。

     政府はその後、藩家老の門閥世襲制度をやめさせるなど、藩への介入を強めます。いずれ藩を政府に吸収・統合しようとする狙いのもと、戊辰戦後に打ち出されたのが「版籍奉還(はんせきほうかん)」です。これは「すべての土地(版)と人民(籍)は天皇の所有である」という「王土王民(おうどおうみん)」思想に基づき、藩主から土地・人民の支配権を天皇に返上させるものでした。

    「版籍奉還」を促す

    • 木戸孝允(国立国会図書館ウェブサイトより)
      木戸孝允(国立国会図書館ウェブサイトより)

     版籍奉還を初めて唱えたのは、薩摩藩士の寺島(てらしま)宗則(むねのり)(1832~93年)と、長州藩士の木戸孝允(たかよし)でした。木戸は、薩摩藩の大久保利通、小松帯刀(たてわき)らと会談して、版籍奉還で基本合意にこぎつけ、土佐藩、肥前藩もこれに加わります。

     69年3月2日、長州、薩摩、肥前、土佐の4藩主が連署して版籍奉還を建白しました。他の全国の藩主たちも、西南雄藩の薩長土肥に遅れまいと、これを追いかけます。

     ただ、藩主の多くは、いったん版籍を奉還した後は、天皇から「再交付」のお墨付きをえて、藩主の地位のまま、藩を再建しようと考えていたようです。

     というのは、建白書は、「願わくは、朝廷その(よろしき)に処し、その与うるべきはこれを与え、その奪うべきはこれを奪い」などと、あたかも所領を再確認するような一文が挿入されていたからです。

     木戸は後日、「用術施策」を使ったと告白していますが、結論を先に言うなら、「再交付」はなされず、藩主たちの期待は裏切られます。まるで「捕らぬタヌキの皮算用」に終わった藩主は、「用術」ならぬ「妖術(ようじゅつ)」にひっかかったといえるかもしれません。

     それでも、版籍奉還はあくまで「公論」で決めようと、諸藩選出の公議人でつくる「公議所」に諮問されたことは、注目に値します。

     そこでの議論の中心は、「封建」か「郡県」かでした。封建は、諸侯による分割統治で、郡県は、中央政府が全国に郡県を置く中央集権の制度です。徳川幕府が「封建」とすれば、維新政府がめざすのは「郡県」でした。

     公議所の結論は、藩体制維持を前提とした封建・郡県の折衷案でした。

     これを受けて同年7月25日、版籍奉還が勅許されます。これにより、274藩主が非世襲の知藩事に任命されました。旧藩主らは、これまでの領有権を否定されたうえで、天皇の土地を管轄する一地方長官になりました。

     ただ、藩名は残され、旧藩主は、公家と並ぶ「華族」の称号と、歳入の10分の1にあたる家禄(かろく)(報酬)が与えられました。また、藩士や旧幕臣は「士族(華族の下、平民の上)」となります。

     この直前には、戊辰戦争の軍功に賞典禄・賞金が下賜されており、これが反対を和らげたと言われています。

    長岡藩の「米百俵」

    • 小林虎三郎
      小林虎三郎

     版籍奉還間もない69年9月、高崎藩(群馬)で年貢減免を求める農民4300人が蜂起します。11月には、凶作に苦しむ新川県(富山)でも大規模な農民反乱が起きるなど、一揆はやむことを知りませんでした。一方、領地を削られた「朝敵」諸藩や、中小の諸藩は、財政破綻に陥り、自主的に「廃藩」を申し出るところが出てきます。

     戊辰戦争で敗北し、小藩に転落した長岡藩もその一つでした。

     70年6月、支藩・三根山(みねやま)藩の士族から、困窮状態にある長岡藩の士族に見舞米100俵が贈られました。その時、長岡藩の士族は、米を分配するよう要求しましたが、大参事・小林虎三郎(とらさぶろう)(1828~77年)はこれを退けます。

     この逸話は、昭和戦争時の1943年、作家・山本有三が、戯曲化して初演されました。

     劇中、虎三郎は藩士たちをこんなふうに説得します。(『米百俵』新潮文庫)

     「百俵ばかりの米を家中の者たちに分けてみたところで、一軒のもらいぶんは、わずかに二升そこそこだ。一日か二日で食いつぶしてしまう。あとに何が残るのだ。おれは、この百俵の米をもとにして、学校を立て、道場を設けて、子どもを仕立てあげてゆきたいのだ。この百俵は、今でこそただの百俵だが、後年には一万俵になるか、百万俵になるか、はかり知れないものがある。その日暮らしでは、長岡は立ち上がれない。あたらしい日本はうまれないぞ」

