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    世界史と日本史を融合した新しい近現代史を物語風に紹介します。

    <維新政府、変革の序章>第9回~廃仏毀釈と「廃城」の跡

    神仏分離令

     1868年1月、新政権樹立の際に発せられた「王政復古の大号令」には、「諸事、神武(じんむ)創業の始めにもとづき」との表現がありました。つまり、「神武天皇の国家創業」への復帰が掲げられたのです。

     徳川幕府から権力を奪取した維新政府は、新しい政権の権威と正統性の理念を求めていました。そこで着目したのが、古代天皇の神権的な絶対性でした。

     政府は、同年4月5日、国学者や神道家らが建言していた神祇官(じんぎかん)(701年の大宝律令(たいほうりつりょう)で置かれた、神々の祭祀(さいし)をつかさどる官庁)の再興を布告します。

    • 五榜の高札(埼玉県上尾市教育委員会提供)
      五榜の高札(埼玉県上尾市教育委員会提供)

     同7日には、一般民衆向けの「五榜(ごぼう)高札(こうさつ)」(5枚の立札)で、「切支丹邪宗門(きりしたんじゃしゅうもん)」を厳禁しました。

     さらに4月20日、江戸時代の仏教政策を否定し、神社から仏教色を排除するため、「神仏分離令」を出します。

     これらは、いずれも「神道国教化」をめざした措置で、70年2月には、新しい国教を広めるための「大教宣布(たいきょうせんぷ)(みことのり)」が発せられます。

     日本の宗教の主流は、1000年以上にわたって「神仏習合(しんぶつしゅうごう)」でした。これは、朝鮮や中国などから伝来してきた仏教信仰と、日本固有の神祇信仰とを融合・調和させたものです。

     神仏習合が進む中で生まれたのが「本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)」でした。これは「本地(ほんじ)である仏・菩薩(ぼさつ)が、衆生(しゅじょう)(生きとし生けるもの)を救うために、日本の神々に姿を変えてこの世に現れた(=垂迹)」という思想です。例えば、阿弥陀如来(あみだにょらい)の垂迹が八幡神(はちまんじん)などと説かれました。

     この考え方からすると、仏が神よりも尊い存在と位置づけられます。さらに江戸時代、寺が檀徒(だんと)に対して、キリシタンではなく自分の檀家(だんか)であることを保証した「寺請(てらうけ)制度」が、寺院・住職の権限を強めることになりました。

     このため、お寺(寺院)とお宮(神社)が隣り合わせで併存している場合は、神社より優位にあった寺院が、その主導権を握りました。神仏分離令は、いわばこの仏と神の地位を逆転させようとしたのです。

     政府は全国の神社に対して、僧侶が社務(神社の事務)に従事することを禁止したり、社務に就く場合は全員還俗(げんぞく)(僧から俗人に戻ること)して、僧位(そうい)僧官(そうかん)を返上させたりしました。

    仏像破壊のあらし

     神仏分離令が出されて以降、日本全国で吹き荒れたのが、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)のあらしでした。「毀釈」とは、釈迦の教えを捨てるという意味です。

     廃仏毀釈は、江戸時代の17世紀、会津藩や水戸藩、岡山藩などで小規模ながら行われていましたが、明治初期の廃仏毀釈は、これとは比較にならない大きさと広がりをもっていました。

     神仏分離令が出されて数日後、近江(滋賀県)の比叡山(ひえいざん)山麓にある日吉山王社(ひえさんのうしゃ)が武装した一団に襲われました。日吉社は延暦寺(えんりゃくじ)の鎮守神でした。

     首謀者は神職の樹下茂国(じゅげしげくに)で、政府の神祇官の事務局に名を連ねていました。樹下は、諸国の神主で作る「神威隊」50人と農民ら数十人を率いて、神域に乱入すると、神体として安置されていた仏像や仏具、経巻(きょうかん)類を破壊し、焼き捨てました。

     樹下ら日吉社の神職は、それまで延暦寺の僧たちの指示に従って勤めてきました。樹下には、積年の恨みがあったようで、仏像の顔を弓矢で射とめて快哉(かいさい)を叫んだといわれています。

    • 神奈川県鎌倉市「鶴岡八幡宮寺」にあった多宝塔(フェリーチェ・ベアト撮影、1868年、WellcomeLibrary蔵)
      神奈川県鎌倉市「鶴岡八幡宮寺」にあった多宝塔(フェリーチェ・ベアト撮影、1868年、WellcomeLibrary蔵)

     各地で廃仏運動は活発化し、京都では、薬師如来の垂迹とされる牛頭天王(ごずてんのう)(まつ)祇園社(ぎおんしゃ)が、八坂(やさか)神社と社号を改めさせられました。奈良の興福寺では、春日大社との分離に伴って僧侶が全員還俗し、同大社の神官に転じたため、廃絶の状態になりました。五重塔を250円、三重塔を30円で売却、買い主は金具をとるために焼こうとしましたが、周辺住民の強い反対によって消失を免れました。

     鎌倉の鶴岡八幡宮では、仁王門や護摩堂、源実朝(さねとも)が中国の(そう)から取り寄せたという一切経(いっさいきょう)を所蔵する輪蔵(りんぞう)多宝塔(たほうとう)鐘楼(しょうろう)薬師堂(やくしどう)などが、1870年6月のわずか十数日のうちにすべて破却されてしまいました。

     このほか、薩摩藩では69年、藩主の菩提寺が廃寺になり、その後、1060の寺院が破却されました。数年間、藩内に一つの寺院も、一人の僧侶も見られなくなったと言われています。富山藩では70年、領内の1635の寺院のうち、6つの寺院が存続を許されたほかは、すべて廃寺とする政策がとられました(『佛教大事典』)。

     これに対して、過剰な仏教排撃が政府批判に結びつくことを懸念した維新政府は、71年4月、政府の許可なしに仏像などの排除を禁止するとともに、地方官による寺院の強引な統廃合を制限しました。

     寺院の破壊は68~76年ごろまで続いたとされ、破却され廃寺になった寺院数は、当時存在した寺院のほぼ半数に上るといわれています(『日本仏教史辞典』)。

     廃仏毀釈により多くの貴重な文化財が失われました。この”暴風雨”については、「国学的な思想が『原理主義化』した例とみることができ、攘夷(じょうい)感情のなかで育まれた『純粋な日本』の復興という情熱が、維新期社会の興奮のなかで一気に暴発した」(坂本多加雄『明治国家の建設』)といった分析があります。

    キリシタン弾圧

     政府が「切支丹」を厳禁したのは、開国に伴うキリスト教の浸透を、神道国教化の上からも防ぐ必要があると考えたからです。

     徳川幕府も、宣教師やキリスト教信者を迫害してきました。すべての庶民を対象に、踏み絵によって「宗門改(しゅうもんあらた)め」を実施。17世紀末には、日本からキリスト教徒はほとんど姿を消したとみられていました。

     しかし、19世紀半ば、フランスのカトリック宣教師らが琉球・那覇へ布教のために来訪し、1865年には、居留外国人のため長崎に大浦(おおうら)天主堂(てんしゅどう)を建てました。そこを近郊の浦上村に住む隠れキリシタンたちが訪ね、以来、村民たちは公然と信仰を表明するようになります。

     九州鎮撫(ちんぶ)総督兼長崎裁判所総督に着任した政府参与・沢宣嘉(さわのぶよし)は、浦上のキリシタン徹底弾圧の方針を固めます。

    • 「浦上四番崩れ」で津和野に流された信徒。帰郷後に撮影(「信仰の礎」より)
      「浦上四番崩れ」で津和野に流された信徒。帰郷後に撮影(「信仰の礎」より)

     浦上では江戸時代、過去3回にわたり「浦上崩(うらがみくず)れ」と称されたキリシタン検挙事件が起き、長崎奉行所が捕らえた信者の中から獄死者が相次いだ歴史がありました。

     維新政府は、御前会議で浦上の全キリシタンを流刑に処することを決めます。まず、中心人物の114人を捕らえて、津和野・萩・福山の3藩に配流(はいる)し、さらに3384人の老若男女の信徒を、西日本の20藩に流罪としました。流刑中に613人が死亡したといわれます(『国史大辞典』)。 

     政府の切支丹禁止に続いて、この4回目の「浦上四番崩れ」に対しては、在日外交団から批判の声が沸き上がり、とくに米欧歴訪中の岩倉使節団に対して、訪問先で各国から抗議が寄せられました。このため、政府は73年2月、切支丹禁止の高札を撤去し、キリスト教はようやく活動の自由を得ます。

     さらに、仏教側の抵抗・反撃も強まり、「寺請け」制の神社版である「氏子調べ」制も、うまくいかず、1年10か月で廃止されました。廃藩置県後、神祇官は神祇省に格下げされて間もなく廃止されます。神道を唯一の宗教として国民に教化・定着させる政策は行き詰まりました。

     一方、政府はこの間、全国の神社を行政管理の下に置き、神職の世襲廃止や神社の社格を定める制度づくりを進めました。

     社格とは、神社を神祇官所管の官社と地方官所管の諸社に分け、官社は官幣社(かんぺいしゃ)(大社・中社・小社・別格官弊社)と国幣社(こくへいしゃ)(大社・中社・小社)とし、諸社も序列化しました。

     こうして天照大神(あまてらすおおみかみ)を祀る伊勢神宮を頂点に、これら多数の神社を国家制度の枠の中に組み入れます。

    消えた144城

     廃藩置県のあとは、「廃城」の波が押し寄せました。

     「文明開化、旧物破壊の思想」が強かった明治初年、「封建遺制の象徴」として、「旧藩士らの反抗運動」の拠点として「障害物視」されたのが、全国各地の城郭(じょうかく)でした。当時は、現代と違って城郭を「文化財として保存しようとする考えは少なかった」ようです(森山英一『明治維新・廃城一覧』)。