    • 米百俵の群像(新潟県長岡市)
      米百俵の群像(新潟県長岡市)

     虎三郎は、佐久間象山の門下で吉田松陰(寅次郎)とともに「両トラ」と並び称された俊才でした。戊辰戦争では河井継之助らを批判して非戦論を唱えていました。

     この『米百俵』は2001年、小泉純一郎首相が所信表明演説で取り上げ、広く知られるようになりました。

     長岡藩は1870(明治3)年11月、廃藩となり、柏崎県に併合されます。同じく「朝敵」の盛岡藩も、それに先立つ8月に廃藩を選択し、盛岡県になります。このように廃藩置県が実施される前に、自主的に廃藩を申請した藩は13に上りました。

    「御親兵」創設

    • 「キヨソネ筆 西郷隆盛肖像画」(鹿児島県歴史資料センター黎明館蔵)
      「キヨソネ筆 西郷隆盛肖像画」(鹿児島県歴史資料センター黎明館蔵)

     版籍奉還後、政府内で兵制改革論議が活発化します。69年10月には、新政府の軍政・軍令の中心にいた兵部大輔(たいふ)・大村益次郎が、京都で長州藩士らに襲撃されて重傷を負い、2か月後に死亡します。兵制改革によって士族の特権がおびやかされることに対して反発した攘夷(じょうい)派浪士たちの犯行でした。

     当時は、戊辰戦争に参加した兵士の間で、賞罰の不公平や幹部の不正などに対して憤りの声が広がっていました。これに火がついたのが、奇兵隊など長州諸隊の脱退騒動(70年2月)です。隊員の半数に上る約1200人が藩に反旗を翻したといわれています。

     かねて「尾大(びだい)の弊」(尾が大きすぎて自由に動かせない状態のこと。転じて、臣下のパワーが君主の権力を拘束すること)という表現で、兵士らの動きに頭を痛めていた同藩の木戸は、先頭に立って反乱を鎮圧しました。

    • 御親兵の編成(太政類典、国立公文書館)
      御親兵の編成(太政類典、国立公文書館)

     一方、多数の凱旋(がいせん)兵士を抱えた薩摩藩では、帰郷した西郷隆盛が藩内にとどまったまま、中央政府の役人の「無定見」な内外政策や贅沢(ぜいたく)な生活ぶりに批判を強めます。加えて同藩が在京の藩兵を引き揚げたため、「薩摩は蜂起するのではないか」といった風聞が流れます。

     危機感を抱いた政府は、薩長の提携強化と西郷への説得工作によって事態の沈静化をはかり、西郷もようやく政府入りします。

     71年4月、維新政府は、薩摩・長州・土佐3藩の歩兵・砲兵合計1万を親兵として差し出すよう命じました。これは西郷の政策提言を取り入れたもので、この「御親兵」は翌年、「近衛兵」に改称されます。

     戊辰戦争では、政府軍といっても、それは薩長両藩など倒幕派の連合軍でした。政府は、親兵によって自前の軍隊をもつと同時に、戊辰戦争で膨らみ過ぎた藩の軍事力をうまく吸い上げることができました。

     8月11日、政府は、派閥対立でギクシャクする首脳らの人事を刷新し、木戸孝允を除く参事全員が辞職。薩摩藩大参事の西郷と木戸が参事に就任し、両人による連立体制が生まれます。

    「廃藩置県」を断行

    • 廃藩置県の詔書(太政類典、国立公文書館)
      廃藩置県の詔書(太政類典、国立公文書館)

     こうした中、維新政府が、クーデター的に断行したのが「廃藩置県」でした。

     これは、長州藩の鳥尾小矢太(とりおこやた)と野村靖が、兵部少輔(しよう)山県有朋(やまがたありとも)と懇談し、「郡県の治」(廃藩)の実施で一致したのが始まりです。これに井上馨、木戸が同意し、同藩の合意が形成されます。