     時代を遡りますと、徳川幕府は大坂夏の陣(1615年)で豊臣氏を滅ぼすと、諸大名に「居城以外の城は破却せよ」と命じました。城郭は一つに限って許すという「一国一城令」は、軍事力の削減を狙いとしており、各地で約400の城が数日のうちに取り壊されたといわれます。

     さらに、徳川幕府は武家諸法度(ぶけしょはっと)を制定し、居城以外に城を新築するのはもとより、無断で修理改築することも禁止しました。

     その結果、江戸時代末期には、幕府直轄の江戸城、大坂城、駿府城、二条城、甲府城、五稜郭(ごりょうかく)の6城をはじめ、諸大名の居城など合計180余りの城郭が存在していました。

     戊辰戦争は数多くの城を舞台に繰り広げられましたが、火砲の使用は、城郭の防御力の限界を露呈させ、明治維新後に城を取り壊してしまう藩も相次ぎました。

     廃藩置県後、城郭は兵部省―陸軍省の管轄となります。

    • 淀城跡
      淀城跡

     1873年1月、陸軍の6鎮台(軍団)・14営所(兵営)の全国配置が決まり、それらのほとんどが城郭内に置かれました。それに伴い、陸軍が軍用財産として残すものは「存城」、それ以外の、淀城など144城が「廃城」の対象になり、城郭建築は取り壊されることになりました。

     各地で城郭の保存・復興計画が進められるようになるのは、大正時代に史跡・国宝保存の法律が制定されてからのことです。

    「荒城の月」

    • 滝廉太郎(瀧廉太郎記念館提供)
      滝廉太郎(瀧廉太郎記念館提供)
    • 土井晩翠(明治34年頃、仙台文学館提供)
      土井晩翠(明治34年頃、仙台文学館提供)
    • 岡城跡(大分県竹田市)
      岡城跡(大分県竹田市)

     <春高楼(こうろう)の 花の(えん)/めぐる(さかずき)かげさして /千代の松が枝 わけいでし/むかしの光 いまいづこ>

     歌曲『荒城の月』は、『花』『箱根八里』『お正月』など、今も愛唱される歌を数多く残した、作曲家・滝廉太郎(たきれんたろう)(1879~1903年)の作品です。

     滝は1894年に東京音楽学校に入学し、ピアノを学びますが、同校が募集した中学教材用の唱歌に自作を応募、当選した曲が『荒城の月』でした。

     作詞者は土井(どい)晩翠(ばんすい)(1871~1952年)です。『小諸なる古城のほとり』で、同じように滅びゆく古城をよんだ島崎藤村と並び称された大詩人でした。

     土井は「『荒城の月』のころ」と題する、以下のような一文を残しています。

     <東京音楽学校から『荒城の月』の歌詞を求められた時、第一に思い出したのが、学生時代に訪れた「会津若松の鶴ケ城」だった。また、歌詞の3番の『垣に残るは(ただ)かづら、松に歌うは唯嵐』は、私の故郷「仙台の青葉城」の実況である。滝君は、この曲を、少年時代を過ごした竹田町(大分県竹田市)に帰省した際、その郊外の「岡の城址(じょうし)」で完成したのであった>

     大分県の南西部、南に阿蘇の山々を望む岡城は、1871年から72年にかけて天守をはじめ建造物は取り壊され、廃城になりました。

     滝は、『荒城の月』がおさめられた小曲集『中学唱歌』が発行されて1週間後の1901年4月、ピアノ・作曲研究のため、満3年の予定でドイツに出発します。バッハが大きな足跡を残した「音楽の都」ライプチヒで、メンデルスゾーン(1809~47年)創設の音楽院に合格し、留学生活を始めました。

     しかし、結核に冒された滝は、02年、やむなく帰国。大分市の父母のもとで療養生活を送りますが、03年6月、わずか23年10か月という短い生涯を閉じました。
     

    【主な参考・引用文献】

     ▽村上重良『天皇制国家と宗教』(講談社学術文庫)▽田中彰『明治維新』(同)▽安丸良夫『神々の明治維新』(岩波新書)▽鎌倉市市史編さん委員会『鎌倉市史 近代通史編』(吉川弘文館)▽今泉淑夫編集『日本仏教史辞典』(同)▽古田紹欽ら監修『佛教大事典』(小学館)▽坂本多加雄『明治国家の建設』中公文庫▽森山英一『明治維新・廃城一覧』(新人物往来社)▽一坂太郎『幕末維新の城』(中公新書)▽小長久子『滝廉太郎』(吉川弘文館)▽土井晩翠ら『日本現代文学全集22』(講談社)▽井上亮『熱風の日本史』(日本経済新聞出版社)

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    2017年08月09日 05時20分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
    プロフィル
    浅海 伸夫 (あさうみ・のぶお
    1982年から18年間、読売新聞の政治部記者。その間に政治コラム「まつりごと考」連載。世論調査部長、解説部長を経て論説副委員長。読売新聞戦争責任検証委員会の責任者、長期連載「昭和時代」プロジェクトチームの代表をつとめた。現在は調査研究本部主任研究員。
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