     山県は8月21日、西郷の意見を聞くため、西郷邸を訪ねると、西郷は即座に同意しました。思いもよらぬ西郷の即決ぶりに、山県の方が度肝を抜かれたようです。

     27日、木戸、西郷、大久保が会談して、廃藩置県の大綱が決定されます。これを直前に知らされた岩倉具視(ともみ)は、「狼狽(ろうばい)」したと言っています。

     29日、天皇は、在京56藩知事らを急きょ呼び出し、「今更に藩を廃し県と為す」と、廃藩置県の詔書を出しました。

     翌30日、政府首脳の会議で今後の処置を声高に議論していた際、西郷が、「この上、もし各藩にて異議が起こったならば、兵をもって撃ち(つぶ)します」と発言すると、議論はピタリと止まりました。

     維新政府が抜き打ち的に廃藩置県を実施したのは、農民一揆の多発や自発的廃藩の動きを背景に、財政が苦しい政府に諸藩の税源を集中させ、その税収を殖産興業や富国強兵に充てる計算がありました。とくに西洋的な軍隊をつくるため、軍制を一元化し国民皆兵を実施するには、廃藩置県はぜひとも必要なことでした。

    明治維新「第2の革命」

    • 司馬遼太郎氏
      司馬遼太郎氏

     作家の司馬遼太郎氏は、廃藩置県は、「明治維新(王政復古)以上に革命的」と書いています(『「明治」という国家』。君臨してきた大名が一夜にして消滅し、たくさんの士族が「平等に失業」したからです。

     確かに、版籍が奉還されて2年()ち、廃藩を望む藩もありました。知藩事に対しては家禄を保証するなど優遇策が採られ、士族も家禄の大幅カットが進みながらも、しばらくの間の生活は保障されていました。

     しかし、それにしても、この「政治的破壊作業」が、大名の側に一例の反乱もなく行われたのはなぜなのか。

     司馬氏は、幕末以来、米欧による侵略や植民地化に対して「日本人が共有していた危機意識」と、「日本国意識(国家を、破片の藩として見ず、日本国全体を運命共同体としてみる意識)」によるものと書いています。

     当時、福井藩のお雇い外国人教師だった、アメリカ人のウィリアム・グリフィスは、廃藩置県の報が同藩に届き、武家の間に激しい興奮が渦巻く中でも、「ちゃんとした武士や有力者は、福井のためでなく、国のために必要なことで、国状の変化と時代の要求だと言っている」と日記に記しています。そして彼らは、「これからの日本は、あなたの国やイギリスのような国々の仲間入りができる」とも言ったそうです。

    • 島津久光(国立国会図書館ウェブサイトより)
      島津久光(国立国会図書館ウェブサイトより)

     もちろん、士族反乱や百姓一揆は続きます。しかし、ペリー来航以降、顕在化した幕藩体制の限界や藩の身分秩序の崩壊は、下級武士たちを中心に共通の「時勢認識」を生み出し、これが「第2の明治革命」を成就させたのです。

     藩主の中でも、反発が心配されていた薩摩藩知藩事の父、島津久光は、西郷や大久保の専断を非難し、のちのちまで西郷らを悩ませるのですが、この時は「邸中に花火をあげ、噴気(ふんき)を漏らされたり」と、花火で鬱憤(うっぷん)を晴らして終わりました。

     261を数えていた藩は、廃藩置県によってそのまま県となり、それまでの府県と合わせ3府302県となりました。旧藩主の知藩事は免官され、府県の長官は政府によって新たに任命されます。

     ついに徳川の藩体制に終止符が打たれ、中央集権国家としての「明治国家」がここにスタートを切ることになるのです。


    【主な参考・引用文献】

    ▽勝田政治『廃藩置県―近代国家誕生の舞台裏』(角川ソフィア文庫)▽落合弘樹『秩禄処分』(講談社学術文庫)▽松尾正人『廃藩置県―近代統一国家への苦悶』(中公新書)▽升味準之輔『日本政党史論 第一巻』(東京大学出版会)▽福地惇『明治新政権の権力構造』(吉川弘文館)▽三谷博『明治維新を考える』(岩波現代文庫)▽田中彰『明治維新』(岩波ジュニア新書)▽『司馬遼太郎全集54』(文藝春秋)▽グリフィス『明治日本体験記』(山下英一訳、東洋文庫)

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    2017年07月12日 05時20分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
    プロフィル
    浅海 伸夫 (あさうみ・のぶお
    1982年から18年間、読売新聞の政治部記者。その間に政治コラム「まつりごと考」連載。世論調査部長、解説部長を経て論説副委員長。読売新聞戦争責任検証委員会の責任者、長期連載「昭和時代」プロジェクトチームの代表をつとめた。現在は調査研究本部主任研究員。
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